リケジョ先生の特別授業
「ねえ、メガネ君とガリ勉君と、どっちがいい?」
「はい!?」
今は図書室の自習コーナーで勉強中だ。
化学の参考書越しにその人の姿があった。
校長先生、いつから僕の向かいに座っていたんだ?
「君の愛称よ。メガネ君とガリ勉君、どっち?」
「……どっちも嫌です」
「まあ、相変わらずイケズねえ……だって、『サカキバラ』って長いじゃない」
「多分、今時の先生は生徒のことをメガネ君とかガリ勉君とか呼ぶと、ちょっと問題になると思います」
「だって君、メガネとガリ勉以外、ほかに特徴がないじゃない」
「……」
「あ、名前、 賢也君だっけ? じゃあ、ケンちゃんでどう?」
「……どうって言われても。多分、日本の高校で生徒をファーストネームで呼ぶのは、あまり好ましくないと思われます」
「えー、つまんないわね。教育現場って」
桜羽校長先生は腕を机の上で組み、あごを乗せて頬を膨らませた。
会話が途切れたので、僕は参考書に視線を戻す。
先生は、退屈そうに僕が机に並べている問題集や、ノートをパラパラとめくり始めた。
「へえ、理科の受験科目は、物理と化学か」
もう、気が散るなあ。しょうがない。
「……ところで、先生は校長先生になる前、何の科目を教えてたんですか?」
「性教育。」
周りの机の生徒が一斉に顔を上げ、こちらを向く。
僕はスマホを取り出す。
「先生、たった今、ボイスメモのアプリをオンにしました」
「冗談よ冗談、ジャスト・ジョーク!」
これでしばらくは黙っているだろう。
「本当は生物よ」
黙っていなかった……
「え、先生は理系だったんですか?」
「えへへ、そう見えないでしょ。」
「先生が授業をしている光景がイメージできないんですが」
「あら、こう見えても私の授業は好評だったのよ。おしべとめしべが……」
「先生。ボイスメモはまだ録音中ですが」
「冗談よ冗談、ジャスト・ジョーク!」
今度こそ黙ってくれるだろう。
「……でも、生物も性教育も似たようなもんね。『おしべとめしべが』って」
黙ってくれなかった……
「ねえ、理科の受験科目、どっちか生物に変えない? そしたら教えてあげるわよ」
「……無理です。僕が行きたい大学の学部は、物理化学の受験が必須なんで」
「まあ、相変わらずイケズな子」
「そういう問題じゃなくて」
「あーあ、生物、教えたいなあ」
「校長先生って、授業を受け持っちゃダメなんですか?」
「カンペキにダメってわけじゃないみたいだけど、学校教育法で、校長は主に管理運営の責任を持つってことになってるの」
「へえ、そうなんですか。でもよくそんな法律、知ってますね」
「あったりまえじゃない! こう見えても私は校長よ」
「こう見えてもって、ご自分で認めるんですか……でも確かに先生が授業しているところ、見てみたいですね。通常の授業以外なら教えてもいいんじゃないですか?」
「ありがとう。参考にするわ……あっ、そうだ、思い出した」
先生は自分のスマホを取り出し、タップしまくったかと思うと、画面を僕に向けた。
「コレ、私が教師になりたての頃の授業風景よ。生徒が撮ってくれたの」
そこには、白衣の教師がいた。理科室のような場所で、何やらスライドの画面を指して説明している。当時は黒髪だったらしく、それを後ろで縛り、黒ブチのごっついメガネをかけている。
意外なことに、レンズの奥のまなざしは真剣そのものだ。
「なんか、アカ抜けてませんけど、ちゃんと授業してますね」
「なんだとー!全然ホメ言葉になっとらん」
「いや、精一杯褒めたつもりです……ところで先生、メガネかけてたんですか?」
「……そうよ、実はド近眼でね。今はコンタクトだけどね。しかもカラコン。ほら」
そう言って机越しに中腰になって顔を近づける。確か、今の髪色と同じ、ライトブラウンの瞳だ。
僕は周りの生徒の視線を感じて、ハッと顔を引いた。
図書室で見つめ合っている校長先生と生徒。この図はよくない。
先生もさすがに周囲の気配を感じたようだ。席に座り直し、少し頬を赤らめている。
そして再び僕の参考書をいじり始めたが、すぐに退屈したようで机の上にパタンと乗せた。
