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「約束する。」

「えー、なになに?チームの試合を壊した2年生エースのエゴ?みくるん、エゴってなんだ?」

「ちょっとハチ、大声で読まないでよ、そういうのは。」

練習後、帰り支度をしながら、悠は美来に対して、スマホで検索した高校野球に関する記事について質問を投げかけていた。もっとも、言葉の意味がわかっていないようだったが。

「要するに、東海林くんがサインに背いて勝負したってことを言いたいのよ。チームスポーツなのにサイン通り投げなかったのはワガママだってこと。」

「でもさー、2アウト満塁だよ?点が入っちゃうじゃんか。」

「非情な采配っていうか…確か監督も少しは叩かれたけど、結果だけ見るとサイン通り投げないで打たれたってのがニュースになりまくってる感じよね。」2人は春のセンバツ1回戦のワンプレーに対して、それぞれ意見を述べた。


翔が投じたあの1球。

ベンチからのサインを無視して投げたあの一球は、どんな想いがこめられたボールだったのだろうか。


光は、どうしても確かめたかった。

単なる「勝ち」にこだわった結果ではなかったことを。

確固たる意志があって投じたボールであったことを。

きっと打席に立って間近で感じることが出来れば、分かるだろうということを。

翔は本当はきっと、誰よりも純粋な野球に対する気持ちを持っているということを、望んでいた。


ーーーーー


捨ててしまえば良かったのだろうか。

どうにも、野球道具を見ると思い出してしまう。

1年ほどの寮生活から久しぶりに自宅に戻ってきて、野球とは縁のない生活を送るはずだった。

だから、荷物を持って帰ってきたが、荷ほどきしたきり部屋の隅に置かれていた野球道具たちをまた使うことになるとは思ってなかった。


母さんも今朝、俺がエナメルのカバンをしょって出かけようとしていた時、驚いていたっけか。

「また…野球始めるの?」と尋ねてくる顔は、今にも泣きそうな表情をしていたな。

正直なところ、分からなかった。

俺は女相手に一打席勝負だなんて、なんで言ってしまったんだろうか。

勝つためでもない。

意地やプライド、ということでもきっとない。

何か、心にぽっかりと空いてしまった穴を埋められるような気がして、抜け殻のようになってしまっていた自分に納得が出来ずにいたところから、抜け出せるかもしれなかった。


「おっ、翔ちゃん、また野球始めたのかい?」


自転車にまたがったところでかけられた男の声に耳を貸すことはなかった。いつも通りの光景だ。


ーーーーー


野球日和、というには程遠い、曇り空の中、翔はグラウンドに立っていた。白の練習着の左胸に「東海林」と太いマジックで書かれたユニフォームに着替え、少し離れたところに立っている光と相対している。光は薄いピンクのユニフォームに、短パン、長い紺のソックスを膝まで上げ、ソフトボール選手のような出で立ちで左手にはバットが握られている。


「一打席だけ、いいな。」

という翔の声に光は帽子のつばを一度触り、帽子を深くかぶり直して、体育用であろうホームベースが置かれたところからおよそスパイク一足分離れ、構えに入った。


共学になった際に形だけはマウンドと呼べるようなものがこしらえてあるグラウンドには、遠くから聞こえてくる女子バスケ部のものであろう声が響くだけだった。


翔は、自分のルーティーンであり何度も繰り返し行ってきた深呼吸をひとつ、投球動作に入った。


「右投右打、184cmの高さから繰り出される角度とキレのあるストレートと、緩急を織り交ぜながら要所で投げる落差のあるフォークで三振の山を築く…みくるん、これ、すげえんじゃねえの?」と、例によってスマホで高校野球のニュース記事の注目選手欄に名を連ねた翔の評価を読み上げたが、隣にいる美来からは反応はない。


美来、悠、そして打席に入った光が瞬きする間もなく、翔が投げたボールはネットに吸い込まれていた。文句なしのストライク投球、光は微動だにしなかった。


翔は、足元に置いたボールを手に取り、次の投球動作に入ろうとした。


これまで沈黙を貫いていた光が、口を開いた。

「なーんだ、こんなもんなんだ、甲子園出たピッチャーの球って。」


「…」

光からの予想外の言葉に、翔は何かを言い返すこともなく、ひとつ息を吐き、再びボールを投じた。鋭い角度からインコース低めにコントロールされたボールを、光はフルスイングして打ちにいった。


チッ、と擦れるような音を立て、ほとんど軌道を変えずにネットに吸い込まれたボールは、とんでもない回転数だったことが見ていた美来と悠にも分かった。


「なっ…!?」と思わず翔は声を発してしまう。

決して手を緩めて投げたボールではなかった。むしろ、光の挑発めいた言葉に対して、ボールで応えたつもりであった。その渾身のボールを、光はチップしたのだ。飛距離0メートルのその打球は、翔を驚かせるのには十分すぎるほどの結果だった。


「東海林くん…」と、帽子を外して光は続けた。

「まさか、かわしたりしないよね?私はストレートのタイミングでバットを振るよ。フォークで落とそうが、緩急で外そうが、それでいい。でも、私は多分、後悔しない。勝負だよ、混じりっけのない、熱い勝負!」光は、ハイになっているのだろうか、興奮気味にまくしたてた。


翔は、拾い上げてから無意識にボールをグローブの中で右手で「挟んで」握っていた。忘れていた、この胸が沸騰しそうな感覚。不思議な感覚であった。打者としての力量は、何倍もこれまで対戦してきたバッターの方があるだろう。しかし、確かな感情が翔に芽生えていた。「こいつと勝負がしたい」という、純粋な投手としての本能。それだけで、翔を動かすには十分だった。


翔は一度頭の高さくらいまでボールを放り投げ、再び右手でキャッチした。


「おい、陽川、真っ直ぐ勝負だ。」


曇っていた天気は、少しずつ雨を降らしていた。雨はグラウンドに少し落ちて行き、土の色が変わっていく。


翔は一言だけ、光に告げ、投球動作に入った。


「約束する。」

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