師走だから走る!
「ハア、ハア……先生、もうダメです」
「ああん、まだまだこれからよ」
「そんなこと言ったって……ハア、ハア、僕、もう」
「もうちょっと、我慢して」
「まじ、ハア、ハア……勘弁してください」
「しょうがないわねえ、じゃあ、そこの公園で休憩」
ふう、助かった。朝からこれは、なかなかしんどい。
先生は自販機でポカリの小さいのを買って僕に手渡してくれた。
「ありがとうございます」
僕は、キャップを開けてベンチに腰かけようとした。
「こら、いちいち座らない!……しかしなによ、このアルアルの下品な始まり方は?」
「何のことでしょう?」
「……まあいいわ。一息ついたらストレッチね」
早朝から僕は校長先生のランニングにつきあわされている。いや、つきあわされているなんて言ったら先生から鉄拳が飛んでくるだろう。何せ『僕のため』らしいのだ。
さかのぼること、昨日の体育の授業。
〇
その日の種目はサッカーだった。
別に体を動かすのが嫌いだとか、運動音痴というわけではないが、小・中・高と進級進学していくにつれ、なるべく効率的に体を動かそうという意識が強くなった……要は持久力がないのだ。
僕は、後方のポジションを希望し、なるべくボールに絡まないようにしてチームメイトの健闘を祈った。
それでも自分の出番が終わるころにはバテバテで、ゲーム終了の合図とともにコートを出て水飲み場に直行し、体育館の階段でへたり込んでいた。もう一ゲーム出番があるが、人数は余っているので一人ぐらい抜けても大丈夫だろう。
「コラ、さぼるでない!」
そう怒鳴り声が聞こえ、背後から首に腕が回され、締めつけられた。
「イテテテ、やめてください! 校長先生」
先生は、腕を解いてくれたが、僕の前に回り、仁王立ちでにらんだ。
「なによ、あの無様なプレーは!」
「……見てたんですか!?」
「見てたなんてもんじゃないわよ。ガン見してたわよ。あのコソコソと手抜きをしようという態度、まったくなっとらん!」
「いやでも、この後の授業に差し障りが出ないようにと……」
「若者が何を言っとるのかね!? 今のうちに体を鍛えるか鍛えないかで老後に大きな差が出るわよ」
「……まだ老後のことは考えていません」
「だいたいね、日本では小中高と体育の授業があるから、嫌でも体を動かすことになるんだけど、受験勉強が始まるころからガクッとその時間が減るのよ。大学の体育なんてとってつけたようなものなんだから……いっそのこと君、体育大学に入りなさい」
「まったくそんな進路の希望はないです……ところで先生は大学に入って何か運動をしてたんですか?」
「護身術とサバイバルゲームを少々」
「……先生の進路希望は、傭兵か何かだったんでしょうか?」
「あら、ただのたしなみよ」
「……まあ、それがあって、先生は今でも元気ハツラツなんですね」
「『いまでも』っていうのは気に食わないわね」
そう言って先生は再び僕の背後に回って腕で締めてきた。そして耳元でささやいた。
「ほら、もう一ゲーム残ってるんでしょ? がんばんなさい」
「今日はもう勘弁してください……明日から頑張ります」
「ほう、言ったな?……じゃあ、楽しみに待っててね♡」
「?」
先生は腕を解き、校舎に戻っていった。
それで翌朝、午前六時。
夢うつつでドアのチャイムの音が聞こえた。
僕の部屋のドアがノックされ、母の声が僕を起こす。
「賢也、まだ寝てんの? 早く起きなさい。約束通り桜羽さんが迎えに来たって」
「え!?」
なんでこんな朝早くに! 学校に行くとしても早すぎだろ?