「……そうだ。せっかくだから、メガネつくりたいんだけど、つきあってくれない?」
「え、メガネ持ってないんですか?」
「今もこのメガネを使ってるの。家にいる時とか。ダサいでしょ……だから」
そう言って先生はさっきのスマホの写真を見せた。
だめだ。このペースに巻き込まれてはいけない。
「お断りします。まだ勉強が残ってるんで」
「もうほんとイケズ! まだ宿題が残ってるの?」
「宿題なんか、とっくに終わらせています」
「じゃあ、いいじゃん!いこいこ」
「……あの、職員会議とか仕事とかは?」
「そんなの、とっくに終わらせています」
うまく口車に乗せられてしまった。
先生は参考書とノートをトントンとまとめて揃えると、僕にハイと手渡し、図書室を出っていった。生徒たちは呆気にとられてその姿を見送った。カバンを持って僕は渋々後を追う。
学校近くのショッピングモールに向かって校長先生と並んで歩く。
なんか、このシチュエーションにデジャヴュ感がある。そうだ、こうやって斉藤さん家に行ったんだ。
彼女は週一の半日くらい、教室に登校するようになった。校長室にはしょっちゅう来ているらしい。
「メガネなんか、一人で買えるんじゃないですか?」
「いやー、鏡越しに見てもよくわかんないから、誰か一緒に選んでくれる人がいないと」
「別に僕じゃなくても」
「だって、ほかにいないもん。一緒につき合ってくれる人って」
どういう意味で先生がそう言ったのか、その時はよくわからなかった。
『眼鏡道場』。ショッピングモールの中にあるメガネ店だ。
そこに着くなり先生は、片っ端からメガネを試着し始めた。
「ねえ、これなんかどう?」
「ええ、なかなかいいと思います」
「これは?」
「それもいいですね」
「これは?」
「……似合ってます」
「あのね榊原君、ホンネで選んでちょうだい。これじゃいつまでたっても決まらないじゃない」
いや、ラウンド型も、オーバル型も、スクエア型も、メタルフレームも、ハーフリムも、フチなしも、正直本当にどれも似合うと思うし、素敵だ……というか、メガネ越しに似合うかどうか問いかける先生の瞳にドキドキしてしまう。
「あの、どんなメガネが欲しいのか、少しヒントをいただけますか?」
「そうねえ、理系の女子っぽく知的で、でもセクシーなヤツ」
「……その注文、難しすぎます」
それでも何とか選びに選んで、ややピンクがかったメタルフレームのオーバル型に落ち着いた。
先生の視力にあったレンズは取り寄せになるとかで、数日後の受け取りになった。
『眼鏡道場』を後にし、モールの中を歩く。
「榊原君、ありがとう。おかげで……」
並んで歩いているはずの先生の声が遠くなった。
振り返ると、見知らぬお爺さんに話しかけている。そのお年寄りは怪訝そうな顔をしている。
「先生、こっちです!」
僕は、手を大きく振った。
「あれ?」
先生は老人と僕の顔を交互に見比べ
「あ、あっちか!?」
お爺さんに詫び、僕に寄ってきた。
「ひょっとしてコンタクト、着けてないんですか?」
「うん、さっきメガネを選んだ時にはずしたまま」
「危なっかしいから、どこかで着けてください」
「そうね、確かこの建物の中にスタバがあったわ。今日のお礼に何か奢るから、そこ行こう」
そう言って歩き出すと、先生はすぐに買い物客の背中にぶつかった。
さすがに手をつなぐわけにはいかないので、僕は彼女のハーフコートの裾を引っ張ってスタバまで誘導した。
後日。
いつものように学校の図書室で勉強していると、校長先生がやってきて、机の上にA4のチラシを一枚置いた。そこにはこう書かれていた。
『小学生向けオープンスクール 校長センセの生き物講座』
「へえ、こんなことやるんですか!?」
「そう、榊原君からヒントもらってね。今度の土曜に開校よ。将来ウチの受験者も増えるかもだし」
「……僕もお邪魔していいですか?」
「もちろん、大歓迎よ!」
オープンスクール当日。
僕は、『おしべとめしべが……』とやらかさないか心配だったが、学校の理科室で多くの小学生に囲まれ、桜羽先生がまともに教えている姿を見てホッとした。
白衣姿に、新品のメガネ。レンズ越しに先生は嬉しそうに笑っている。