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街道物語

作者: 山谷麻也


 その1


 村にその男はやってきた。盆が過ぎ、山奥の村に秋の気配が漂い始めていた。

「ごめんください」

 玄関から声をかけた。反応はなかった。


 大きな屋敷だった。勝手口に廻ると、アルミサッシの引き戸が開いていた。

「ごめんください」

 今度は奥で音がして、高齢の婦人が怪訝(けげん)そうな表情で出てきた。


 男は名前を上野和孝と名乗った。七〇がらみ。スーツ姿だった。

「この村に小杉さんというお家はございますか」

 ていねいな言葉(づか)いだった。

 老婦は警戒を解いた。

 最近、古着や骨とう品を高く買うと言って、年寄りをだます商売が流行(はや)っている。風貌からして、その心配はなさそうだった。


「二軒、あったけんど、もう空き家になっとります」

「小杉正則さんというお家なんですが」


 老婦は庭に出て、前方の山を指さした。

「あの向こう、杉の木の間に屋根がちょっとだけ見えとるやろ。上が小杉正則さん()だったところです」

 大きな木が家を(おお)っていた。空き家になってから、相当な年月を経ていることがうかがえた。


「正則さんの子供さんとかお孫さんとかはどこにお住まいですか」

「子供はみんな都会に出て、家庭を持っとるようですよ。そうや、確か末っ子が一〇年くらい前に戻って、山のふもとに家を建てたという話は聞きましたけど」


 老婦は曲がった腰を伸ばした。山道に高齢の男が近づいてくる。

(じい)ちゃん。この人がな、小杉正則はんのこと訊きたいのやって」

 老夫は上野を改めて一瞥(いちべつ)した。


 老夫に促されて、上野は居間に腰をかけた。

 老婦がお茶を出してきた。おいしかった。


「私は高松に住んでいる者です。今年で七〇になります。父親も母親もすでに他界しています。私は昨年勤めを辞め、両親の遺品を整理しておりましたところ、父親の住所録にどうしても思い出せない名前があったのです。それが、小杉正則さんなんです。住所は徳島県三好郡池田町になっていました。このあたりに知り合いはいなかったはずです。考えれば考えるほど謎は深まるばかりです。退職後の時間を持て余していたこともあって。今回この村を訪ねた次第なんです」


 老夫は記憶をたぐり寄せようとするかのように、目を細めた。

「正則はんが亡くなってからでも、もう二〇年以上になるし。ワシは正則はんの長男と同級だったけど、あれも三年前に死んだらしい。古い話を知っとる者はおらんのと違うかなあ。まあ、近くに末の弟が戻っとるようやから、寄ってみなはれ」

 老夫は末の弟・隆の住む町を教えてくれた。


 かつて、この村には二一軒の家があったという話だった。

 老妻によれば、戦後のベビーブーム期にはどの家にも五、六人の子供がいたということだった。就学期になると、三〇分前後かけて山道を降り、学校に通った。


「隆君の家は村の一番奥にあってな、小さい頃は通学が大変やったみたいやで」

 老妻は大雪の日に庭に出てみると、家の横の窪地を、隆が幼馴染みの女の子の手を引きながら、帰ってきていた、と目を細めて話していた。


 隠れ里のような集落だった。雪も深いみたいだった。

 上野は老夫婦の家の下に停めていたクルマを発進させた。途中で振り返ると、小杉家の廃屋の向こうに、山が連なっていた。


 その2


 上野は気持ちがはやった。確かではないにしても、何らかの手掛かりは得られた。

 運転しながら、父親のことを想った。


 香川県西部の生まれと聞いていた。父親は生まれ故郷のことは話したことがなかった。中学を卒業して高松市内の燃料店に勤めた。木炭や薪、ほかに日用雑貨も扱っていたらしい。


