「分からないから目指すんだよ!」
文芸部での本田の話の後、翔は家路につこうと下駄箱を目指した。日が沈みそうになるまでこの学校にいるのは転校してきて初めてであった。
「上手上手!腰を低くしてボール取れてるよ!」と、グラウンドから聞き慣れた声がしている。翔は乗っていた自転車を止め、ネット越しにその光景を眺めた。バットを持ってノックを打つ光。鉢屋、もう1人の女子に向かって個人ノックが行われていた。グラウンドではサッカー、陸上、テニスなど他の部活に混じって、野球同好会が練習している。とはいえ、ノックされたボールを取り、ネットに投げる。そのボールを拾って、またノックを打つ。側から見ても効率が良いとは言えない、野球の練習を知っている翔からすればあまりにもお粗末な光景だった。
「あれ、エース様じゃないの?」と、鉢屋がグラウンドを眺める翔の姿に気づいたようだ。
「東海林くーーーーーーん!野球やる気になってくれたの!!」と、光と鉢屋、もう1人の同好会メンバーである早瀬美来が近づいてきた。
「お前、どこまで本気なんだ。」
「なにが?」
「この球遊びごっこで、野球をやろうよだなんて俺に誘ってきたことだよ。甲子園目指せるチームになるとか言ってたな、これのどこがだよ。」
「本気も本気だよ、大の本気!人数は…まだちょっと少ないけど、これから頑張れば甲子園だって目指せるチームになるもの!」
「お前は何も分かってない。甲子園を目指すことが、どれだけ大変なことか。俺のことも何も分かっちゃいない。どんな思いで俺が野球をやってきたのかも。仲良く遊んでいて満足なら、それでいいじゃないか。もう金輪際俺を巻き込まないでくれ。」
「そんなのわかんないよ!」
と、これまでとは違う、真剣な表情で翔を見つめ、光は叫んだ。
「分からない、確かに甲子園を目指すことがどれだけ大変なことなのか分からないよ。東海林くんのこれまでのことだって分からない。でも、自分の一生懸命な気持ちって、分からなかったら持ったらいけないの?分からないから目指すんだよ!」
「光、もうその辺にしなって。」と、早瀬が口を挟んだ。
「女の子が甲子園目指したらいけない?夢を見ることがやっとできるようになったんだもん、本気で頑張るくらいやってみたっていいじゃない…叶わないかもってことなんてもちろん承知の上でやってるんだよ…それでも私は頑張りたいの!」と、光は目にうっすら涙を浮かべながら翔に詰め寄った。
頑張りたいから頑張る、そんな当たり前のことすら許されないことには縁のない時間を過ごしてきた翔にとって、自分がいかに上の立場から物を言っていたのかということにこのとき気づかされた。
翔はこれまで、小学校、中学校、高校と、自分の力で居場所を勝ち取ってきた。前の学校では先輩を差し置いて、エースナンバーを背負い試合で投げてきた。
いつからだろうか、「頑張りたい」「こうなりたい」という感情ではなく、自分がマウンドに立つべきだ、誰にも文句を言わせなければいい、と思うようになったのは。結果を出すことに囚われて、野球をやりたいという純粋な感情ではなく誰かの上に立つために実力をつけ、たくさんの人を蹴落としていくことに慣れてしまっていた自分に気づかされた。
野球を始めた、「日本一のピッチャーになる!」という自分の野球選手としての目標は、いつのまにか誰よりも優れているべきだというものに変わっていってしまっていた。
「分かったよ。」と、翔は言う。
「明日、お前にボールを投げてやる。一打席だけ。その代わり、その打席でお前の言う本気がどれくらいのものか俺に分からなかったら、二度と野球部に誘うな。」
「本気かどうか伝わったら?」と、覚悟を決めた顔で光が聞く。
「俺が未練なく野球を辞められるかどうかが分かるだけだ。」と、翔は吐き捨てるように言った。
翔は帰り道の間、いろいろなことを思い返していた。明日、久しぶりに投げるボールに込めるべき感情が、整頓できないでいる。シンプルな野球を楽しくやるという感情を失っていたのは、どれくらい長かったであろうか。勝ちにこだわり、他人をねじ伏せることを続けてきた翔にとって、何か見つかるかもしれない、そんなどこか光の熱意なら何か変わるのかもしれないという気持ちがうっすらと翔に芽生え始めていた。