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アカデミア・アルカナ物語 -星と精霊の子-  作者: Mitch
春の旅立ち、そして
3/3

第三章 静かなる侵蝕

Scene9「灰の谷の一日」


 霧が立ち込める谷を、四人の人影がゆっくりと進んでいた。

 灰の谷──それがこの地の名である。古の火山活動で幾年にも渡って火山灰が折り重なって形成された土地だ。千年前の”灰嵐の災厄”によって魔素が充満し、生物もほとんど生息していないし訪れる人間も滅多にいない。近年ではその魔素も薄れてきており、火山灰の凝固によってできた特殊な土地柄から希少な鉱石や薬草の産地として知られている。そのため、学園では例年この地での課外授業が行われている。

 「なんだか……一段と霧が濃いね。」

 トマスが魔導羅針を覗き込みながら呟いた。

 「視界、数メートルちょっとってとこかな。熱反応も微弱……何かいる気配はないけど。」

 「さすがに野生の生物はいないんじゃないか?肌でも感じるくらい魔素があるし。」

 オスカーが肌をさすりながら言う。

 「あんまりよくわかってないんだけど……魔素が濃すぎると何が起こるの?」

 気恥ずかしそうに、少女──セレネ寮のレイ=ハルクスが尋ねる。

 全寮混合の四人一組の班、二人ずつは同寮の生徒で組まれており、オスカーとトマスは同じ班。残り二人はセレネ寮の女生徒だった。

 「魔素は基本的には魔力の源みたいなものなんだけど、濃度の高い魔素は生物の体内にある魔力に干渉してしまうんだ。少し濃い程度だったら気分が悪くなったり酔っちゃったりするくらいで済むんだけど、濃くなりすぎると魔力暴走を引き起こしたり幻覚を見せたり。それが原因で過去いろんな事件も起きていたりするんだ。」

