第113話:凍土の民
若い魔族の瞳からこぼれ落ちた涙は、一筋の希望の光だった。
だが、それは長年凍てついていた憎しみの氷を一瞬溶かしたに過ぎない。彼の周りの魔族たちも、わずかに警戒を緩めたものの、その表情は依然として固く、レオとリリスに対する疑念は根深く残っていた。
族長らしき、一番体格の大きな魔族が、沈黙を破った。
彼は、低い唸り声でリリスに何かを問いかけると、リリスもまた、これまでとは異なる、敬意を込めた口調で応じた。
言葉は、レオには理解できない、彼らの部族に特有の響きを持っていた。
短い、しかし濃密なやり取りの後、族長はレオを一瞥し、重々しく頷いた。
「まったく、面倒なことになったわ」
リリスが、レオの方を振り向いて、不機嫌そうに言った。
「どうやら、一時的にこの集落の端に滞在することを許されたわ。
ただし、勝手な行動は許さない、だと。
あと、変なものには触るな、とさ。
まったく、口うるさいんだから!」
そう言いながらも、リリスの表情には、安堵の色が浮かんでいた。
族長が、彼らの滞在を許したということは、大きな進展だった。
彼らが案内されたのは、集落の最も外れにある、粗末な石造りの小屋だった。内部は簡素で、毛皮が敷かれているだけの質素なものだ。
「まったく、こんなボロボロの小屋に、私たちが泊まるなんて……」
リリスは、不平を漏らしながらも、手際よく荷物を運び入れた。
レオは、小屋の中から集落全体を見渡した。
ここに暮らす魔族たちは、屈強な体つきをしており、顔には部族特有の刺青や傷跡が刻まれている者が多かった。
彼らの目は鋭く、滅多に感情を表に出すことはない。その寡黙な佇まいは、厳しい凍土での生活が彼らの肉体と精神を鍛え上げたことを物語っていた。
翌日以降、レオとリリスは、この凍土の民との交流を試みた。
しかし、その道のりは想像以上に困難だった。
まず、言葉の壁が厚かった。
魔王城の魔族たちとの共通言語も、彼らにはほとんど通じない。
リリスがかろうじて彼らの言葉を理解し、通訳するものの、彼らは極めて寡黙で、必要なこと以外はほとんど口を開かなかった。
「ねえ、そこの角生やした人!
貴方、昨日のスープの材料は何を使ったのよ?
いったいどんな植物を使ってるの?」
リリスが、集落で作業をしている魔族に問いかけた。
その魔族は、レオたちを一瞥すると、低く唸るような声で何かを呟き、再び黙々と作業に戻った。
「……全く。
何言ってるのかさっぱりだわ。
これじゃ、コミュニケーションが取れないじゃない!」
リリスは、苛立ちを隠せない様子で、レオに振り返った。
「貴方が魔王になるって言っても、こんな連中をまとめるのは至難の業よ!
だって、まともに会話すらできないんだから!」
レオもまた、彼らの寡黙さに戸惑っていた。
彼らは、必要最低限の身振り手振りで意思を伝え、それ以上は踏み込ませようとしない。
まるで、分厚い氷の壁で心を閉ざしているかのようだった。
(彼らが言葉を多く持たないのは、この厳しい環境で生き抜くために、無駄な感情のやり取りを排してきた結果なのか……)
レオは、彼らの生活を観察した。
彼らは、日が昇る前から活動を始め、夜遅くまで狩りや、住居の修繕、氷からの水の確保などに従事していた。その一つ一つの動作は無駄がなく、生命を維持するための最低限の動きだけを繰り返しているかのようだった。
集落の中心には、他の住居よりも一回り大きな石造りの建造物があった。
そこは、この部族にとっての聖域であり、過去の悲劇を物語る場所でもあった。
ある日、レオとリリスがその建物の近くを通りかかると、族長と数人の長老たちが、そこで静かに何かを捧げているのが見えた。
彼らの表情は、厳かで、深い悲しみが宿っているようだった。
リリスが、その様子をじっと見つめ、静かにレオに語りかけた。
「あれは……
弔いね。
過去に犠牲になった者たちへの、祈りよ」
彼女の言葉は、普段の口調とは異なり、どこか物悲しさを帯びていた。
「この部族は、人間との戦いで、多くの仲間を失ってきた。
特に、若い命が奪われる度に、彼らは心を閉ざし、言葉を失っていったのよ」
リリスは、その聖域に目を向けた。
その内部には、簡素な石碑がいくつも並べられているのが見えた。
一つ一つの石碑は、犠牲になった者たちの象徴なのだろう。
そして、リリスは、若い魔族が「姉を奪われた」と訴えていたことを思い出した。
「彼らが寡黙になったのは、言葉にするにはあまりにも辛い、悲劇を何度も経験してきたからよ。
言葉が、悲しみを呼び覚ますだけだから……」
その言葉は、レオの胸を深く締め付けた。
以前の彼の行動が、彼らからさらに多くを奪い、心を深く傷つけたのかもしれない。
彼は、かつて勇者として、正義のためにと信じて剣を振るった。
しかし、その剣が、目の前の魔族たちから、言葉と感情、そして未来を奪っていたのだ。
彼らは、人間の侵略から逃れ、この過酷な凍土に身を隠し、ただひっそりと生きてきただけなのだろう。
レオは、言葉にならない後悔と、彼らへの深い共感を覚えた。
彼は、あえて言葉を多く発することはしなかった。
その代わり、彼は集落の作業を手伝い始めた。
凍った土を掘り起こし、水源を確保する手伝いをしたり、狩りに出かける魔族たちの後を追い、獲物を運ぶのを手伝ったりした。
最初は、魔族たちは彼を警戒し、遠巻きに見ていた。
しかし、レオが黙々と、そして真摯に作業に打ち込む姿を見て、彼らの間に、微かな変化が生まれた。
特に、一番寡黙で屈強な族長は、レオの行動をじっと見つめていた。
彼の目には、疑念の色が残っているものの、かつてのような激しい敵意は薄れていた。
「まったく、貴方って人は……。
言葉も通じないのに、何でもかんでも手伝おうとするんだから」
リリスは、レオのそんな姿を見て、呆れたように呟いた。
「余計なことをして、邪魔になるんじゃないわよ。
彼らが迷惑がってるわ」
そう言いながらも、彼女はレオが手伝った作業の成果を、密かに確認していた。
彼女の瞳は、レオが彼らの間に溶け込もうと努力する姿を、温かい眼差しで見守っていた。
リルもまた、レオのポケットから顔を出し、彼らの生活を興味深く観察していた。
彼女の小さな体から放たれる温かい光は、凍土の寒さとは対照的に、魔族たちの心を少しずつ温めていた。
リルは、言葉を話さない魔族たちとも、何か通じ合うものがあるようだった。リルが顔を出すと、最も幼い魔族たちが、警戒しながらも、小さく手を振るような仕草を見せることもあった。
数日が過ぎた。
レオとリリスは、依然として集落の正式な客人とは言えないまでも、彼らの存在は、もはや「侵入者」として扱われることはなかった。
言葉の壁は依然として厚く、彼らの寡黙な性質は変わらない。
しかし、レオの真摯な行動と、リリスの懸命な仲介によって、彼らの間に、見えない糸が結ばれ始めていた。
凍土の夜空は、相変わらず厳しく冷たい。
しかし、彼らの心の中には、新たな希望の光が、かすかに灯り始めていた。
それは、言葉を必要としない、心の通じ合いへの、静かな予感だった。