化学反応と身体反応、その熱の違いとは?
「なんだよこれ、クソ難しくねーか⁉」
夏鈴は自分の部屋の勉強机に向かい、うちの高校の理科の過去問題とにらめっこしている。
”【問3】使い捨てカイロの原料は、主に鉄の粉、保水剤に含まれた水、活性炭、塩です。これらを使って発熱反応が起きるしくみについて、次の中から正しい説明を選びなさい”
「ああ、発熱反応か。高校になったらエンタルピー変化とかややこしくなるが、中学で学んだことはそんなに難しくないはずだ」
「そうだっけか? だいたい発熱反応なんて教わった覚えがないよ……発情反応ならよーくわかるんだけど」
「こら、すぐに話をそっちの方にもっていくな……そもそも夏鈴は理科の授業とか真面目に聞いていたの?」
「いやあー、化学はアタシの人生とは無関係なんで。その時間はスマホで自主的に創作活動に励んでおりました」
「……たいていの中学って、登校したらスマホの使用は禁止じゃないか?」
「その通り。だから、身代わりスマホを用意した」
「身代わり? なんだそれは?」
「ハルねえさまから昔使っていたスマホを譲ってもらって、わざと学校でひけらかすのさ。そうすると先生が飛んできて没収する。もともと使えないスマホなんだから、ぶんどられても痛くも痒くもない……で、先生も油断するからマイスマホを安心して使えるってわけだ」
ほんと、こういう創意工夫は別のところで活かしてほしい。
夏鈴の高校入試対策は、まあまあ順調に進んでいる。いや、まあまあというよりも驚くべき伸びを見せていて、過去問の正答率もだいぶ上がってきている。従姉が校長先生をやっている高校に入りたい、そして支えてあげたい、という気持ちは本物なんだろう。
……ただし、理科だけは今一つだ。これはもう理屈でどうのこうのというよりも、いかに失点を抑えるかを突き詰めていくしかない。
「夏鈴、いいかな……これは必ず覚えておいて欲しいことなんだけど。過去の出題傾向から考えると、発熱反応か吸熱反応は必ず出る。発熱反応で直接酸化反応を起こすのは『鉄』だけだ。他の原料は、酸化しやすくなるように応援するだけなんだ」
「そうか、水とか活性炭とか塩とかは、ハルねえさまや、にいさまモドキ(僕のこと)みたいなものだな。主役はアタシだ」
「……まあ、そう覚えてもらっていいよ。あと、クエン酸が出てきたら吸熱反応、吸熱反応といえばクエン酸だと憶えておいて欲しい」
「わかった。しっかり覚えとく。でもあれだな……人間だったら、二人の間でラブラブに『化学反応』すると、必ず熱くなると思うけどな、あ、冷めた関係なら、どんなにヤッても、余計に冷え込むだけか……それはそれで興味深いなあ。今度小説書くときのネタにするか」
「だから、すぐにそっちの方に話を持っていくなって! だいたい人間関係のソレは比喩であって、実際には『身体反応』だと思うんだが」
「身体反応? どういうこと?」
「体を動かすと筋肉が熱を発生する」
「エロいな!……でもさ、体を動かさなくても、男女が見つめ合えば、ポッと熱くならないか?」
「……それは刺激を感じた脳が神経に指令を出して体温を上げているからだと言われている」
僕は中学生の女の子を相手に、何を言ってるんだろう?
「とにかく話がややこしくなるから、化学反応とその話は分けて欲しい」
受験生の女の子はシャーペンを机の上に放り、両手を頭上に組んで伸びをする。
「あーあ、今みたいなのを話してたら、(エロ)小説、書きたくなっちゃったな。ここんとこご無沙汰だもんな」
「試験まで一週間、もう少しの我慢だろ。何とかこらえて欲しいんだけど」
「アタシはどうでもいいんだけどさ」
「?」
「大事な読者さまたちに申し訳ないだろ?」
「?」
「そんなに数は多くないと思うけどさ、次に投稿されるのはいつかなって楽しみに待っている可愛い読者ちゃんたちがいるんだよ」
「え、前、そいつらのことブタ野郎とか言ってたじゃん?」
「それはご愛嬌だ……いいか、わかってないようだが、アタシがモノカキやってて一番大切にしてるのは『読者様』だ。アタシごときが書いたモノでも、期待して次を待っててくれる」
「たとえエロ小説でも?」
「おうよ。数多あるエロ小説のなかでもアタシのを選んでくれる、つまりアタシの価値をわかってくれる貴重なお客であり、同志でもある……読者とはそういうものよ」
「なるほど」
「投稿サイトなんかで書いてるとついつい勘違いしがちなんだ。サイトの運営の好みがどうとか、コラボ先のお眼鏡にかなっているかとか。そんなこたあ、どうでもいい。いいか、忘れちゃいけないのは、その先にいる、あんたの読者だ」
「……僕は小説は書かないけど……夏鈴、きみは立派な考えを持っているモノカキなんだな」
