第116話:異なる価値観
国王歴1012年1月。北部凍土の集落を出発してから半年近い旅路を経て、レオとリリスは、ついに大陸の南端、密林地帯に足を踏み入れた。
凍てつく白銀の世界から、彼らが辿り着いたのは、鬱蒼とした緑がどこまでも続く、灼熱の密林だった。
これまでの旅は、モルグ・アイン山脈を越え、広大な平原を南下するという、まさに大陸横断の様相を呈していた。
旅の道中、凍土の魔族から教わったサバイバル術や、各地の魔族たちとの交流で得た知識が、彼らの旅を支えた。
しかし、この南部密林は、これまで彼らが経験したどんな土地とも異なっていた。
一歩足を踏み入れた瞬間から、レオは肌にまとわりつくような湿気と、これまで嗅いだことのない濃厚な土の匂いに包まれた。
頭上を覆い尽くす巨大な樹々の葉が日光を遮り、密林の内部は薄暗く、常に霧が立ち込めている。
どこからともなく聞こえる鳥のさえずりや、虫の羽音、獣の唸り声が、まるで生き物のように蠢く。足元の地面は、幾重にも重なった落ち葉と湿った土で柔らかく、一歩進むごとにカビ臭いような、生命の匂いが立ち上った。
「な、なによこれ……
暑苦しいし、じめじめしてるし、虫が多すぎるじゃないの!
北部の凍土の方が、よっぽどマシだったわ!」
リリスは、額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、不機嫌そうに言った。
彼女の服は、すでに湿気で肌に張り付いている。
「ここは、まるで生きている森のようだな……」
レオは、周囲を見渡しながら呟いた。
その声には、疲労よりも、この土地の持つ神秘的な雰囲気に圧倒されているかのような響きがあった。
「呑気なこと言ってる場合じゃないわよ!
こんな場所、地図にもほとんど載ってないし、道だってろくに整備されてないじゃない!」
リリスは、リュックの肩紐を掴み直し、茂みをかき分けながら先へと進んだ。
その足取りは重そうに見えるが、彼女は決して立ち止まろうとはしなかった。
密林の奥深くに進むにつれて、周囲の雰囲気は一層神秘的になっていった。
巨大な樹々の間を縫うように、発光するキノコや植物がひっそりと輝き、見たこともない奇妙な花が咲き乱れている。
空気中には、微細な光の粒子が漂い、まるで精霊が舞い踊っているかのようだ。
レオの魔力とリルは、この密林の生命力に呼応するように、微かに反応を示していた。
リルは、レオの胸元から顔を出し、周囲の光の粒子を捕まえようと、小さく手を伸ばしていた。
「グルル……」
遠くから、獣の唸り声ではない、不思議な響きが聞こえてきた。
それは、まるで大地の奥底から響くような、あるいは風が樹々の間を吹き抜ける音のような、自然の一部と化した声だった。
レオは、足を止めた。
「……あれは……」
リリスもまた、警戒に満ちた目で周囲を見つめた。
「まさか……密林の魔族かしら?
気配が、これまで出会ったどんな魔族とも違うわ……」
彼らが、その声のする方向へと慎重に進んでいくと、やがて、巨大なガジュマルの木を中心とした、小さな空き地に出た。
そこには、これまで出会った凍土の魔族とも、魔王城の魔族とも全く異なる、奇妙な姿の魔族たちがいた。
彼らは、肌に鮮やかな模様の刺青を施し、植物の葉や蔓を身に纏っている。
顔には動物の骨や羽飾りをつけ、その瞳は、まるで森の奥底を覗き込むかのように、深く澄んでいた。
彼らは、ガジュマルの木の根元で、円を描くように座り、静かに瞑想しているかのようだった。
その手には、木の実で作られたような楽器や、獣の骨で作られた装飾品が握られている。
彼らの周りには、微かに発光する小さな精霊のような光が舞い、その空間全体が、強い生命力に満ち溢れていた。
「精霊……信仰、なのか」
レオは、彼らの放つ独特の空気に、圧倒された。
彼らは、人間や他の魔族が持つような明確な社会構造や、力による支配という概念とは無縁のように見えた。
彼らは、まさに「自然の一部」として、この密林と共に生きているのだ。
リリスもまた、その光景に言葉を失っていた。
「何なのよ、この連中……。
気配が薄すぎるわ。
まるで、森と同化しているみたい……」
彼女は、普段の強気な口調を忘れ、珍しく戸惑いを露わにしていた。
魔族の中でも、これほどまでに自然と一体化した存在は、彼女の知識にはなかった。
彼らが人間よりも遥かに古くから存在し、その間に独自の「価値観」を築き上げてきたのだということを、リリスは肌で感じ取っていた。
レオが、彼らに向かってゆっくりと一歩踏み出した。
しかし、その瞬間、地面から数本の蔓が伸び、レオの足元を絡め取った。それは、攻撃ではない。
まるで、「これ以上、近づくな」と警告しているかのようだ。
座っていた魔族たちが、ゆっくりと顔を上げた。
彼らの瞳は、感情を読み取ることができないほど深く、レオとリリスをまるで森に迷い込んだ小さな生き物のように見つめていた。
彼らの口から、言葉が発せられることはなかった。代わりに、密林全体がざわめき、樹々の葉が擦れ合う音が、まるで彼らの声のように響き渡る。
「な、何よこれ!?」
リリスが、自身の魔力で蔓を払おうとしたが、蔓はまるで意思を持っているかのように、彼女の魔力を受け流した。
「彼らは……
俺たちを拒否しているのか」
レオは、蔓に絡め取られた足を見つめた。
彼らの拒絶は、凍土の民のような敵意ではなく、森が異物を排除しようとするような、純粋な隔絶だった。
この密林の魔族たちは、凍土の民が人間との戦いの中で心を閉ざしたのとは異なり、元来から人間や外の世界とは深く関わろうとしなかったのだろう。
彼らにとって、外の世界の価値観は、森の調和を乱す「異物」でしかなかった。
レオが抱く「人間と魔族の共存」という理想は、彼らにとっては理解不能な概念かもしれない。
彼らは、そもそも「人間」という存在を、森の生態系の一部として認識しているのだろうか。
それとも、単なる害敵と見なしているのだろうか。
レオは、彼らのあまりにも異なる価値観の壁に、深い戸惑いを覚えた。凍土の民との交流で得た自信が、この密林の奥深くで、早くも揺らぎ始めていた。
この新たな出会いは、レオにとって、これまでで最も困難な「理解」の試練となるだろう。
彼らは、言葉を超えた、そして価値観を超えた、真のコミュニケーションを築くことができるのだろうか。
密林の精霊たちは、静かに、そして厳かに、レオとリリスを見つめていた。
彼らの試練は、ここからが本番だった。