 空襲で高松市内は焼け野原となった。バラックで雨風をしのぎ、人足をやって生き延びた。

 少し世の中が落ち着いてきたこともあり、仲間の妹と所帯を持った。翌年、長男が生まれ、続いて長女、その翌々年、和孝が生まれた。


 長女が生まれた年、父親は小さな店を開店した。「主婦の店」と、当時よく見かけた名前をつけた。

「安くて、品ぞろえもいい」

 と、近所で評判になった。

 父親も母親も朝から晩まで働いた。いつも夕食は八時を回っていた。きょうだいは腹を空かせて店の閉店時刻を待っていた。


 父親は寡黙(かもく)で優しかった。一方、母親は何かにつけて子供たちに小言を言った。父親はよく子供たちをかばってくれた。

 どこにでもいるような父親でも、忘れられない出来事があった。


 長男が同級生をいじめた。同級生の父親が買い物客のいる時間に店に怒鳴り込んできた。在日朝鮮人の一家だった。

 父親は手をついて誤った。その夜、兄は父親から暴力を受けた。奥の部屋で長時間説教され、殴られる音が聞こえた。

 何を言っているのかは分からなかった。それよりも、恐怖が先に立ち、姉と二人で震えていた。 

 翌朝早く、父親は兄を連れて謝罪に行った。以来、兄は時々、その同級生を家に招いていた。


 父親は右腕が少し不自由だった。クルマの運転には差し支えないようだったが、完全には上がり切らなかった。右腕を上げようとすると、左肩を落としてかばっていた。また、冬は右肩が痛むので苦手だとも言っていた。


 母親は和孝が三八歳の年に亡くなった。婦人科系のがんだった。母親亡き後、パートのおばさんを雇って、父親は長い間、店を切り盛りしていた。


 しかし、元気自慢の父親も五〇を過ぎて衰えが目立ってきた。高松市内に嫁いでいた姉が店を手伝うことになり、細々ながらも商いは続いた。

 市内には大型ショッピングセンターが開業し、好景気に沸いていた。もう「主婦の店」の時代ではなくなっていた。


 父親は六九歳で脳卒中を発症した。軽いマヒが残り、店は廃業した。和孝は郊外の家を処分し、父親と同居することになった。

 父親は短気になった。思うようにならないと、和孝夫婦をしかりつけた。また、不自由な体で飲み歩くようになった。


 ある日、妻から和孝の携帯に連絡が入った。

「お父さんが風呂場で大変なことになってる」

 という。和孝は急いで駆け付けた。

 父親はジャージ姿で風呂場に横たわっていた。酔っていた。ズボンが濡れていた。トイレが間に合わなかったのだ。


 数か月後、父親は脳卒中を再発した。病院に見舞うと、和孝夫婦を見て、しきりにうなづいていた。

「迷惑かけるなあ。けど、もう少しで、母さんとこへ行くからな」 

 何か言いたそうなので、耳を近づけると、か細い声が聞こえた。閉じた目から、涙が止めどなく流れていた。


 その3


 千足(せんぞく)村から出合へは、なだらかな下りだった。

 道の左右に大きな杉が林立し、昼でも薄暗かった。前方に岩が転がっていたので、上野はクルマを降り、岩を道端に寄せた。来るときにはなかったものだ。

「サルとイノシシ、シカが荒らし回っとる」

 と、老夫は笑っていた。イノシシの仕業だろう。


 出合に近づくと、右下に祖谷川が見えてきた。

 川の水は少なく、ごつごつした巨岩が河原を占領している。それでも淵ではエメラルドグリーンの水をたたえ、水面にときおり輪が広がる。 

 静止したような時間の中で、山や川の生き物たちは命を繋いでいた。


 出合はさびれていた。

 ここは祖谷川に松尾川が合流する地点である。学校や商店なども設けられ、周囲の村から人々が集まったことから、命名されたものだろう。正式な地名ではなく、住居表示は大利(おおり)字大西となっていた。


