第三章 ― 影のスカウト ―
メジャーリーグを追いかけて
右肩が上がらなかった。
痛みというより、空虚だった。腕が、自分の体から切り離されたような感覚。
それでも悠は、夜の廃工場にひとり佇んでいた。ルイスの声が、まだ耳の奥に残っている。
「夢だけじゃ、マウンドには立てない」
その言葉の意味を、今になってようやく理解した。
その夜、悠の前に現れたのは、黒い車だった。
エンジンを切りもせずに、ひとりの男が降りてきた。
グラサン、スーツ、革靴。アメリカでは目立ちすぎるその出で立ちに、悠は本能的に身を引いた。
「君がキタジマ・ユウか?」
流暢な日本語だった。発音だけが妙に堅い。
悠は警戒を露わにしながら、頷いた。
男は名を名乗らなかった。ただ、こう言った。
「右肩を壊したら、もう夢は終わりか? それとも……手段を選ばず、まだ“上”を目指すか?」
悠は目を細めた。
「なんの話だ?」
「僕は、“現実”を売っている。君のように、才能がありながら潰される若者に、“もう一度立ち上がるチャンス”を渡す仕事だ」
「……裏か?」
男は答えなかった。ただ、悠の目を見据えたまま、コートの内ポケットから1枚の紙を差し出した。
そこには、「リハビリ」とは名ばかりの非公式施設の案内と、「仮想マイナーリーグ」のトライアウト案内が記されていた。
米MLBに登録されていない、完全非公認のリーグ――スカウトや金の匂いが集まる“影の舞台”だ。
「ここに行け。3か月で肩を使えるようにしてやる。試合にも出せる。……だが、代償もある」
「代償?」
「契約書にサインすれば、君の所属権は我々のものになる。途中で逃げれば、アメリカには二度と入れないと思え」
悠は、その紙を見つめながら、かつての自分を思い出していた。
兄とキャッチボールをしていた庭先。
「いつか一緒に甲子園だな」と笑っていた声。
あの頃には、もう戻れない。
だが、ここで終わらせることは、できなかった。
ルイスの死も、兄の言葉も、全部、泥の中に沈めるわけにはいかない。
悠は黙って紙を受け取った。
男が車に乗り込む直前、ふと振り返って言った。
「投げられなくなってからが、本当のピッチャーだ。お前がそうか、見せてみろ」
その夜、悠は再び立ち上がった。
「正しさ」ではなく、「必要とされる強さ」のために。
そしてその3日後――
彼はロサンゼルス郊外の廃ホテルで、密かに始まった“影のリハビリ”に足を踏み入れる。
4章に続く