 「そうなんだ……大丈夫かな、ここ……。」

 「学園が管理に携わっていて、毎年課外授業を行なっているし大丈夫よ。オスカー君、そっちに生えている植物、採っておいてくれる?」

 レイを宥めながらオスカーに指示を出したのは、もう一人のセレネ寮の少女、リセル=エイルス。

 穏やかだがキリッとした目元が印象的で、あまり口数は多くないが、班のまとめ役としてしっかりしている。

 「了解。……っと、足元に気をつけて……。」

 オスカーがしゃがみ込み、岩陰に生えていた白灰色の小さな植物──灰茴香を採取する。魔力を僅かに帯びるその草は、薬学の初歩実習で使われることが多い。

 「ありがとう。……これで予定の採取数、そろったわね。」

 「今日で谷の南端まで行くんだっけ?」

 「ええ。途中の観測地でお昼をとって、南の谷に移動。夕方には帰路に就く予定だと聞いてるわ。」

 霧の中で姿はよく見えないが、班ごとの移動の声や魔導道具の音が時折響く。

 まるで世界が白灰に包まれた別世界のようだった。

 ──……オスカー。──

 その時、不意に耳元で風が囁いたような感覚があった。

 オスカーは肩をすくめ、周囲を見渡す。

 「またか……?」

  声が風に溶けるように消えていったのと同時に、オスカーは眉をひそめた。胸の奥がひやりと冷たくなり、足元の灰がざらりと滑るような錯覚すら覚えた。

 「……オスカー?」

 トマスの声が届く。振り向くと、彼の顔にも戸惑いが浮かんでいた。

 「今……何か声が聞こえなかった?」

 「え、声……? いや、僕は……でも……なんだろう……変な、ざわつき……」

 レイも小さく呻いた。

 「……何だかゾワゾワする……。あのさ、気のせいかもしれないけど、空気が……なんというかさっきより濃い気がしない?」

 その言葉通り、霧の中の空気はただ重いだけでなく、何か得体の知れないものが混じっているように澱んでいた。澄んだ魔素ではなく、濁った何か──

 「……離れよう。ここは良くない。」

 リセルが即断し、班の先頭に立って歩き出す。口調は淡々としているが、その手にはしっかり護符が握られていた。

 オスカーもすぐに立ち上がろうとしたが、足に力が入らずその場でガクッと膝をついてしまった。

 「大丈夫!?顔が真っ青だよ!」

 トマスが駆け寄り叫んだ。

 「オスカーが落ち着くまで少し待とう」少し迷ったがリセルが提案する。

 「いや、少しでも早く離れよう……。大丈夫、動けるよ。」

 迷惑はかけられないと立ち上がるオスカーの表情に押され、三人は頷くしかなかった。

 周囲の霧が一段と濃くなり、声を発すればすぐに吸い込まれ、目には見えないが常にまとわりつくような、もうもうとした気配だけが薄気味悪く残る。

 班は予定を早めて合流地点へ向かった。すでに他の班もいくつか集まっており、似たような“気配”や“違和感”を訴える声が相次いでいた。


 *


 帰還報告が終わると同時に、指導教員たちはすぐに魔素濃度の再測定と結界の再確認を始めていた。マドラス副学園長は各班から事情を聞き取り、ソラリス先生は、精霊術的の観点から“異常な流れ”がなかったかを精査していた。

 オスカーたちの報告を聞いたソラリス先生は、眉をひそめつつも冷静な口調で言った。

 「……昨年の観測記録と照合しても、魔素の揺らぎに過剰な変動は見られません。ただし、複数班が“感覚的異常”を訴えたとなれば……一時的な共鳴現象の可能性もありますね。」

 「共鳴ですか?」

 副学園長が問い返すと、ソラリス先生が続けた。

 「“精霊痕”──つまり過去に精霊術が強く行使された場所では、稀に周囲の魔力と共鳴して“幻聴”や“幻視”といった影響が生じることがあるんです。谷の南部には、かつて何らかの術式が刻まれていた痕跡もあります。皆さんの訴えがそれに由来する可能性は高いですね。」

 「じゃあ……あの声も、幻聴……?」

 オスカーが呟く。どこか釈然としないものを抱えながら、目を伏せる。

 「心配しなくて大丈夫ですよ、オスカー君。」

 リナリーがそっと声をかけた。その表情は柔らかかったが、どこか遠くを見つめていた。

 「……でも、精霊は何かを感じていたかもしれませんね。微かに、何かが触れたような気配はありました。」

 その場にいた誰もが、それ以上は踏み込まない方がいいと直感していた。

 だからこそ、この“違和感”は言葉にされぬまま──霧のように学園の空気に溶けていった。


 *


 その夜。

 ノクス寮では、課外授業の疲れを癒すため、談話室の灯りもいつもより柔らかだった。

 オスカーは、自室の寝台で目を閉じながらも、霧の谷で感じた“冷たさ”を思い出していた。

 あの声、あの感覚──ほんの一瞬、頭の中をよぎった“何かがいる”という直感。

 だがそれよりも、自分だけが周りよりひどく気分を悪くしていたということに、徐々に困惑と恥ずかしさが込み上がっていた。気分を悪くする生徒は多かったが、歩くのがやっとというほど朦朧としていたのは、オスカーくらいなものだった。自分は弱いのか……そんな嫌悪感を呑み込みながら眠りにつく。

 同じころ、寮内の別の部屋では、トマスがノートを開いていた。

 「……やっぱり、あの魔素異常は通常の濃度変化じゃ説明がつかない……。」

 自分が記録していた魔力観測式に目と筆を走らせる。

 「ここをもっと細かく調整すれば、幻視領域の偏差が測れるはず……いや、もしかすると結界術と組み合わせれば……。」

 それは、後に学園に“波紋”を生む、ひとつの鍵となる記録だった。

 


Scene10「交差する歩みと眼差し」


 翌朝、ノクス寮の朝食風景はいつもと変わらず、穏やかな始まりを告げていた。

 オスカーはいつものように、トマスと並んで席につき、トレーに乗ったパンをかじる。ルークはその向かいで牛乳を飲みながら欠伸をかみ殺し、クリフは何も言わずにスープを口にしている。

