あめゆじゅ とてちて
あんたは小さいときから雪が降る前に必ず熱を出すよね、母はそう言って僕の枕元にお昼用のウドンと風邪薬と水を置いて部屋を出、階段を降りていった。
そんなに小さい頃のことは覚えてないけど、確かに雪が積もって友達が外で大はしゃぎしている時は、たいてい僕は布団の中にいた。
別にアウトドア派ではないので、わざわざ寒い日に雪まみれになりたいとは思わなかったが、少しもったいない少年時代を過ごしたような気もする。
ウドンを食べて暖まり、薬を飲んだらまた眠くなった。
一眠りしてまだ熱が下がっていなかったら、母のコマンド通り、医者に行こう。
◯
どのくらい寝たのかわからないが、小さなドアの開閉音と、誰かが僕のベッド脇に座る衣擦れの音が聞こえ、ぼんやりとだが目が覚めた。
母が熱を測りにきたのだろう。
「はい」
体温計が差し出された。
ありがとうと言って脇の下に挟む。
三十秒ほどしてか、それはピピピッと鳴った。
「どれ、見せてごらん」
この辺から僕は違和感を覚え始めた。
「三十七度四分か、まだ少し高いわね」
そう言って僕のおでこに手を当てた。
その声、その手のひらの感触は……
「こ、校長先生!?」
驚いてガバッと飛び起きる。
ベッドにひざまづいて僕の顔を覗き込む、制服姿の女性。
「あら、まだ起きちゃダメよ」
「……どうしてここに?」
「お見舞いに決まってるでしょ……他にも目的がない訳じゃないけど」
「……どうやってここに?」
「よくぞ聞いてくれました。話せば長くなりますが、」
「少し頭痛いので、できるだけかいつまんで話してください」
うちのドアのチャイムを鳴らしたら、母が出たので、クラスメイトの桜羽が配布物を届け方々様子を見にきたと告げた、そうだ。
これは斉藤さん宅に家庭訪問した時と同じ手口だ。
母は、せっかくだから上がってと居間に通してくれ、おいしい緑茶と和菓子をごちそうになった、そうだ。
「お義母様、私のこと完璧に同級生と信じて疑わなかったわよ。これでミッションワン、コンプリート!」
「それが目的の一つですか……あの、今さらっと『母』に『義』をつけませんでしたか?」
「まあ、よくわかったわね」
「……他にもミッションをお持ちで?」
「ウン。榊原君の情報収集。お義母様ったら、あんなことこんなこといっぱい話してくださったわ。五歳まで……」
「もういいです。……ミッション、もうないですよね?」
「そうそう、大事なの忘れてたわ。お義母様、私のことすごく気に入ってくださってね。わざわざ雪の中来てくださってありがとう、これからもよろしくねって! これで親御さん公認の仲ね」
「……親が認めても、学校や都条例が認めてくれないと思うんですけど」
この人、ソトヅラを完璧に取り繕うのがうまいから、うちの母はコロッと騙されてしまったんだろう。
「……で、どうやって、この部屋に入ってきたんですか?」
風邪引きの息子の部屋に人を入れるのを母が許す訳がない。ましてやクラスメイト(疑)の女の子を。
「私は、玄関口まで見送ってもらって、おいとましたことになっています」
「忍び込んできたんですか!?」
「まあ人聞きの悪い、ちょっと忘れ物を取りに戻っただけよ」
そう言って先生は、僕の目の前でポーチをブラブラさせた。
「……なんか熱が出てきました」
「まあ大変! どれどれ」
そう言って先生はおでこを僕の額につけた。
「……あの、先生にお引き取りいただいたら熱は下がると思います」
「ほんとにもう、イケズなんだから!」
そう言うと、先生は姿を隠した。
嫌な予感がして上体を起こして様子をうかがうと、案の定先生は僕のベッドの下を物色していた。
「……あの、今時そんな古典的な場所にヤバいものを隠しませんよ。部屋の中には何もありません」
「あら、君は仙人様かしら」
「スマホがあれば……いや、なんでもありません」
先生は家宅捜索を諦め、部屋をぐるりと見回す。
「何て言うか、飾り気のない部屋ねえ。物も少ないし」
「ほっとてください。僕はこの方が落ち着くんで」
「そうそう、外は一面雪景色よ。ちょっと水っぽい雪だけど」
