叔父の心、姪知らず
桜羽 彦右衛門は自らが理事長を務める私立高校の理事室のデスクに一人座っていた。
たった今、副理事長の前田と評議委員の田所議長との定例ミーティングを終えたところだ。
広げた手帳のメモを見返し、ふぅーっと大きなため息をつき、ひとりごちた。
「そろそろ来るべき時が来たか……まあこのご時勢、時間の問題ではあったがな」
三学期も順調に滑り出し、新一年生の入試、三年生の大学入試を控える時期になった。今年度のゴールも見えてきたところだが、理事長の気は重かった。
目を閉じ、つい十分ほど前まで、この場で言い合っていたことを思い返す。あまり思い出したくもないが。
〇
「わが校は、大学の合格実績の伸び、部活動の活躍も近年めざましく、しかもこれといった不祥事も起きていません」
副理事長は、普通なら誇るべきことを遠慮がちに述べた。
「それは結構なことだ。だが何かひっかかっておるのかね? 前田副理事長」
「……は、はあ、……大変申し上げにくいのですが、方々から耳に入ってくることがあります。不祥事のリスクになりかねないことについて」
「この場での話だ。はっきり言ってくれ」
理事長は苛立ちを外に漏らさないよう、穏やかに促した。
「お察しのこととは思いますが、桜羽校長についてです」
「お察しとは? よくわからんが」
理事長は露骨にとぼける。
「し、失礼しました。つい理事長のお耳にも入っているかと思いまして……色々なお噂を」
「桜羽校長のことは、本人からも各教職員からも報告は受けておる」
「少々やることが突飛すぎるのではないかと」
「……確かに少々大胆だが、学校にとってはプラスに働いていると聞いているが」
「確かにおっしゃる通りですが、理事や教師の間からも心配する声が上がっておりまして……」
「そうか? 私はそんな声は聞いとらんな」
「その……お身内でもあるので、誰もが申し上げにくいかと」
「それはすまんな。私が話しにくい印象を与えてしまっておるのだろう。この風貌だし」
『お身内』か……前田のヤツ、評議員議長の田所にうまく話を繋いだなとうんざりする。この話題は遥を校長に推したときから何回も繰り返されてきているからだ。
「桜羽理事長、折に触れて申し上げてきましたが」
キューを出してもらった田所が話し始める。理事長はほら来た、と心の中で舌打ちした。
「ご承知の通り、私立高校の理事会は同族制限が設けられており、三親等内の親族が一人を超えて含まれてはなりません」
桜羽 彦右衛門にとっては何度も聞いている話だし、もちろん自身でも色々と調べている。だいたい『一人を超えて』とはおかしな表現だと思う。一.五人とか、二.八人などということも想定されているのか?
もともとこの高校は、桜羽家が創設し、代々、一族の人間が法に準じて学校の経営責任者と現場責任者を務めてきた。
「姪子さんでおられる桜羽校長は理事長からすれば三親等内で、私立学校法の現行法では好ましい状態にあるとは言えません」
「確かにその通りだ。だから桜羽校長の就任前に監査委員会を立ち上げ、経営と運営の透明性を担保し、お上から承認をもらっている」
桜羽校長の推薦は、半ば彦右衛門のゴリ押しに近かったので、彼の言葉には勢いがない。
「おっしゃる通り、手続き上の問題はありません。しかし……」
副理事長の前田が食い下がりながらも口ごもる。
「遠慮なく言ってくれ」
理事長は手を広げ、何でも受け入れるポーズを示した。
「……では申し上げますが、一つは社会全体でのガバナンス強化へのニーズの高まり、それから教師のコンプライアンスの懸念の高まりです」
理事長は先日、学校関係者の懇親会で誰かが得意になって言っていた『コンプライアンスが、ガバガバナンス』というジョークを思い出した。
彦右衛門が沈黙する。前田と田所は彼に目を合わせることなく、理事長から言葉が発せられるのを待った。
沈黙から十五秒。彦右衛門の口が動いた。
「そろそろ私が身を引いた方がいい時期かも知れんな」
副理事と議長は慌て、そろって両手を前に出して振る。
「いえいえ、とんでもありません! 今、理事長に退かれては、当学園の経営は立ち行きません」
「そんなこともなかろう……それとも、桜羽校長を何とかせえというのか?」