 出合から祖谷街道を北上する。

 祖谷街道は一九二〇年(大正九)、一八年間に及ぶ大工事の末に完成した。池田から出合を経て、西祖谷、さらには東祖谷の久保に至る五〇キロあまりの街道で、長年にわたりこの地方の大動脈となっていた。


 道は祖谷川沿い、急峻な山肌を切り拓いて抜かれ、谷底と道路との標高差が二〇〇メートルに達する場所もある。その絶壁には小便をする小僧の像が建つ。上野はネットの画像で見ても、目を背けたくなった。 

 民謡に唄われた、かずら橋のほか、温泉もあって、観光地としての人気も高い。


 奥地の人々待望の街道も、モータリゼーションの到来、過疎化の進行により、その役割は大きく変化する。

 決定的だったのは大歩危とかずら橋のある善徳(ぜんとく)を結ぶ祖谷渓道路が一九九八年(平成一〇)に無料化されたことだった。幹線道路の国道三二号、さらにはJR大歩危駅とがショートカットで行き来できるようになり、人の流れは一変した。

 こうして、途中の繁華街だった出合の衰退に拍車がかかったのだった。


 小杉隆の住む中西は祖谷街道の始点近くにある。

 老夫に教えられたとおり、祖谷川と吉野川の合流地点で祖谷口橋を渡って国道三二号に出て、白地で三好橋を渡って、再び祖谷街道に戻る。


 小杉隆は中西で鍼灸院を経営しているという話だった。それらしき建物はすぐに分かった。駐車場にクルマを入れると、中で犬が吠えた。老夫の教えてくれた盲導犬のようだった。


 ちょうど施術中だった。一時間後なら時間が取れるという。いい機会なので、祖谷口橋まで街道をドライブすることにした。

 メインストリートの面影を残した道は、やがて住宅街へと差し掛かる。ほとんどの家が空き家だ。道は狭く、普通車でも対向車があると待避していなければならなかった。ここを往時には奥祖谷まで、路線バスが一日三往復していたらしい。


 祖谷口橋へは一〇分ほどで着いた。祖谷川の対岸・川崎地区に架かる橋があり、前方に大きな集落が拓けていた。千足村は川崎字千足で、吉野川と祖谷川に挟まれた広大な一体が大字川崎だったものと推察された。


 治療院に引き返し、先ほどの失礼を詫びた。隆院長は柔和な笑顔で迎え入れてくれた。

「どうかされましたか」

 と訊かれる。治療を受けに来院したと思われているようだった。

 上野は手短に、来意を説明した。


 その4


「あいにく、私は末っ子なもんで。一五までしか千足村にはいませんでした。長男でも生きていれば、何か知っていたかも分かりませんが」

 小杉隆は首を傾げた。


(やっぱり、無謀な思いつきだったのだ)

 上野は体から力が抜けていくのを感じた。

「申し訳ないです。お忙しいところを」

 上野は腰を上げかけた。


「わざわざ千足村に行かれたのですか」

 小杉は驚いている。

「私のことはどこで聞かれましたか」

 上野は老夫婦のことを話した。


「昔の庄屋ですね。分家がすぐ上にあり、私の祖父はそこから婿養子に来ていました。狭い村ですから、そこら中、親戚ですよ」

 小杉は笑った。

「祖父や父親が生きていたら、千足村が三軒になったなんて信じないでしょうね。華やかな時代もあったのですよ」


 上野が帰り支度(じたく)を始めたのが、小杉には見えていないようだった。上野はまた腰を降ろした。

「このすぐ上流の川崎から西祖谷へは尾根沿いの最短ルートとは別に、千足村を通って西祖谷に抜ける街道があったと聞きましたよ。千足村の上の峠には、旅人の安全を祈る道祖神もありました。うちの上の道は『馬道(うまみち)』とも呼ばれていました。馬が往来していた名残です。祖谷の土豪が蜂須賀氏に従順でなかったとして討伐隊を差し向けた際、一行が通ったという道です。また、千足村は弓矢の産地でもあり、良質な鏑矢(かぶらや)を蜂須賀家に奉納していた記録もあるそうです。矢の材料のシノメ竹が千足村の奥に生えていたと村の長老から聞いたことがあります」