会話のつながりがよくわからないが、自分の部屋をいろいろ詮索されるよりはいい。
「知ってます。僕は大雪が降る前に熱を出すらしいので」
「あら、それは特異体質ね」
そう言って先生はカーテンを開ける。雪の反射のせいか、いつもより眩しく感じられる。その明るさに照らされている先生も眩しい。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
先生がぽそりとつぶやいた。
「宮沢賢治ですか」
「まあ、よく知っているわね」
「授業で習いましたし、同じ『賢』がつくよしみで」
「あ、そうか! 君も『けんじゃ』か」
先生は一瞬驚いたが、すぐに何か一計を案じている時の表情に変わった。
「ねえ、あめゆじゅとてちて、けんじゃ?」
「無理です。熱があります。体がだるいです」
「うそ……冗談よ。変わりに私が行ってきてあげる。」
「いやいいです、必要ないです……それに、その詩って、妹のトシさんの今際のきわの時のお話でしょう? トシさんに悪いですし」
「まあいいから」
そう言い残して先生は、部屋をそっと出ていった。
と思ったら、ドアがノックされた。
「ねえ、賢也、クラスの子が届け物持ってきてくれたわよ」
そう言って、部屋に入り、クリアファイルに入れられた配布物を勉強机の上に置いた。
「桜羽さんってなかなか感じのいい子ねえ」
母が、ウチの学校の校長の名前を覚えていなかったことに感謝する。
「で、この間の外泊とあの子とは何も関係ないわよね?」
「は? 何のことでしょうか」
そんなやり取りをした後、母はドアを閉めて階下に降りていった。
ただし去り際、ベッドの脇に置かれた先生の学生カバンにちらりと視線を送ったような気もする。
五分くらい経ったが、校長先生は戻ってこない。まさかそのカバンを置いて帰ってしまったのだろうか。
カーテン越しに外を見ると。
先生はウチの隣の空き地にいた。
バサッバサッと空に向かって雪を放り投げていた。
ヤバイ、ミツカル。
「あめゆじゅ、とってきたよ」
奇跡的に神様は僕を救ってくれ、親にバレることなく先生は部屋に戻ってきた。
どこで入手したのか、手にはパンパンに膨らんだレジ袋をぶら下げていた。
中に入っているのは、雪だろう。
「それ、どうするんですか?」
「まあ見てて」
そう言うと先生は、お盆の上に載っていたドンブリやコップやらをどかし、そこに水気をたっぷり含んだ雪をバサッと乗せた。
「榊原君、君は寝てていいよ」
そう言って先生は雪の山をいじり始めた。
「♪ ゆきだるまつく……」
「先生、あとあと厄介になるので、ココでそれ歌わないでください!」
「あら、そういうもんなの?」
「できた」
ということで、お盆の上に完成したのは雪だるま。一緒に拾ってきた石コロや木の枝で、目やら口やら手やらがつけられている。口は半月型の石コロで、笑い顔になっている。
「どう? 雪が降るたんびに熱を出してたんじゃ、こういうのあまり見たことなかったでしょ」
「……そうですね。ありがとうございます」
「じゃあ、私帰るね。無理しないのよ」
「ありがとうございます」
そして。
「おまじない」
と言って僕の額に手を当てた。
十秒ほどそうした後、先生は忍者のようにそっと部屋を出ていき、玄関のドアの開閉音もまったく聞こえなかった。
ひょっとしたら、まだこの家の中に潜伏しているかも知れないとも思えた。
一人になったら急激に眠くなった。
『おまじない』が効いたのか熱も下がったようで、頭痛や悪寒も和らいだようだ。
◯
目が覚めた時は、もう陽が落ちかけていて部屋の中は薄暗かった。
風邪薬のせいかボーッとしているが、具合は大分よくなった。
さっきまで、校長先生がいたんだ。
にわかに信じられない。
ひょっとしたら、全部夢だったのかも。
そう自分の記憶を疑いながら勉強机の上を見たら、それはあった。
溶け始めている雪だるま。
「もう、しょうがないなあ」
このまま全部溶けたら僕の机の上は水浸しだ。
お盆の周りをタオルでぐるりと囲った。
そいつは、三日月型の口が少し傾けて笑っているが、小さく黒い目から涙を流しているようにも見えた。




