僕は捨てられた。1
訳ありの子息として孤児院に預けられていたその頃。
ハインリヒの傍にいてくれるのは漆黒の髪と瞳が美しい、ヴィルヘルミーナただ一人だった。
そんな状況がしばらく続いていたある日突然、孤児院からヴィルヘルミーナの姿が消えた。
ハインリッヒが記憶する限り、一番冷徹な雰囲気を纏った一人の男性が孤児院を訪れた次の日に。
院長に泣きながら食ってかかった。
ヴィルヘルミーナがハインリッヒを置いて、一人で孤児院を去るとは思わなかったからだ。
しかし院長は冷ややかな声でこう告げた。
「貴男のように高貴な生まれの子息など面倒なだけです。しかも毎日毎日あの子の後ろに隠れて泣きわめくばかり。見捨てられて当然でしょう?」
「み、ミーナは。ぼ、僕を守ってくれるって!」
「はぁ。ほら、また泣く! みっともないったら、ないわね。私だってあの子より貴男を売りたかったわよ。でもヴィルヘルミーナが立候補してしまって……連れ戻そうとしたら、立候補するほど孤児院が気に入らないのなら一生懸命頑張ってくれるだろうから、この子を連れて行くよって言われてしまったわ。本当は貴男を売り飛ばすつもりだったのに!」
「え? 立候補……」
「そうよ。ヴィルヘルミーナは貴男が来るまでは聞き分けの良い静かな子だったわ。誰かに虐められてもいなかった。けれど貴男が来た日から貴男を庇って傷だらけじゃない。何度あの子の治療をしたと思っているの!」
怒鳴られて、涙が再び大量に溢れ出る。
『好きなだけ泣けばいいわよ、私が傍にいて守ってあげるからね!』
そう言って飽きもせず涙を拭ってくれたヴィルヘルミーナは……もう、いない。
「あの、額の派手な傷! 貴男を庇わなければつかなかったわよ。ヴィルヘルミーナを買いたいと言ってくれる裕福な方は何人もいらっしゃったのに、あの傷で価値が下がったわ」
次々とハインリッヒが知らなかった情報が齎されて頭が混乱する。
目眩もしてきた。
泣きすぎたあとによく起きる目眩だ。
これが続くと失神してしまう。
倒れかけるハインリッヒを全身で受け止めてくれたヴィルヘルミーナはいない。
ハインリッヒはそのまま地面へ勢いよく倒れ込んだ。
「ふん! 一人で勝手に起きなさいよ。貴男が起きるまで傍にいてくれたヴィルヘルミーナはいないんだからね」
院長は鼻息を荒く、どすどすと重たげな足音を残して施設へと入っていった。
折しもしとしとと雨が降ってくる。
ハインリッヒは冷たい雨に打たれながらヴィルヘルミーナを呼び続けた。
「お、目が覚めたぞ。先生、呼んでこいよ」
「おう」
目を開けると汚れた天井が目に映り込む。
美しい天井画が描かれた天井を見ていた日々は夢だったのではないかと思うほどに、見慣れてしまった天井。
ぼんやりしていると、足音がして職員とハインリッヒの傍にいたらしい男子が入ってくる。
「……熱は下がったよう……っ! 何をするの?」
ハインリッヒは熱を測ろうと額に乗せられた掌を激しく叩いて撥ね除けた。
「……ヴィルヘルミーナは?」
「熱で記憶が混濁しているのかしら……」
「ヴィルヘルミーナなら買われていったぞ。買った奴は有名で見込みのある奴を買っていくんだってさ。あいつも幸せになるんじゃね? お前の面倒を見続けて、皆に虐められるよりはずっとマシな生活ができると思うぜ」
「……本当かよ。あいつ娼館の用心棒って聞いたぞ」
「がせだろ。用心棒って感じじゃなかったし」
「でもなぁ、ほら。お前がヴィルヘルミーナに捨てられたってーのは、間違いねぇよ」
顔を上げればにやにやと笑う男子が二人。
職員は何時の間にか部屋を出て行ったのだろう。
何故か職員たちはハインリッヒの面倒をみようとしなかった。
ハインリッヒの出自に問題があるからかもしれない。
可愛がるなと命令を受けている可能性もあった。
一体彼らは、ハインリッヒをどうしたいのだろう。
「……おい、何とか言えよ。捨てられリッヒ君」
男子の一人に小突かれた。
ぐらっと体が傾いで再びベッドに沈む。
「あれ? もしかしてまだ熱が下がってないんじゃねぇの?」
何故かおろおろしだした男子の一人がハインリッヒの額に掌を押し当ててくる。
ヴィルヘルミーナの掌よりも生温いそれに気持ち悪さを感じるも、弾く気力がなかった。
「やっべ。まだ熱いや。先生を呼んでこいよ」
「うん」
男子の一人が大急ぎで走って行く。
「……なぁ、リッヒ。お前さ。孤児院を出た方がいいかもしんね」
周囲を伺った男子が小さな声で話しかけてくる。
何時も大きな声で、ハインリッヒを貶める言葉しか言わない男子とは思えない真剣な声音だった。
「院長たちがこっそり男娼専門の娼館に売ろうって話をしてた。しかも男娼の扱いが酷くて有名な店に」
「……そ」
一応孤児院で預かれるぎりぎりの年齢まで引き受けて、既にその代金も支払われているはずなのだが。
王族との契約を破る恐ろしさを彼らは知らないのだろうか。
確かにハインリッヒの面立ちは娼館で人気の出そうなものではあったけれども。
「だから、よ。三日後に来る、騎士団の視察のときに、売られそうだって訴えてみろよ。俺らも賛同してやっから」
「……なんで、そんなこと、して、くれるの?」
「ヴィルヘルミーナに捨てられたお前が不憫だから」
「っつ!」
涙が一筋だけ頬を伝う。
「でもなぁ……おかしいんだよ。あいつがお前を捨てるとか、ちょっと信じらんねぇ」
男子が何やらぶつぶつ言っている。
ヴィルヘルミーナがハインリッヒを捨てるはずがない。
ずっと傍にいると、誓ってくれたのだ。
幾度も、幾度も。
ハインリッヒが尋ねる度に答えてくれたのだ。
なのに。
どうして!