「……率直に申し上げますと、そういうことになります……やることの突飛さに加えて、最近では一人の男子生徒とあまりにも親密ではないかとの声を聞きますし、私もはい、目にしたことがあります……その生徒が誰かと申し上げるのは控えさせていただきますが」
副理事長は目を泳がせながら、なんとか言い切った。
彼が名を伏せている生徒は当校二年の榊原賢也であることは明白だ。彦右衛門は彼に何度か対面している。最初に出会った時は、遥を肩車していた。そして元日、自宅で一緒に正月料理を食べている。娘の夏鈴の家庭教師もやってもらっている。
初めて賢也の顔と姿を見た時は驚いた。亡くした息子、隆行と瓜二つだったのだ。姪の遥が彼と親しくしているのは、多分そのせいだろうと思っていた。でも最近はそれだけでないという気もしている。遥が前にも増して学校や生徒に積極的に関わるようになっているからだ。
副理事長が言った通り、わが校は勉学も部活動も生徒の生活面でもうまくいっている。でも、もっとよくなれる。私情を挟むが、息子の隆行の遺志をこの二人が現実のものにしてくれるかもしれない。理事長はそのチャンスを逃したくなかった。
「当校では、不文律ながら校長の見直しを任期三年として行っています。桜羽校長はこの春で三期目ですので、期の途中ではあり、急でもありますが、来期から譲っていただくのがよいかと……前にもご提示しましたが、元大学教授で学校の改革屋としても名高い大沢氏からも内々に色よい返事をいただいておりますゆえ……」
「すまん、もう一年、任期まで待ってやってくれ」
彦右衛門がやや強い口調で副理事長の言葉をさえぎり、続ける。
「今の取り組みの様子だと、三年目の来期には、何かしら大きな成果を出すだろう。それを見て判断を下したい」
「……ですが、このままですと、何か問題が起きかねないかと」
議長の田所が粘る。
「彼女には十分言い含めておく。万一何か問題が起きたら、全面的に責任をとる……頼む」
〇
物別れの議論を、半ばゴリ押しで終わらせてしまった。自分の悪い癖だと彦右衛門は内省する。周囲からは面の皮の厚い強硬派だと思われがちだが、そんなに強い人間ではないことは自分だけがわかっている。
確か、このデスクの引き出しの奥に葉巻のセットと灰皿が入っていたはずだ。この学校では、自らの関わった決済により、十五年以上も前に、教師や来客も含め、学内全面禁煙となっている。
理事長は一度ためらったものの、引き出しの奥から葉巻、ライター、灰皿、カッターを取り出し、机上に並べた。
十五年以上前のモノか。美味いはずないよな、しかもこの状況だし、と思いながらも見た目にも年季が入った葉巻にカッターを入れる。
と、そこで、ドアをノックする音が響いた。
「桜羽理事長、おられますか?」
慌てて葉巻のセットを引き出しに戻す。
「だ、誰だね?」
「生徒会の高島と小宮です」
「……どうぞ入りなさい」
「失礼します」
何とか引き出しをパタンと閉めたところで男女の生徒会役員が入ってきた。
「おう、生徒会長の高島さんと副会長の小宮さんか……どうしたかね?」
小宮副会長が持っていた紙と手提げ袋から何やら書類を取り出し、それと同時に高島会長が口を開く。
「理事長様に、生徒会から報告させていただきます」
「珍しいな。何だね?」
「桜羽校長先生と生徒との件です」
来たか。
言っているそばからこれだ。生徒から直訴されれば、何も言い逃れはできない。
副会長が丁寧に書類を理事長のデスクの上に広げる。
“桜羽校長先生の取り組みと生徒の声”
束になった書類の表紙にはそう書いてある。
「桜羽先生は、公務の合間を縫って、僕たち生徒と積極的に関わり、様々な問題を解決してくださっています」
生徒会長の言葉はそのように始まり、報告書を指し示しながら説明する。
・不登校になった生徒に気を配り、再び学校に来る機会をつくってくれたこと
・小学生への特別授業を実施して子供たちから『将来この学校に入りたい』との反響をもらっていること
・理科の実験において、生徒の視点で安全な環境づくりに取り組んでくれていること
・学園祭での催しや落ち葉の清掃活動をきっかけに、地域の子供やお年寄りと生徒達との交流の場づくりをしてくれたこと