 「ねえ、昨日の課外授業、やっぱりおかしかったよね?」

 フィオナが隣の席から声を潜めて言う。ハンナはふわりと髪を揺らしながら、「……風が、ざわざわしてた」と呟いた。

 「魔素のせいだろうけど、それだけじゃない気がするんだ。空気が、どこか生きてたような……。」

 オスカーの言葉に、トマスも神妙に頷く。

 「僕も気になる……魔素の濃度計が一瞬だけだけど異常な振れ方をしてた。あれは自然変動の範囲を超えてたよ。」

 だが、彼の言葉に誰よりも敏感に反応したのは、背後の席にいた、ややがっしりした少年だった。

 「なんだよ、まだお前ら騒いでんのか?昨日の谷でちょっと気分悪くなったくらいでビビりすぎなんだよ。」

 ダルキュス=セゾン=モルディビック──イグニア寮の生徒で、何かにつけて突っかかってくる厄介者だ。

 「ただ疑問に思ったことを話してるだけだよ」とオスカーが付け加えると、ダルキュスは肩をすくめるように笑った。

 「へぇ、ビビって腰抜かしたことを誤魔化そうとしてるだけだろ?」

 オスカーの顔に熱が籠る。が、オスカーが動くより早く、ガタッと隣で椅子が倒れる音が響く。

 「おい……それ以上適当なこと言ってみろ」ルークが勢いよく立ち上がる。

 「あん?なんだよ、文句あるのか?」

 ダルキュスも応戦の構えを見せる。

 触れたら弾けそうな緊張感に、周りもその行末を固唾を飲んで見守るしかなかった。

 「やめなさい」と、その破裂寸前の風船のような空間に凛とした制止の声がかかる。彼の後ろにいたもう一人のイグニア寮生、やや年上のようなしっかりとした雰囲気の少女だ。

 「ちぇっ……」不服そうにダルキュスが席を離れる。

 彼女もオスカーたち一瞥し「毎回毎回絡んできて、なんなんだあいつは……。」

 ルークが吐き捨てる。

 「構ってほしいだけなんでしょう、相手にしては気位が落ちるわ」とエリーゼが嗜めていると、

 「おはよう。思ったより元気そうで安心したよ。……灰の谷の課外授業、大変だったみたいだね。」

 愚痴をこぼしつつダルキュスの去っていった方を目で追っていると、不意に後ろから、重くも落ち着くような、それでいて爽やかなトーンの声がかかる。

 「ユリウス先輩……!」

 ノクス寮五年生、ユリウス=コーデュロイ。ノクス寮の監督生で面倒見が良く後輩からも慕われている。

 オスカーたちが一斉に姿勢を正すと、彼はにこりと笑った。

 「あれから体調不良を崩しがちな生徒もいると聞いているから、みんなも不調を感じたり、不審なことがあればすぐに上級生や先生に相談してほしい。」

 「はい!ありがとうございます!」

 それだけ言い残し、朝食トレイを片手に、彼の同級生が座っている席へ向かった。

 「はぁ……やっぱりユリウス先輩かっこいいなぁ……。」

 「なんだよフィオナ、先輩に惚れてんのか?」

 ニヤニヤしながらデリカシーなくルークが茶化す。

 「そ、そんなんじゃないよ!」真っ赤な顔で取り繕うフィオナ。

 そんな会話を耳にしながら、オスカーは胸の奥に残るざわつきとともに今日の授業に向けて席を立った。

 午前中の授業は、詠唱術の実践演習だった。

 

