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第114話:氷を溶かす心

 北部凍土の魔族の集落に滞在して一月が経とうとしていた。


 レオは、日々、この凍土の民の生活に深く触れていた。

彼らは、過酷な自然環境と、人間からの長年の迫害によって培われた、独自の知恵と強さを持っていた。

その生活は極めて質素で、余計なものを一切排した、純粋な生存のための営みだった。


 朝、レオは、凍り付くような冷たい空気の中で目を覚ました。

小屋の外からは、もうすでに魔族たちの活動の音が聞こえる。

彼らは、夜明けとともに狩りに出かけたり、雪を溶かして水を得たり、枯れた木々を燃料として集めたりと、常に忙しく動いていた。


 レオは、彼らが水源として利用している、凍りついた小川へと向かった。

そこでは、何人かの魔族が、分厚い氷を砕く作業をしていた。

その中に、以前レオに憎しみを露わにした、片腕を失った若い魔族の姿があった。

彼の顔には、凍傷の跡が深く刻まれている。


 レオは、黙って彼らの隣に並び、自身の魔力を込めた拳で、氷を砕き始めた。

普通の人間であれば、素手で氷を砕くなど、凍傷になるのが関の山だが、魔族としての強靭な肉体と、覚醒した魔力を持つレオにとっては、さほど苦ではなかった。


 若い魔族は、レオの行動に一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに無表情に戻り、自身の作業を続けた。

しかし、その手つきは、以前よりもわずかに素早く、そして力強くなっているようだった。

レオが効率よく氷を砕いていく様子を、彼は横目でちらりと確認していた。


 「まったく、貴方は本当に……」

 リリスが、いつの間にかレオの隣に立っていた。

彼女の白い息が、凍てつく空気に溶けていく。


 「そんなことしたって、彼らが感謝するわけないじゃない。

無駄骨よ、無駄骨」

 リリスはそう言いながら、レオが砕いた氷の塊を、手際よく近くに置いてある桶へと運び入れた。

その動作は、まるで自然な共同作業のように見えた。


 「別に、感謝してほしいわけじゃない」

 レオは、淡々と言った。


 「彼らがどうやって生きているのかを知りたい。

そして、彼らが抱えている痛みを、少しでも理解したいんだ」


 彼の言葉は、凍土の風に乗り、周囲の魔族たちの耳にも届いたようだった。

彼らは、レオとリリスのやり取りを、まるで氷像のように固い表情で見つめていた。


 昼間は、魔族たちの狩りにも同行した。

彼らは、獲物となる巨大な雪獣の習性を熟知しており、巧みな連携でそれを追い詰めていく。

彼らの狩りの方法は、魔王城の魔族たちのそれとは全く異なり、より原始的で、自然と一体化したものだった。


 レオは、彼らが獲物を仕留めた後、決して無駄にしない姿に感銘を受けた。

肉は食料に、毛皮は衣類や住居の材料に、骨は道具に。

凍土の魔族たちは、自然の恵みを最大限に活用し、命を繋いでいた。


 彼らが獲物の血を、地面に撒き散らし、静かに祈りを捧げる姿を見た時、レオは彼らの自然への深い畏敬の念を感じ取った。

それは、かつて勇者として魔獣を討伐することしか考えていなかった自分には、理解できなかった感情だった。


 (彼らは、ただ生きているのではない。

この過酷な大地と、共に生きているんだ)


 レオの心に、深い共感が芽生えていく。

彼らは寡黙だが、その生き方そのものが、雄弁に彼らの哲学を語っていた。


 リリスもまた、最初は彼らの生活様式に戸惑っていたが、次第にその合理性と強靭さに感嘆の念を抱くようになっていた。


 「まったく、こんな場所でよく生き残っていられるわね。

私だったら、一日で凍死してるわ」


 彼女はそう言うものの、魔族たちが凍った魚を素早く捌く様子を、真剣な眼差しで見つめていた。

彼女自身、魔族としての本能が、彼らの知恵と技術に惹かれているようだった。


 リリスは、レオが魔族たちの作業を手伝う様子を見て、最初は批判的な言葉を投げかけていたが、最近では、彼が手伝うとスムーズに作業が進むことを知っていた。

彼女は、口では「貴方が邪魔してるんじゃないの?」と言いながらも、さりげなくレオが働きやすいように道具を渡したり、彼が気づかないうちに危険な場所を排除したりしていた。


