第115話:凍土の盟約
凍土の魔族の集落に、わずかながらも温かな空気が流れ始めた頃、集落に異変が起きた。
数日間にわたる猛吹雪が吹き荒れ、集落と外界を結ぶ唯一の道が、大規模な雪崩によって寸断されてしまったのだ。
食料の備蓄は乏しく、狩りに出ることも困難な状況に、集落全体が静かな不安に包まれた。
普段は感情を表に出さない屈強な魔族たちも、この時ばかりは厳しい表情で空を見上げ、深く憂慮していた。
族長が、静かにレオとリリスの小屋を訪れた。
「……ミチガ……ヒラカネバ……」
彼の言葉は途切れ途切れだったが、リリスはすぐにその意味を理解した。
「道が閉ざされたままでは、狩りもできず、食料が尽きるということね。
私たちに、どうしろと?」
族長は、レオの目をじっと見つめた。
その瞳には、彼らの最後の希望を託すかのような、切実な光が宿っていた。
「……シレン……トモニ……」
リリスが、その言葉を翻訳した。
「彼らが、道を開くための『試練』に、貴方に参加してほしいと言っているわ。
彼らにとって、これは部族の存続をかけた重大なことなのよ」
レオは、族長の真剣な眼差しを受け止めた。
彼らが、ようやくレオを信頼し、協力を求めてきたのだ。
「わかった。喜んで参加しよう」
レオは、迷わず答えた。
試練は、想像以上に過酷なものだった。
道が寸断された場所は、集落からさらに奥深く、モルグ・アイン山脈の最も危険な地域に位置していた。
そこは、常に地吹雪が舞い、視界が悪く、足元は深い雪と氷に覆われている。
族長が率いる精鋭の魔族数人と共に、レオ、そしてリリスもこの試練に挑むことになった。
「まったく、こんなことまで付き合わされるなんて。凍死したら、貴方のせいだからね!」
リリスは、分厚い毛皮のコートに身を包みながら、不平を言った。
しかし、その顔には、レオへの信頼と、凍土の民を救うという決意が宿っていた。
一行は、吹雪の中を進んだ。
レオは、自身の覚醒した魔力で、足元の氷を温め、足場を確保しながら進んだ。
彼の魔族としての能力は、この過酷な環境でこそ真価を発揮した。
彼は、人間だった頃の勇者の力とは異なる、より自然と調和した形で、周囲の環境に影響を及ぼすことができたのだ。
しかし、試練はそれだけではなかった。
道中、彼らは凶暴化した魔獣の群れに遭遇した。
猛吹雪の影響で、食料を求めて活発化した魔獣たちだ。普段ならば、狩りの獲物となるはずの彼らが、飢えに駆られて人間や魔族に襲い掛かってきた。
「グルオォォォォォッ!」
体長数メートルにも及ぶ巨大な白狼が、唸り声をあげて襲いかかってきた。
鋭い爪と牙は、岩をも砕く勢いだ。
凍土の魔族たちは、巧みな連携でそれを迎え撃つ。彼らは、厳しい環境で培われた、素早く正確な動きで魔獣をかわし、致命傷を与えていく。
レオもまた、彼らと共に戦った。
彼は、かつての勇者としての剣技と、魔族としての覚醒した力を融合させ、魔獣たちを圧倒した。
彼の剣から放たれる斬撃は、吹雪を切り裂き、魔獣を吹き飛ばす。
その中でも、レオは、凍土の魔族たちが決して無理をせず、無駄な犠牲を出さないように戦っていることに気づいた。
彼らは、個々の強さだけでなく、部族としての連携と、知恵によって、この厳しい世界を生き抜いてきたのだ。
「まったく、見慣れない魔獣ね。
でも、これくらい、どうってことないわ!」
リリスは、魔力を解放し、周囲の空間を凍らせて魔獣の動きを封じた。
彼女の魔力は、この凍土の環境と相まって、普段以上に強力になっていた。
その口調とは裏腹に、彼女はレオの背中を守るように、的確に支援魔法を放っていた。
死闘が続いた。
一行は、次々と襲い来る魔獣を退け、ついに雪崩の現場に到達した。
しかし、そこは想像以上の惨状だった。
数十メートルにも及ぶ雪と氷の壁が道を塞ぎ、その下には、かつて人間が行き来していた街道の残骸が、無残にも埋もれていた。
「コレデハ……」
族長の顔に、絶望の色が浮かんだ。
彼らの力だけでは、この雪と氷の壁を取り除くことは不可能に思えた。
その時、レオは一歩前に出た。
彼の全身から、覚醒した魔力が放出され、周囲の空気を震わせた。
「リル、力を貸してくれ!」
レオが胸元のリルに語りかけると、リルは彼の言葉に応えるように、その小さな体を光らせた。
その光は、レオの魔力と融合し、彼の腕を包み込んだ。
レオは、両手を雪崩の壁に向け、ゆっくりと魔力を集中させた。
「喰らえ……! エーテル解放!」
彼の口から放たれた言葉とともに、膨大な魔力が雪と氷の壁に叩きつけられた。
それは、ただの破壊ではなかった。
レオの魔力は、雪と氷の結晶構造を内部から不安定にさせ、巨大な壁を、まるで砂のように崩れさせていく。
轟音とともに、雪と氷の壁が、ゆっくりと、しかし確実に崩壊していく。
凍土の魔族たちは、その光景に目を奪われた。
彼らが知る魔力とは、かけ離れた、圧倒的な力だ。
そして、その力は、ただの破壊ではなく、閉ざされた道を切り開く、希望の光だった。
やがて、雪煙が晴れると、その先には、再び外界へと続く道が現れた。
族長は、レオの前に跪いた。
「……マサカ……コレホドノ……」
族長の顔には、畏敬と、そして、深い感動の表情が浮かんでいた。
彼は、自らの額を地面に擦り付け、部族の言葉で、深く、何かを語り始めた。
リリスが、その言葉を、震える声で翻訳した。
「彼は……貴方を……この部族の……『真の導き手』と認めたわ」
彼女の目にも、かすかに涙が浮かんでいた。
「そして……この凍土の民は……貴方に……永遠の忠誠を誓う、と」
族長の言葉に、他の魔族たちも一斉に膝を突き、レオに忠誠を誓った。
彼らの瞳は、もはや警戒の色はなく、ただひたすらに、レオへの信頼と希望に満ちていた。
彼らは、長年人間に対して抱いてきた不信感を、レオの真摯な姿勢と、覚醒した力によって、完全に溶かされたのだ。
この日、凍土の民は、新しい魔王レオに、盟約を交わした。
それは、言葉の壁を越え、深い共感と信頼によって結ばれた、真の絆の証だった。
北の凍土から、人間と魔族の共存という、レオの壮大な夢への第一歩が、今、確かなものとなった。