「ジャージに着替えておいでって」
母はそう言って階段を下りていった。
起き抜けで何をどうすればいいのかわからないが、とにかく僕はジャージに着替えて玄関に向かった。
「おっはよう! 榊原クン」
ドアを開けると、学校指定のジャージ姿の先生が立っていた。いかん。女子高生モードだ。こんなのに騙されている母もどうかしている。
「あの、これはいったい何ですか?」
「あら、昨日約束したじゃない。『明日からがんばる』って」
「……あれは言葉のアヤというかなんというか」
「まあ、そんないい加減な気持ちだったの? 先生悲しいわ」
「……今、女子高生ですよね?」
「そうそう、ハルカ、悲しいわ」
「いちいち言い直さなくていいです。では失礼します」
僕がドアを閉めようとしたら、彼女は足を入れてきて阻止した。
「……で、どうすればいいんですか?」
「ちょっとこの辺りを軽く走りましょう」
先生の目が笑ってなかったので、素直に従うことにした。
「やー、やっぱり走るって気持ちいいね!『師走』っていうくらいだから、先生は走らなきゃ」
校長先生は、わりとゆっくり目なペースで走ってくれ、僕はそれについていく。
「お言葉ですが、師走の『師』って先生じゃなくて、お坊さんのことみたいですよ」
「あらそうなの? 私はてっきり『年末は走り回るくらい先生は忙しい』っていう意味だと思ってた」
「一般的な先生は、お忙しいかも知れません。でも校長先生はどうなんですか? 僕の体力づくりなんかにつきあってくれて。おヒマなんですか」
「失礼ね! こう見えても結構忙しいのよ。特にこの時期、忘年会なんかにも駆り出されてて。結構食べちゃうから、私も体を動かさないとね」
そう言って先生は少しスピードを上げた。
「ちょっ、待ってください……ところで先生、お酒大丈夫なんですか?」
この間の、先生のへべれけな姿が目に浮かんだ。
「もちろん、ノンアルよ。でも時々無理にお酒を勧めるオヤジとかいてさ、おとといの飲み会じゃ、そいつの禿げ頭に熱燗をお酌してやったわ」
「……」
そんな話をしながら、先生は徐々に走る速度を上げていった。
油断大敵だった。
冬の冷たく乾いた空気が僕の気管を刺激し、ヒリヒリする。
僕はバテバテになりながら、何とか公園にたどりついた。
「やあ、ハルカちゃん、今日もがんばってるね」
「おはよう、巌さん、相変わらず若いわね」
「ハルちゃん、こないだはこの子のお散歩に連れて行ってくれてありがとうね」
「ワン!」
「ううん、腰痛は大変だものね、無理しないのよ。またいつでも言って」
ワンと吠えたのは、おばあさんが連れていたチワワだ。
朝早いのに、いや朝早いからか、公園の広場はお年寄りでいっぱいだ。犬の散歩をする人、シンクロして体を動かしている太極拳のおば様集団、グラウンドゴルフに興じるおじ様チーム。
みんな校長先生の姿を認めると、声に出したり手を上げたりして挨拶してくる。彼女はそれに笑顔で応えた。
「お知り合いが多いようですが、しょっちゅうここに来られるんですか?」
「うん、それもあるけど、みんな私が小さい頃から知ってるからね」
「先生はずっとこの街に住んでるんでしたっけ?」
「大学の時以外は……だいたいね」
そのあと、僕と校長先生は、お年寄りの皆さまの衆人監視の中、ヒューヒューと冷やかされながら、ペアストレッチを行った。
〇
「いただきます! わあ、このお味噌汁、白みそとカブの甘みが相まっておいしい! 銀ダラの西京漬け、ご自宅で漬けたんですか! お魚のうま味がしっかり。そしていろんな種類のキノコのお浸しに大根おろしが……」
「あの、食レポはいいから。ただの朝ごはんなんだから」
僕は、JK桜羽さんに合わせてタメ口で話している。なぜなら、ウチの家族と朝食のテーブルを囲んでいるからだ。
どうしてこうなった!?
どうやら、先生が僕を迎えに来たときに、ランニングが終わったら朝ごはん食べていきなさいと母が誘ったらしい。ご家族はと聞かれて、先生は一人暮らしと答えたようだ。
「桜羽さん、おかわりはどう?」
「はい、すごく美味しいのでいただいちゃいます!」
母は嬉しそうだ。
先生は結局ご飯を三杯おかわりした。
僕は、隣りに座っている彼女の肘をチョンチョンとつつく。
「先生あの、ダイエット中じゃなかったんですか?」
「うん、明日から本気出す」