・大学受験の直前対策として、生徒同士が教え合うしくみをつくり、模試の成績にも現れていること
「以上になります」
高島会長は説明を終えると、理事長の顔を見つめ、反応を窺った。
「うむ、わかりやすい説明をありがとう……だが申し訳ないが、だいたいのところ桜羽先生からも報告を受けている」
そうは言ったものの、理事長である叔父が、校長である姪から聞いたことは、もっとざっくりしていてどんな効果があったか詳しくは把握していなかった。
「もう一つ、ご報告します」
小宮副会長が一歩前に出て、書類の束をめくった。
「ここに資料としてつけさせていただいているのは、当校の生徒と近隣の方々からのメッセージのコピーです」
A3用紙一枚にメッセージカード十六枚分がコピーされており、それがざっと六、七十ページ以上ある。そうすると、ここには千名位のメッセージが書かれていることになる。
「桜羽理事長、ざっと目を通していただけますでしょうか?」
半ば強制するかのように副会長が頼んだ。
“生物の授業楽しかった! この学校に入りたい”
“学校の周囲も落ち葉が片付いたし、ヤキイモ、ホクホクだったよ”
“美味しい昼ご飯と子どもたちと話す時間をくれてありがとうね”
“これで合格間違いないッス……多分だけど”
……エトセトラ、エトセトラ。
そこには学年とクラスと氏名が明記された生徒からのメッセージに加え、名前と年齢だけが書かれた近隣の子供たちやお年寄りからの感謝の言葉が手書きで記されていた。
なかでも、理事長の目を引いたメッセージは
“校長室は、私だけのオアシスです。友達になってくれてありがとう、二年C組 斉藤より”
副会長は、首を傾け理事長に『どうですか?』と微笑む。
「君たち、よくこれだけ集めたもんだ……ありがとう。これはほとんど署名とか嘆願書に近い。何でこのタイミングで私に?」
高島会長が頭を掻きながら答える。
「うちの家、『割烹 高島』って店をやっていまして」
そうか。
彦右衛門は得心した。
そこは、副理事長の前田と議長の田所の行きつけの小料理屋だ。
多分、二人の会話を高島会長のご両親または本人が耳にしたに違いない。
さんざんコンプライアンスがー、とか言っておきながら、自分たちの方がよっぽどガバガバナンスじゃないか!
「高島さん、小宮さん。本当にありがとう、心から感謝するよ……でも、心配には及ばん。校長先生は私が責任を持って続投させる。君たちのためにな」
二人の生徒会役員の表情が明るくなる。
それを見届け、再び書類に目をやる。
“桜羽校長先生は、心のオアシスですが、心のクライシスでもあります”
「な、なんじゃあこりゃあ!」
柔和な表情が一変、運慶快慶の仁王像の形相になった。
「理事長、名前をよく見て下さい」
怒りに震えながらも、メッセージに目を落とすと、そこには
“二年C組 榊原 賢也”
と書かれていた。
生徒会役員の二人は書類を理事長に託し、理事会室を後にした。
桜羽理事長も書類をデスクに大切にしまい、部屋を出た。
姪の遥がやろうとしていることに間違いはない。そう確信した。
ただし、やり方は改善の余地があるが。
そんなことを考えつつスリッパから靴に履き替え、来客用の玄関を出ると……
二人が並んでまさに帰ろうとしていた。
若き校長と、自分の息子にそっくりな高校生。校長も制服姿だが……
「あら叔父さん、こんな時間に一人で、珍しいわね」
姪が手を伸ばし、背の高い叔父の肩をポンと叩く。
「こらこら、理事長と呼びなさい」
「まあ、堅っ苦しいわね」
「どうだ、車で送っていくか?……榊原君も」
「いいえ、結構です」
男子生徒は律儀に頭を下げる。
「そうよ、お気遣い無用。二人で仲良く歩いて帰るわ」
「……わかった。だが、肩車は禁止だ」
理事長が渋い表情で命令する。
「えー! いいじゃない」
「先生、僕は嫌です」
「じゃあ、こうしましょう……手押し車! 体力づくりも兼ねて、カバン持つから」
「絶対イヤです」
「まったく! 叔父の心姪知らず。生徒の心先生知らずだ」
叔父がそうぼやくと、姪が振り返った。
「なんか言ったー?」
まだまだ危険水域は脱していない、念入りな指導が必要だと桜羽 彦右衛門は確信した。




