ラスト・ステージ
「待たせちゃったかな?」
先にテーブルについてミルクティーを飲んでいたわたしに、コーヒーの乗ったトレーを手にした大江先輩はそう言った。
「いえ、わたしもさっき来たところです」
わざわざ学校からも自宅からも離れたこのカフェに足を運ばせているのだ、多少遅くなっても仕方ない。
そもそも大江先輩は現在高校三年生、そして今は2月下旬。受験は終わり、後は卒業式を残すのみではあるけど、大学入学に伴って一人暮らしを始めるということで、準備に忙しいらしい。
「でも珍しいよね、森口さんが俺を呼び出すなんて。しかもこんな離れた店に」
大江先輩はわたしの正面に座り、わたしの眼を見た。
「……内密の話?」
本当にこの人は綺麗な顔をしてるな、と改めて思う。それはもう、憎たらしいくらいに。
◇
大江賢治先輩と三枝次美先輩のカップルは、わたしが星風学園高校に入学した時にはすでに学校中に知られた美男美女カップルだった。
二人を初めて見たのは、新入生歓迎の為の部活合同発表会だった。主に文化系の部活を新入生にアピールするイベントで、各部から何人かの代表が出て色々なパフォーマンスをしたり、作品を展示したりする。
書道部の書道パフォーマンス、吹奏楽部の演奏、ダンス部のフォーメーションダンス。その、次に。
演劇部の二人がステージに立った。大江先輩と、三枝先輩。演劇部の部長と副部長にして看板役者。演じたのは、二人の男女が街角で出会い、別れ、再び巡り合って結ばれるまでの二人芝居だった。
観ていて、わたしはすっかり心を奪われてしまった。いや、多分一目惚れした。ステージの上の先輩に。大江先輩も、三枝先輩も、何か特別な輝きに包まれていた。この人達の近くにいたい。そう思った。
わたしは一も二もなく演劇部に入部した。入ってみると、演劇部というものは意外と厳しい部分もあった。運動部並みにストレッチやトレーニングがあるとは思わなかった。演劇は身体を使って表現するものなので、身体をコントロール出来ないといけないからだという。
引っ込み思案だったわたしに、ほとんど主役に近い役割を振られた時は本気で悩んだものだ。そんな時、先輩は親身に相談に乗ってくれた。自分も、以前は引っ込み思案だったと。先輩の先輩──この演劇部を作り上げた人達にステージに上げられ、演じる面白さを全身で感じたからここまで来れたのだと。
「舞台の上ってね、とっても自由なんだよ」
先輩はそう言ってくれた。
その時の先輩の優しい微笑みを見て、わたしは思った。──ああ、わたしはやっぱりこの人が好きだ。
わたしは、恋人のいる先輩に、どうしようもなく恋に落ちてしまった。
実際、舞台の上の方が楽ではあった。
わたしにとっては大江先輩も三枝先輩も眩しすぎる存在で、声をかけるのすら何だか気後れしてしまう。ましてや、自分の気持ちを伝えることなんて出来るわけがない。
でも、舞台の上なら。
わたしと違う人物を演じている時なら、わたしは先輩に話しかけることも出来るし、触れることも出来るし、時には抱きしめることだって出来てしまう。
先輩、先輩。
わたし、あなたが好きです。
心の中で語りかける。
でも、どれだけシミュレーションしても、先輩の答えは決まっているのだ。
──ごめんね。森口さんの想いには、答えられない。
それだけ、大江先輩と三枝先輩の結びつきは強かった。二人が離れることも、誰かがその間に入ることも、わたしには考えられなかった。口惜しいけれど。
夏休みが始まる少し前あたり、突然大江先輩が学校に来なくなった。
表向きは事故で入院してるということになってたけど、本当のところはわからない。何かの事件に巻き込まれて大怪我をしたとか、悪い奴に誘拐されたとか、事件の目撃者になったので警察に保護されているとか、どこかの芸能事務所のオーディションを受けるべく家出したとか、変な噂ばかりが皆の間を行き来していた。
ただわたしが知っているのは、心配そうなそぶりをなるべく見せまいとしている──そして一人になった時にこっそり涙を拭っている三枝先輩の姿だけだ。恐らく三枝先輩は大江先輩の身に何が起こっていたのかを知っていたに違いないのだが、三枝先輩は誰にも何も明かさずにいた。
そのうち夏休みになり、三枝先輩も部のみんなの前に姿を見せなくなり──一週間ほどして、大江先輩と三枝先輩は二人そろって戻って来た。
前と同じように一緒にいる先輩達は、前よりももっと密な関係になっているように見えた。……きっとこの二人は何かを乗り越えたのだ、とわたしは思った。もはや誰にもこの二人の間に入る余地はなかった。
いや。最初から、二人の間に他人が入ることなんて出来なかったのだ。
わたしの恋は、始まる前から終わっていた。
◇
そして今。大江先輩が、わたしの正面に座ってわたしを見つめている。
こうやって相対していると、どうしても彼のパーツに目が行ってしまう。唇とか、手とか。
この人は、この唇でどんな風に恋人に口づけるのだろうか。この手で、どんな風に触れるのだろう。
大江先輩の手はしなやかに見えて、男らしさも感じられる手だった。手をつなぐ時、この指を絡めるのだろうか。この手で髪や頬や、……胸のふくらみや素肌にも、優しく触れるのか。
ああ、何を考えてるの、わたし。
「……あの、もうじき卒業式なんで……その前に、先輩に伝えておきたいことがあって」
「伝えておきたいこと、ね」
大江先輩は興味深そうに微笑んだ。
「それは、本当に俺でいいの?」
☆
卒業式の日が来た。
二年生は式典に出られるが、わたし達一年生は部活単位でのニ〜三人ずつが代表として校舎の前でスタンバイし、校門へと向かう卒業生を見送ることになっている。それが毎年の光景だ。
わたしは演劇部の代表の一人として、先輩達を待っていた。これが最後のステージだ。わたしにとっても。
やがて、卒業証書の筒を手にした卒業生達が三々五々校舎から出て来た。自分の部の先輩を見つけ、周りの生徒達が声を上げる。
「先輩、卒業おめでとうございます!」
「今までありがとうございました!」
先輩達も声の主に向かって手を振ったり肩を叩き合ったり、「ありがとう!」「おまえもがんばれよ!」とか返したりしている。
やがて、人波の中からわたしのお目当ての人が現れた。大江先輩と三枝先輩が、寄り添うように歩いて来る。
「先輩!」
わたしは叫んだ。
「卒業、おめでとうございます!」
三枝先輩がわたしの声に気づいて、振り返った。にこり、と微笑む。と、三枝先輩はすたすたとこちらに近づいて来て、ふわり、とわたしをハグした。
(え?)