「まぁ、どっちにしろ。ヴィルヘルミーナもハインリッヒも弱いからな。長くは一緒にいれなかったと思うぞ」
「僕が弱かったから、捨てられたの?」
「ああ、その可能性は高いぜ。額に傷が残ってからいろいろ考えていたみてーだから」
ハインリッヒを庇って額に残る怪我を負ったあとから確かに。
ヴィルヘルミーナが何事かを考える時間は増えたように思う。
ハインリッヒはずっと自分に関することで悩ませていたのだと、考えていたのだが。
もしかして捨てる手はずを慎重に検討していたのだろうか。
「もしかしたらヴィルヘルミーナも強くなりたかったのかもな、お前を守り切れるように」
「僕が強かったら、捨てられなかったかな?」
「どうだろうな。でもたぶん……今も隣にいたんじゃねぇかな」
自分を虐め続けてきた男子の言葉全てを信用できなかった。
それでも全面的に信用していたヴィルヘルミーナに裏切られていたのならば、今後はもっともっと考えなくてはならない。
「……先生が戻ってきたみてぇだな。騎士団の件、忘れんなよ」
男子がハインリッヒの肩をぽんぽんと叩く。
初めてされる所作に驚いて大きく目を見開いた。
「今度は叩かないでちょうだいね!」
戻ってきた職員は嫌々ハインリッヒの額に手を置いて即座に離した。
「全然下がってないわ! 死なれたらマズいのよ。院長に相談しないと……」
職員はまたしてもばたばたと足音をさせながら部屋を出て行く。
「殺すつもりはないみてーだな」
「男娼専門の娼館に売るなんて、殺すより酷いでしょ」
「ハインリッヒが泣きつけば、俺らの待遇も良くなるかもしれねぇからな。善意じゃねぇんだよ。俺らもさ。お前を使って自分たちの生活を改善してぇんだ。だからほら、罪悪感とか持つんじゃねぇぞ?」
熱のせいなのか。
今まで自分を執拗に虐めていた彼らが善意ではないと言いつつも、明らかにハインリッヒを助けようとしている行動が嬉しいのか。
ヴィルヘルミーナに捨てられたのが悲しいのか。
その、全部なのか。
わからないまま、ハインリッヒは泣き続けた。
ハインリッヒの高熱は騎士が来る三日後になっても下がらなかった。
下がらなかったが、高熱に魘されるまま、ハインリッヒは騎士の足元にしがみつく。
潤んだ目で見上げたとき、騎士の喉仏が大きく蠢いたのを何故かよく覚えている。
職員たちが止めようとするのを、他の孤児たちが一丸となって止めていた。
ハインリッヒと同じくらい泣いていた幼女などは、職員の一人に齧りついている。
痛みに泣き叫ぶ職員の声は、孤児たちの泣く声とは比べものにならないほど、みっともないものだった。
結果。
院長を含め職員たちは総入れ替えとなったらしい。
後日熱が下がったときに、忠告をしてくれた男子が教えてくれた。
新しく来た職員は善良で、孤児たちは幸せになったと聞いて安堵する。
自分はお人好しなのかもしれない。
そう呟けば、ヴィルヘルミーナには負けると思うがな。
と言われた。
ちなみにハインリッヒの身柄は王族に仕える騎士たちに預けられた。
ハインリッヒを助けてくれた二名の男子も、ちゃっかり一緒の騎士団預かりとなっていた。
「頑張って強くなろーぜ。強くなったらリッヒも安心してヴィルヘルミーナを捜せるだろう?」
そう言われて、自分を捨てた相手を探してもいいのかと問えば。
「捜したそうにしてたから、違うのかよ?」
と問い返された。
ハインリッヒは自問自答する。
捨てられてもヴィルヘルミーナが好きなのは変わらない。
捜してもいいなら捜したい。
捜して、どうして自分を捨てたのか、問いただしたい。
そう思い至ったハインリッヒは。
「そうだね。僕は強くなってミーナを捜すよ」
こちらの様子を窺ってくる男子二人に大きく頷きながら返答した。