 *


 初等課程ではまだ複雑な構文は扱わないものの、魔法の発動における“言葉のリズム”や“感情の乗せ方”が重要視されている。

 講師は高齢の詠唱術専任教師のクラヴィス先生。声量は控えめながら、発声の抑揚に厳しく、板書ではなくその“耳”で生徒の成長を図る実技主義の教師だ。

 「では、本日教わった基本詠唱イル・ルミナを一人ずつ唱えてみなさい。声の強さではなく、魔力の律動に注意するように。」

 生徒たちは順に前に出て、発光呪文イル・ルミナの詠唱に挑戦する。

 「……イル・ルミナ……!」

 トマスが唱えると、手元から淡い光球が生まれ、ふわりと宙に浮かんだ。魔力の制御も安定していて、先生も頷いている。

 続いてルーク。少し適当な調子ではあるが、しっかり光が生まれる。

 「うん、問題なし。さすがですな。」

 そして、フィオナの番が来た。

 「いきます!イル・ルミナッ……あっ、ひゃっ!?」

 発動した光球が、まるで生き物のように暴れ出し、ふらふらと宙を漂った挙げ句、突然横へ飛んでルークの髪をかすめて飛び去った。

 「危ないな!?」

 「ごめん!力が入っちゃったかも……!」

 クラヴィス先生が落ち着くようフィオナを宥める。

 「焦りすぎです、バレンタイン嬢。詠唱とは“内なる静けさ”の反映でもあります。気合ではなく、調和を意識して。」

 「は、はぃ……。」

 フィオナはシュンと肩を落として席に戻った。

 その時、オスカーの席の近くで、ふっと空気が揺れたような感覚が走った。

 風でも、音でもない、目に見えぬ“ざわり”としたもの。

 それはほんの一瞬で、誰も気づいていないようだったが、オスカーだけがその“ぶれ”に反応していた。

 (……まただ。あの谷で感じたものに似てる……)

 キョロキョロと視線を教室の隅々に走らせる。だが、何もない。誰も、気づいていない。

 (気のせい、なのか?)

 半ば自分に言い聞かせるように反芻しながらも、オスカーの胸の奥には言葉にならぬ“ざわつき”だけが残っていた。

 講義が終わり、生徒たちが談笑しながら席を立つ中、ひとりオスカーは足元を見つめていた。

 「オスカー、どうしたの?授業終わったよ?」

 「あ、あぁ、ごめん、行こう。」

 フィオナの声で我に返り、皆と教室を後にした。

 「大丈夫?体調優れなかったら先生に言ったほうが……。」

 「いや、考え事していただけだから大丈夫だよ。」

 「ならいいけど……」取り繕うオスカーにそれ以上踏み込むことはできなかった。


 *


 午後の言語学の授業が終わり、寮へ戻ろうとしていた一行の中で、トマスが突如声を上げた。

 「……あれ? ない……!ノートが……。」

 ノクス寮の渡り廊下、窓から西日が射し込む中、彼は焦ったように肩掛け鞄の中をかき回していた。

 「どうした?」とルークが訊く。

 「授業で使ってる魔導ノート!課題と、僕の魔力応用計算のメモも全部入ってたのに……!」

 荷物を逆さに振り、筆箱や教科書が床にばらばらと落ちる。

 「いつまであったんだ?」

 「さっき授業の合間に図書塔で少し整理してて……演算式を書き留めてたんだ。戻るときに持ってたと思ってたんだけど……。」

 「……ということは、図書塔に忘れてきたのでは?」

 ジュディが声をかける。

 「そうだね、一度戻って探してみるよ!」

 トマスはそう言うと足早に図書塔に向かっていった。

 