 リルは、この凍土の民にとって、まさに「癒し」の存在だった。


 リルの小さな体から放たれる温かい光は、凍土の魔族たちの心を少しずつ温めていた。

特に、子供の魔族たちは、リルに興味津々だった。

彼らは、警戒心から最初は近づこうとしなかったが、リルがレオのポケットから顔を出し、彼らに向かって小さく手を振るような仕草を見せると、目を輝かせ、警戒心を解いていく。


 ある日、リルはレオの胸元からこっそりと抜け出し、幼い魔族たちの元へと飛び跳ねていった。

幼い魔族たちは、最初、驚いて身を固くしたが、リルが彼らの周りをぴょんぴょんと飛び跳ね、その小さな体から温かい光を放つと、彼らは次第に笑顔を見せ始めた。


 「グルル……」

 一人の幼い魔族が、そっとリルに手を伸ばした。

リルは、その小さな手に、まるで答えるかのように、体を擦り寄せた。

その瞬間、幼い魔族の顔に、この集落では滅多に見られない、純粋な笑顔が広がった。


 その光景を見ていた他の大人魔族たちも、最初は厳しい表情だったが、その光景に、わずかに頬を緩ませた。

リルは、言葉の壁を越え、彼らの心の奥底に眠っていた温かさを引き出していた。


 レオは、リルが魔族たちの警戒心を解いていく様子を見て、自身の行動が間違っていないことを確信した。

言葉だけでは伝わらない。行動と、そして共感によって、初めて彼らの心の氷は溶けるのだと。


 彼は、夜、凍てつく空の下で、族長が一人、聖域の石碑の前で静かに佇んでいるのを見た。

その背中は、この部族が背負ってきた悲しみと、未来への重圧を物語っているようだった。


 レオは、族長の隣に座り、何も言わずにただ、共に夜空を見上げた。

凍土の星は、まるでダイヤモンドのように瞬き、遠くの銀河が、無限の宇宙を描いていた。


 沈黙が続いた。


 やがて、族長が、普段の唸り声とは異なる、かすれた声で、レオに語りかけた。

それは、族長の言葉と、魔王城の共通語が混じり合った、不器用な言葉だったが、その心は痛いほどに伝わってきた。


 「……キサマノ…メ…

アノトキ…ユウシャ……チガウ…」

 族長は、レオの目を見つめた。


その瞳には、長年の警戒と、そして、かすかな希望が入り混じっていた。


 「オマエ……コノチデ……ナニモトメル」

 レオは、族長の言葉に、静かに、しかし力強く答えた。


 「俺は、お前たちを救いに来た。

そして、人間と魔族が、手を取り合える世界を創るために来た」


 族長は、レオの言葉をじっと聞き、再び夜空に目を向けた。

その表情は依然として寡黙だが、その瞳の奥には、確かな変化が生まれていた。


 レオの共感力と、リルがもたらす温かさは、凍土の魔族たちの心の奥底に閉じ込められていた感情を、少しずつ揺り動かしていた。

彼らの心の氷は、まだ完全に溶けたわけではない。

しかし、その表面には、確かにひびが入り始めていた。


 この地での滞在は、単なる通過点ではない。

それは、レオが新しい魔王として、真に魔族たちの心を理解し、彼らの信頼を勝ち取るための、重要な試練の場となっていた。


 凍土の民との深い交流は、次の段階へと進もうとしていた。

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