 村の、忘れられようとしていた歴史の一ページだった。そういう話が聞けるだけでも、徳島を訪ねた価値が十二分にあった。


「その竹が群生していたという場所は池田町と西祖谷山村を分ける境谷(さかえだに)の近くにありました。谷にはアメゴがたくさんいて、よく獲りに行ったものですよ。しかし、遠かった。水は夏でも冷たい。五分と入っていられませんでした」


 上野は、村の子供たちが谷で遊ぶ姿を想像しようとした。上野にとっては未知の世界だった。

「正月に帰省した折、次兄に誘われて釣りに行ったことがあります。一面の雪景色です。半信半疑で糸を垂れていました。一度だけアタリがありました。ばらしてしまいましたがね」

 小杉は無邪気に笑った。


「うらやましいですね。私は都会育ちなものですから、自然の中で遊んだ経験がない。まさにワンダーランドですね」

「子供たちにとっては、ですよ」

 小杉は一呼吸おいた。


「大人たちには哀しい歴史があったようです。境谷を上流に行くと、途中に整地された場所がありました。囚人小屋の跡だと父親から教えられました」


 その5


 小杉は上野に囚人小屋の話を聴かせた。

 終戦前後、家族のために食べ物をちょっと盗むといった犯罪者が続出した。町の刑務所に収容しきれなくなったのか、山奥の辺境の地に収容所を設け、山仕事などの労働に従事させた時期があったようだった。


 囚人たちは腰縄でつながれ、きびしい監視のもと、移送されてきた。その頃は祖谷街道も開通していた。囚人一行が汽車で運ばれてきて、川崎から千足村を通る街道を利用したのか、それとも出合までトラックか何かで移送され、出合から千足村を経て、境谷に連れて行かれたのか。おそらく、後者だろう。いずれにしても、苦難の行程だったはずだ。


 小杉の家は村の最奥部にあったことから、囚人一行が最後の休憩を取る場所とされていた。

 母親がお茶を出すと、囚人たちは口々に礼を述べながら、(すす)っていた。

 ある時、反抗的な囚人がいるというので、刑務官らが引き出して打ち据えようとした。いつ果てるともなく執拗だった。見かねた若い囚人が体を張ってかばった。今度はその囚人に、幾層倍もの暴力が加えられた。


「出発!」

 の号令とともに、囚人は重い歩を進めようとする。若い囚人は明らかに肩を傷めていた。父親が心配そうに見守っていると、そっと黙礼して山道を登り始めた。


「ひどい時代があったものですね」

 上野は感に()えなかった。

「父は一度だけ、この話をしてくれたことがあります。『よってたかって、ぶっ叩いたんだからなあ』って」


 言いながら、小杉は思い出したことがあった。

「一杯のお茶でも、囚人には感謝されたのか、中に毎年、年賀状を忘れない方が一人だけいたようです。母が『まあ、この人は今年も年賀状をくれとる。律儀な人やなあ』と、正月にしみじみ語っていたものです」


 上野は息を呑んだ。叫びたい気分だった。

 小杉も上野の様子に気づいた。


「あなたのお父さんは立派な方でしたね」

 小杉が右手を差し出すと、上野が両手でがっちりと握ってきた。

「ありがとうございます。今度、千足村の家にうかがってもよろしい‥‥」 

 言葉になっていなかった。

「屋敷は崩れてるでしょうから、お気をつけて。私もご一緒したいのは、やまやまですが、何しろ、この目ですので」


 軽快なエンジン音を残して、上野のクルマは駐車場を後にした。



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