 *


 その後、もうすぐ夕食の時間になろうという頃。

 ノクス寮の天体儀の部屋には、穏やかな魔法光が揺れていた。

 オスカーとルークは卓を囲んで魔導カードの遊びをしていたが、どこか集中力を欠いていた。

 ジュディとエリーゼは談話室奥の長椅子で本を読みながら静かに過ごしていた。

 その横でハンナは星の揺らぎを見つめ、神妙な面持ちをしていた。

 「……ねえ」ハンナがふいに声を上げた。

 「この部屋……なんか、少しだけ“色”が変わってる……。」

 「色……?」

 フィオナが首を傾げる。

 「うん。魔素の“流れ”が……濁ってる。少し前よりも、重い。微かに、だけど……。」

 ふわふわした声で言う彼女に、エリーゼが本から目を上げる。

 「また、あなたの“感覚”かしら?」

 「うん。精霊たちも、静かになってる。まるで、口を塞いでるみたいに。」

 「まさかそんな……。」

 部屋の空気が少しだけ緊張を帯びた。誰かがぞくりと背筋を撫でられたような気がしていた。

 その緊張感を解き放つかのように、トマスが重々しく扉を開け入ってきた。

 「よぉトマス、随分遅かったけど……その様子じゃノートは見つからなかったみたいだな……。」

 様子を察しながらルークが声をかける。

 「司書の先生に聞いても見てないって言われて……。」

 大きく溜息をつく。

 「まぁそのうち見つかるって!気を落とすなよ!」

 「う、うん……。」

 残念さとは別に、少しバツが悪そうな態度が少し気にはなったが、フィオナのお腹が食事時の調べを鳴らし気が紛れてしまった。

 「ご、ごめん……!」

 「そういえば俺も腹減ったな。さ、夕飯行こうぜ。」

 緊張も解けひとしきり笑った後、ルークの促しで食堂に向かうのだった。


Scene11「魔法科学と禁じられた法則」


 淡い光が差し込む午前の教室で、生徒たちのざわめきが波のように揺れていた。

 木製の机と椅子が整然と並ぶ中、ノクス寮の面々もそれぞれの席についている。

 今日は「魔法科学基礎」の授業。アカデミア・アルカナの初等科において、第二学期から本格的に履修が始まるこの科目は、魔法の構造や原理、演算理論を学術的に解き明かそうとする学問だった。

 呪文や感覚ではなく、数式や法則で魔法を記述することを目的とした、理論重視の授業だ。

 「……来た」誰かの小さな声に反応して、教室の空気が一変する。足音と共に、講師が姿を現した。

 「やあ、諸君。今日も元気そうで何よりだ!」

 白衣の上からさらに複雑な魔導装置をいくつも取り付けた奇妙な出で立ち。オレンジ色の髪は無造作に跳ね、眼鏡の奥で眼光が鋭く輝いている。

 アルフレド=シンドラー──魔法科学の講師であり、個性が強い学園の人間の中でもとりわけ変人として有名だ。

 「今日は魔法科学を学ぶ上での重要なテーマに入る。……“魔力の拡張因子”と“術式構造の変調”についてだ!」

 勢いよく黒板に杖を叩きつけると、瞬時に淡い光の文字が空中に描き出される。

 《魔力の拡張因子》《術式構造の変調》

 「《拡張因子》というのは、一部は君達も普段よく使用しているものだ。何かわかるかね、コールソン君?」

 「えと、杖とか箒とか……ですか?」おずおずと同じノクス寮のベンジャミン=コールソンが答える。

 「そう!その通りだ!」

 パンパン!と乾いた拍手が教室に響く。

 「要するに我々の持っている内なる魔力を魔法に転用する際に、それの補助や増幅をする媒体のことだ。」

 振り向き黒板に杖で板書し出すと同時に、生徒たちは一斉に手元の魔導帳にメモを取り始めた。

 「拡張因子は大きく分けて3つ、《媒体拡張因子》《内部拡張因子》《外部拡張因子》がある。」

 「媒体拡張因子に関しては、先ほど挙げてくれた杖や箒といったいわゆる魔導具類だ。こちらに関しては特に言うことはないだろう。今日教えるのは主に内部拡張因子についてだ。」

 「《内部拡張因子》とは術者の体質や能力に起因する“補正装置”の総称、または“魔力の上昇”そのものを指す。魔素と共鳴したり精霊と同調したり……。」

 オスカーの脳裏に一瞬、冷たく重い灰の谷の情景が浮かぶ。

 「先日君たちは高濃度の魔素中毒を経験しただろう?あれも共鳴作用の一種で、発症の度合いに個人差があったのは内部因子の素養が関係しているんだ。」

 そんなオスカーの心境を見透かすかのようにシンドラー先生は続けた。

 「内部因子、外部因子の研究はまだまだ発展途上でさらなる研究が求められるが……」

 内部因子による個人差……何気ない授業の内容ではあったが、課外授業でのことがあったから用意したのでは?と勘ぐりたくなるくらい、その単語でオスカーの気持ちは救われた。