「なあに、ただの有名作家さんのウケウリだ」
「ちょっと話の腰を折るけど……前々から不思議なんだけどさ、」
「なんだ?」
「……ちょっと聞きづらいな」
「なんだよ、遠慮するなよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……夏鈴の作品、僕もネットでいくつか読ませてもらってるんだけど」
「ああ、ありがとな……って、一応あれ、R18なんだが……」
「それを書いている女子中学生に、とやかく言われる筋合いはないような……」
「まあ、いい。……で?」
「その……描写なんだけど」
「描写?」
「その……行為とか心情とか、気持ちイイとか……」
「それがどうした?」
「いや、中学生の経験値でよくもあそこまで……」
「イテテテ!」
夏鈴は僕のスネを蹴飛ばした。
「オイ、にいさまモドキ、アタシの経験が足りないって言うのか⁉」
「いや、一般論として」
中学生作家は顔を下げ、人差し指で眉間のあたりをさすった。
「……そうさ、あんたの言う通り、経験なんてこれっぽっちもない。全部妄想さ」
「……それはそれですごい才能だな」
「まあ、『知らないがゆえ』ってのも一つの強みと考えている。知らないからこそ、妄想が現実の枠を越えられるしな」
「なるほど」
「だいたいな、読む連中も、まだ現実を知らない童○野郎どもだ」
「あの……さっきの『読者ファースト』の発言が台無しなんだけど」
「なあに、それだけ読者様のことをよく考えてわかってるってことよ……さあ、無駄話はここいらでおしまい! 勉強に戻ろうぜ」
「夏鈴、君は偉いな!」
僕は思わず、彼女の頭を軽くポンポンした。
「オイコラ、調子に乗るな!」
「あ、ワルイワルイ」
エロ文学少女は、赤くなった顔を隠すように下を向いた。
「反応熱が出ちまったじゃないか」
「それは身体反応……」
「うるさい! それにな……アタシは、ハルねえさまをライバルになんかしたくないんだ」
「え⁉」
○
見るからに寒そうな曇り空の下。
在校生の誘導係に案内され、小雪がちらつく中を受験生が門をくぐり、次々と玄関に吸い込まれていく。その集団の中に、お嬢さま学校の制服に、短いおさげ髪の女の子がいた。校門脇にいる僕に気づき、その子が小走りに近寄ってくる。
「もう! 来なくっていいって言ったでしょ」
「いや、入試期間中も図書室は解放されているので、自分の勉強をしに来ただけだよ」
「……そうだよな、ずっとアタシにかかりっきりだったもんな」
「まあ、やるだけのことは精一杯やった。あとは落ち着いて、自信を持って……」
「わかってる」
「過去問対策を中心にやったからさ、油断して数値や固有名詞が違っているのを見落とさないようにな」
「わかってるって!」
夏鈴は、毛糸の手袋をはめた手に顔をうずめる。
「どうした、緊張してるのかい?」
「……ちょっとね。おかしいよな、中学受験も経験してるのにね」
「まあ、それとこれとはちょっと事情が違うだろうし」
「ハルねえさまは、やっぱり?」
「ああ、多分来てるんだろうけど、仕事してるんじゃないかな? あと、さすがに受験直前に身内に会うのは遠慮したいって言ってたしね」
少女は、カバンにつけた合格祈願のお守りを握りしめた。初詣の時に彼女の従姉が買ってくれたものだ。
「……あのさ、」
「何だ?」
「アレ、やってもらってもいいかな?」
「アレって?」
「……頭、ポンポン」
そう言って彼女は、おさげの頭を僕に向けた。
「……わかった」
ボクは軽く優しく、でも一生懸命、願いを込めて彼女の頭をポンポンした。
「……ありがとう」
「もう大丈夫だ」
「うん、行ってくる」
彼女はそろりと前に進みだす。
と、そのとき。
突き出ている通用玄関の上のスペースに、ベビーピンクのスーツスカート姿の女性が現れた。
そして、彼女はやおら、両手に持っている旗を拡げる。
“合格祈願!
カリンちゃん、ガンバ!“
そう描かれた大漁旗風のデザインの旗を冬空に振り、なびかせる。
「ガンバレ、受験生諸君! フレフレ、カリンちゃん!」
あんなモノ、どこに頼んだら作ってくれるんだ!?
受験生は唖然として旗を振る校長先生を見上げている。
夏鈴も口をあんぐりと開け、あきれ顔でそれを見上げていたが、僕を振り返り、ニッコリと笑って言った。
「これは、ぶっちぎりで合格しなきゃいけないやつだな」
「ああ、その通りだ。がんばれ!」
ボクは彼女に向かって大きく手を振る。
彼女もそれにサムアップして応える。
そして、旗を振る従姉の方に向かって進んだ。
その受験戦士の背中は小さいけれど、勇ましく、少し大人っぽく見えた。




