無理やり大人の階段を上らされたー!
「ねえ、起きて。あ、な、た」
甘いささやきが聞こえ、誰かが毛布越しに僕の肩を優しく揺する。
無視して毛布に顔をうずめる。
三分後。
「くぉら! いつまで寝とるんじゃワレ!」
そう怒鳴りつけられ、毛布をガバっと剥ぎとられた。
仕方なく上体を起こし、ソファーに腰かけ直す。
あれ!? 僕、シャツとトランクス姿だ。
慌てて毛布をかぶり直し、周りを見回すと一人掛けのソファーに僕のスラックスとワイシャツが綺麗に畳まれて置いてある。
いつ脱いだんだっけ?
「ねえ、さっきの起こし方、どっちがよかった?」
ダイニングルームから引き返してきた先生が尋ねる。
「……どっちも好ましくないが、強いていえば後者」
「やっぱ君ドエムだったか……そうだと思ってたわ」
「いや、選択肢が少なすぎます」
「人生に、都合のいい選択肢なんて転がってないわ」
そう言って僕にコーヒーカップを渡してくれた。
先生は窓を開け、自分のカップを持ってベランダに出る。
十二月初頭の冷気が部屋に入り込んでくる。
「見て、朝焼けよ」
その声に釣られ、慌ててワイシャツとスラックスを身に着けた。
僕もベランダに出て、置いてあったサンダルを突っかける。
空はまだ闇に覆われているが、ビルをシルエットとした地平線が赤からすみれ色のグラデーションに彩られている。
僕は手すりにもたれる先生に並び、彼女の表情を見る。
朝焼けのせいか、頬は赤みを帯び、目元も柔和だ。
既にシャワーを浴びたのか、栗色の髪が少し濡れている。
熱々のコーヒーを口に含む。ほろ苦いものの、後味に甘味がある。中学生になりたての頃、背伸びしてブラックコーヒーを飲み始め今に至るが、こんなにやさしい苦みは初めてだ。
地平線を見つめながら先生がつぶやく。
「一度こうしてみたかったのよね」
「?」
「夜明けのコーヒー」
「?」
「その意味知ってる?」
「知りません」
彼女は僕に視線を移し、フフフと微笑む。
「……でも、二人並んでベランダに出てるとか、まずくないですか?」
「あら、どうして?」
「その……目立ちません?」
「ここなら大丈夫よ。幸い周りに高い建物はないし、どんなに優秀なスナイパーでも私たちの狙撃は成功しないわよ……まあ、私なら、あの遠くのビルの屋上からでも君を撃ち抜けるだろうけどね」
この人、教師になる前、何かの組織にでも属していたのか?
冷たく乾いた風に当たって、ようやく頭の中がすっきりしてきた。
「コーヒーごちそうさまでした……そろそろ帰ります」
「あら、朝ごはん食べてってちょうだい。もうほとんど用意できてるんだから。ランチパックのお返しよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
僕はLINEで親に、朝食は要らないと追伸を入れる。
ダイニングルームのテーブル席に座り、先生が料理している姿を眺める。エプロンをして――もちろん服は来ている――いかんいかん。
テーブルに並んだのは、ご飯とみそ汁と、ジュージューと音を立てている肉の塊。周りを野菜の付け合わせが彩っていて、醤油とバターの香りが漂っている。
「朝からステーキ……。何の肉ですか?」
「食べてみ、当ててみ」
僕はいただきますと手を合わせ、ナイフは使わずにその肉の塊にかぶりついた。
ん? うまい!……でも、これは牛でも豚でもない。
「まさか……」
「はい! これであなたも共犯者」
マグロの肉だ。『解体シ・ヨ・ウ』で生物部員が説明していた、希少かつ、人によってはマグロの中で一番うまいという通好みの部位。
僕の反応を見て、先生は邪悪にニヤリと笑う。
やっぱりあのクーラーボックスの中身はこいつらだったのか。
向かい合って座ったテーブルの真ん中に、小皿に載った料理が一つだけある。
「これ、何ですか?」
「あっ、気がついたのね。マグロ一匹からこれだけしかとれない大変貴重な……食べたい?」
「そう言われたら食べたくなります」
「ジャンケーン、ポン!」
釣られてチョキを出す。先生はパーだ。
「ああん残念。でも、勝負は勝負ね。さささ、どうぞ」
先生は小皿を僕に寄こす。
「ありがとうございます。では、いただきます」
同じく醤油バターで焼かれた小さな肉の塊をもったいぶって少しだけ齧る。
それを先生が凝視している。
「グェッ! 苦い!」
「そんな苦かった?」
「苦いなんてもんじゃないですよ、こんなのまるごとガブリといってたら即死です」
「では、解説します……それは『にが玉』といって、生物学的には『胆のう』です。料理人はこれを潰さないよう、細心の注意を払って取り除きます」
「な、なんでそんな役に立たないモノを」
「たった今、大変お役に立ちました。にが玉を食べた人の反応をじっくり観察できました」
「……」
きっと先生、じゃんけんに勝手も負けても理由をこじつけて最初から僕に食べさす気だったのだろう。
「人はね、こうやって人生のほろ苦さを知って、大人の階段を上っていくのよ」
「これ、人生でもないし、ほろ苦いなんてハンパなもんじゃないです」
「アハハハ!」
朝の六時半。
夕べとは打って変わって、今朝はいつもの先生に戻っている。いや、ちょっとカラ元気ぎみかも知れない。
僕はごちそうさまでしたと礼を言って、帰り支度をし、玄関に立った。
「榊原君、夕べはありがとう……ごめんね、無理言っちゃって」
「いえ、お元気そうでよかったです」
「じゃあまた学校で」
「さようなら」
僕はドアを開け、振り返る。先生は少しだけ悲しそうな、不安そうな表情をしている。
「あの、先生……夕べ、ネットで調べただけなんですけど、満月やスーパームーンって、月の引力や潮の満ち引きなんかに関連して世界の各地で言い伝えやジンクスがあるんですね」
「?」
「それは決して悪いものばかりじゃないみたいなんです……スーパームーンの日にお祝い事があると幸せが長く続くとか、その日に家族で過ごすと絆が深まるとか……亡くなった恋人に会えるとか」
「そうなんだ」
「……だからその日、先生に何があったのか知りませんけど、あまり落ち込んで欲しくないんです」
「ありがとう」
「いえ」
「次のスーパームーンは来年の十二月らしいから、また一緒にいてくれると助かるな」
「え!?……でもその頃、共通テストの準備で死んでると思います」
「もう!相変わらず、イケズね」
そんな会話をして校長先生のお宅を後にした。
家では特に咎められることなく、あまり無理して勉強するなと心配して母が言った。
「よう、榊原」
登校して玄関で靴を履き替えていると、誰かに肩を叩かれた。小学校からの同級生の高島だ。夕べ僕は奴の家に泊って宿題を一緒にしたことになっている。
「今朝学校に来るときに、ゴミ出ししてたお前の母ちゃんに久々にあってさあ」
「え!?」
『夕べは賢也が世話になったね』って言われたんだけど、いったい何だあれは?」
「……で、おまえ何て答えた?」
「いや普通に世話なんかしてませんって答えたけど」
「おまえ……」
まずい。朝イチにこいつと口ウラを合わせておこうと思ってたんだけど、先を越されたか……
人はこうやって苦い思いをして、ウソにウソを重ねて大人の階段を上っていくんだろうなと実感した僕、榊原賢也であった。