 

 *

 

 「魔法というのは、本来“一定の構造”をもつ術式を、魔力で“完成”させて発動させる。だが──術式構造は一様でも、演算過程を変えることで“別の現象”を生み出せるんだ。」

 授業も後半にさしかかり、《術式構造の変調》についての説明が続いていた。

 「これを理解することで何ができるか……」アルフレドは机の上に置いた小型の魔導球を取り上げ、指先から魔力を流し込んだ。

 「この球には本来発光するだけの術式が組み込まれており、通常なら“発光”するだけの魔導具だ。だが──。」

 術式に触れた瞬間、球体から浮かび上がる図形が変化し、光が消えていき、終いには漆黒の球体へとなっていった。

 「術式構造はそのままに、演算過程を変化させ別の結果を得る。……これが“変調”だ。」

 オスカーはその現象に、どこか懐かしいような感覚を覚えていた。理屈では説明できないが、彼の魔力がほんの僅かに反応するのを感じた。

 「もちろん、全く異なる演算過程にするのは不可能だ。同じ属性や同様の事象を起こす演算に対してのみ変調することができる。今回は『発光』から『吸光』するように演算を”逆転”させてみたよ。」

 「ただしこの技術は“厳重に制限”されているんだ。術式の変調には“構造崩壊”や“暴走”のリスクがあるからね。初歩の段階では、絶対に独自で調整し演算の書き換えをしないように。」

 そこだけは声のトーンが厳しくなった。だが、その目には、抑えきれない好奇心が宿っている。

 「……危険かもしれない。だが、それこそが“魔法科学”の醍醐味でもある。因子の件でもそうだが、未知を知ろうとする意志、そこにこそ未来があると私は思う。」

 その言葉に、トマスは目を輝かせ、フィオナは「ちょっと怖いかも」とつぶやき、ルークは半分うたた寝していた。エリーゼは興味深そうに頷き、ハンナは黒板ではなく空中の何かを見ていた。


Scene12「夜のざわめきとほつれ」


 オスカーは再びあの場所にいた。

 ──灰の谷。けれどそれは、昼間に見た霧の谷ではなかった。空は深い灰に覆われ、地面はまるで溶けたようにゆらめいていた。足元に立つ草もなく、ただ、風すらも沈黙した空間だった。

 そして──声がした。低く、重く、囁くように。

 (……ふたたび……くる……)

 誰の声かはわからない。けれど確かに、耳ではなく、胸の奥に直接響いてくるような感覚。

 振り向いても誰もいない。ただ、灰の霧の向こうに、何か巨大な“気配”があるのを感じていた。得体の知れないそれが、こちらを見つめている──そんな錯覚。

 「誰だ……?」

 問いかけようとした瞬間、足元が崩れ、オスカーは重力のない空間に放り出される。声をあげる暇もなく、灰の霧が彼の口元を塞いでいった──。

 「……っ!」

 息を切らして、オスカーは跳ね起きた。額に汗が滲み、手は無意識に布団の端を握りしめている。

 外はまだ夜明け前。ノクス寮の窓から差し込む微かな星の光が、部屋の中に淡い陰影を落としていた。

 「……夢……だよな……。」

 つぶやきながら、彼はゆっくりと呼吸を整える。だが、胸の中のざわつきは消えない。あの声は、昨日の谷でも聞こえた“何か”と同じだった気がした。

 ふと、机の上に置いてあった魔導帳に目が止まった。何か、妙な違和感があった。

 近づいて手に取ると、表紙の端に、うっすらと紫がかった痕がにじんでいた。それは魔力の残滓──しかも、意図的に何かを書こうとして消えたような、不完全な演算式の“端”のようなものだった。