何が起こったのか、とっさにはわからなかった。いい匂いがする。先輩の匂い。こんなに近く。吐息。身体の温もり。どきどきする鼓動はどちらのだろう。わたしはただその場で固まっていた。
先輩は、わたしの耳元でそっとささやいた。
「わたしがあなたにしてあげられるのは、ここまでよ」
わたしは戸惑って、大江先輩の方を見た。大江先輩は微笑みながら首を振った。俺はなんにも言ってないよ。
「賢ちゃんにわかったことが、わたしにわからないと思った?」
少しからかうような、声。三枝先輩の、柔らかく澄んだ声。
ああ──そうか。わかっていたのか、この人は。
◇
「それは、本当に俺でいいの?」
大江先輩の問いかけに、わたしはとっさに言葉を返すことが出来なかった。
「え、……それは、どういう……」
「だって、君が好きなのは俺じゃないよね?」
当然のことのように、大江先輩は言った。
「君の視線は、いつだって俺の隣に向いてた。君が見ていたのは俺じゃない。俺の隣にいる──三枝次美だ」
……そうだ。わたしが恋をしたのは、大江先輩の恋人である三枝先輩だ。少しウェーブのかかった髪も、柔らかな薄紅色の唇も、細くしなやかな指も、白い肌も、触れるのを許されたのは目の前のこの男だけだ。
「君にとっては俺は恋敵だ。今日ここへ来たのは、そんな俺に君が何を言いたいのかなと思ってさ」
大江先輩の言葉には、余裕が感じられた。三枝先輩に愛されているのは自分だという、圧倒的な自信と余裕。わたしはその前に、白旗を上げるしかない。
「……そんなんじゃないですよ。わたしは、大江部長に話があるんです」
「──演劇部部長に、か」
大江先輩の表情が、瞬時に切り替わった。わたしの恋敵から、演劇部の部長の座を受け継いだ者の顔になる。
「部長には、観客になっていただきたいんです」
そう。わたしのラストステージの観客になれるのは、この人しかいない。
「観客? 何のステージ?」
「卒業式、です」
わたしはきっぱりと言い切った。大江先輩は少しだけまたたきをした。
「……そうか。演じ切るつもりなんだ」
「はい」
大江先輩の言葉に、わたしはうなずいた。
「俺はきっと、厳しい観客だよ?」
「覚悟してます」
大江先輩は、にっこりと笑った。憎たらしいほどに美しい笑顔で。
「それじゃ、楽しみにしてるよ。君の“演技”を」
☆
──わたしは演劇部に入った時から、ずっと演じて来た。三枝先輩の前で、「先輩を普通に慕うただの後輩」を。だから、最後の最後までその演技を全うしようと思ったのだ。
でも、わたしの想いだけでも誰かに覚えていてもらいたくて。これが演技だということを、誰かに見せたくて。
先輩の卒業式をわたしの恋心のラストステージにしようと、以前から決めていた。ステージには「観客」が必要だ。これがどういう舞台なのか、ちゃんと理解してくれる観客は──皮肉にも、大江先輩しか思いつかなかった。
先輩とわたしの恋に別れを告げる舞台は、しかし、思わぬアドリブを振られてしまった。
わたしの気持ちを知った上での、友愛のハグ。これだけ、と三枝先輩は言った。示せるのは、このただ一度のハグだけ。それ以上の気持ちには応えられない、と。
好きです、と思わず口からこぼれそうになった。……いや、ダメだ。それを言ってしまってはいけない。わたしの演技が、根底から崩れてしまう。この演技を最後まで続ける為に、一番厳しい観客を選んだんだから。
大江先輩が見守っている。三枝先輩がわたしから離れる。わたしはただの後輩。恋ではなく、友愛の情しか持たない、同性の後輩。演じろ自分。最後まで。
「先輩!」
そして、わたしは去り行く背中に叫んだ。
「ありがとうございました!」
振り返った三枝先輩が、にこりと笑う。その笑顔を、瞬時に目の奥に焼き付ける。なんて可愛いひと。どこまでも手の届かないひと。
大江先輩が、小さく手を叩く仕草を見せた。ああ、これはスタンディングオベーションだ。
わたしは深々と頭を下げた。二人が校門を出て行く気配。わたしの眼からぽとぽとと涙がこぼれ、地面に吸われて行った。
多分、大成功だ。わたしの恋という演目の最終公演は。わたしはちゃんと後輩の役を演じ切ることが出来た。
幕が下りる。
恋が終わる。
始まったばかりの春の日差しと淡い温もりの中で、わたしの涙は、まだしばらくは止まりそうにない。