 (……いつの間に、こんな……)

 記憶にない。彼は昨日、この魔導帳を使用していない。

 そっと指先で触れてみると、微かにピリリとした感覚が走った。生きた魔力の痕跡……それも、彼自身のものではない。

 「……なんだ、これ……。」

 その瞬間、扉の向こうで誰かが寝返りを打つ音がした。ルークかトマスだろう。彼らを起こさないように、オスカーはそっと帳を閉じ、深く息を吐いた。

 何かがおかしい──そう思いながらも、言葉にすることはできなかった。胸の奥には、得体の知れない不安がゆっくりと積もり始めていた。


 *

 

 翌朝。談話室には、いつもよりやや重たい空気が流れていた。

 外は晴れているのに、どこか湿ったような、息がしにくい感覚。オスカーは昨日の違和感を引きずったまま、ルークやトマスと共に席に着いていた。

 「……あれ、なんか空気、変じゃない?」

 トマスがカップに注がれた紅茶を見つめながらぼそりと言った。

 「ん?そうか?いつも通りじゃないか?」

 ルークが軽く応じる。そんな中、ぼんやりと天井の星図を見つめていたハンナが、ふと呟いた。

 「……封の匂い……混じってる。」

 「なにそれ?」とフィオナが聞き返すと、ハンナはゆっくりと首を傾げながら言葉を継いだ。

 「古いのと、新しいの……二つの封が、ぶつかりそうな感じ。……気持ち悪い。」

 「ちょっと、変なこと言うのやめてよー!」

 フィオナが明るく笑ってごまかそうとするが、ハンナの表情は冴えない。彼女の目は、まっすぐに天井の星図を見つめていた。

 「この部屋、前よりも……息が浅くなる感じがする。」

 「空気がこもっていますか?換気の魔導板が止まってるかもしれません。」

 ジュディが冷静に答えるが、ハンナは小さく首を振った。

 「違う。これは……結界の息継ぎ、みたいな……」

 「……ま、深く考えすぎだな。気のせいさ。」

 ルークが明るく言いながら椅子の背に寄りかかる。

 けれど──オスカーは、ハンナが最後にそっと呟いた言葉を聞き逃していなかった。

 「……こわれそう、な音がする……。」

 その言葉が、彼の胸の奥に静かに残り続けた。

 

 *

 

 その夜、ノクス寮の塔が静けさに包まれている中、一人の少年の影が、学園の剣術訓練場から寮へと続く高台の小道を駆け抜けていた。

 訓練を終えたクリフの教練服はすでに何箇所もほつれており、髪も乱れたまま呼吸も浅く荒い。夜気が張り詰めたように冷たく、空には淡い星の光が浮かんでいた。

 ノクス寮の黒い尖塔が、丘の上に静かに立っていた。その姿は闇に溶け込みつつも、塔頂に灯された魔導灯だけが、寮の位置を確かに示していた。だが、その時、

 「……ん?」足を止めたクリフの視界の中で、塔の輪郭が、まるでゆらりと、風に吹かれる旗のように揺らめいたように見えた。

 (……今のは、なんだ?)

 まるで熱気に揺らぐ蜃気楼のような――あるいは、水面に映った影が崩れたような――そんな不自然な揺らぎ。

 しかもそれは、一瞬だった。塔の外壁の一部、上階の窓あたりが淡く瞬き、わずかに光が“明滅”したように見えたのだ。

 クリフは思わず眉をひそめる。魔導障壁の揺らぎ――それは、通常稼働している結界の安定が乱れている兆候であり、外的な干渉や、内部からの負荷、あるいは老朽化による魔力の不均衡など、様々な要因で引き起こされる。

 だが、ここはアカデミア・アルカナの寮区だ。学園の結界は日々自動調整されているはずで、そうそう不調を起こすものではない。

 (……いや、見間違いかもしれない。霧か、風か、あるいは訓練後で目が疲れていたのか。)

 そう思って視線を逸らしかけたそのとき――塔の最上階、図書塔と繋がるように伸びた隠し回廊の一角。そこに、ほんの一瞬だけ、薄青の光が“ともった”のを見た気がした。

 炎ではない、魔導灯のような、しかし結界とは違う脈動の光。

 すぐにかき消えるように消え、そこには何事もなかったように夜の静寂が戻る。

 「……おかしいな。気のせいか?」けれど、戦士の直感というべきか。クリフの身体のどこかが、“違和感”を覚えていた。

 翌朝、クリフは訓練後の報告を兼ねて、ノクス寮の寮監にその件を報告した。

 「なるほど……魔導結界が一瞬だけ明滅したように、ですか」

 寮監は静かに頷きながら、帳面に記録を付けていたが、すぐに視線を窓の外に向けて言葉を継いだ。

 「昨夜は少々風が強かったですし、夜霧が塔の灯りに反射した可能性もあります。魔導板の感知器にも異常は出ていませんし……。」

 その口調は、まるで“よくあること”のような扱いだった。

 「……そう、ですか」クリフはそれ以上何も言わなかった。だが、胸の奥に引っかかる感覚だけは、薄れなかった。報告を終えて寮塔を出ようとしたその時――塔の陰、最上階の影の中に、何かが“じっと見ている”ような気配がした。

 誰もいない、はずのその場所に、わずかに揺れた“気配”。

 クリフは振り返ったが、そこには風に揺れる木々の影だけがあるのみだった。


 *

 

 その日の午後、アカデミア・アルカナ中央棟の最上階、会議塔クレリカ・サークルの円形ホールでは、数人の教師たちが静かに卓を囲んでいた。

 天井は高く、魔法で浮かぶ万象図がゆっくりと回転し、世界各地の魔力変動や術式流の傾向を示している。学園内で重要な議題を扱うこの空間には、結界と静音魔法が張られ、外部からの干渉を完全に遮断していた。

 「……報告では、灰の谷での課外授業中、複数の班が“異常な気配”を感じたと述べています。」

 マドラス副学園長が静かに述べる。彼女の手元には、生徒たちの観察記録と、担当教員による状況報告が整理されて並んでいる。

 「中には強い反応を示していた生徒もいたようです。」

 隣に座っていたリナリーが、慎重な声音で言葉を継ぐ。

 「霧が濃かった影響もあるとは思いますが……私も何か、“封印に近いもの”の痕跡をあの谷で感じました。目に見える形ではありませんが、“術式の骨組み”が残っていることは周知ですが……それが、まるで誰かを呼ぶように反応していたような……。」

 リナリーも言葉を詰まらせ、会議室には沈黙が流れた。

 「……封印が何らかの形で弱まっている可能性があるかもしれない、ということか。」

 ハッフェルローズ学園長が低く、リナリーの代弁をした。星のように淡く輝く白金のローブを纏い、椅子に深く腰を下ろしている彼の瞳は、微動だにせず真っ直ぐ前を見据えていた。

 「学園内においても近頃、僅かな魔素の濃度の変動が観測されています。今のところ被害や影響はないですが……」シンドラーが続ける。

 「見たところ結界術式や制御魔法は正常に作動しているので特に問題はないと思いますがね。」

 エミリアが眉をひそめた。

 「油断は禁物です。驕る者は久しからず、です。」

 「わかってますよぉ、引き続き管理は慎重に行いますって。」

 調子良くシンドラーは応える。

 学園長は静かに立ち上がり、万象図の中心に目を向けた。

 「いずれにせよ、すべてはまだ兆しに過ぎん。だが、兆しを見逃す者に、大きな流れを止める力はない。各教員には引き続き、生徒の様子と校内の魔力異常に目を配ってもらう。特に、ノクス寮周辺。何かあればすぐに報告を。」

 一同が頷き、会議は静かに終了した。

 不穏な気配を乗せるように、初夏のぬるい風が学園を流れていく。

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