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にげた日

 自分のことが気に食わない。貧弱な胸が。丸くならないお尻が。誰もあいせない弱さが。

フリックを傷つけて平気な顔をできる、傲慢さが。


 私の全部が醜くて、将来へと歩く道はどこまでも暗い。

 いろんな言葉が、いちいち胸に刺さって抜けない。些細な言葉だっていうのは、頭ではわかってる。だけど人に会うのが少し怖い。次は何を言われるんだろう。怯えるように下を向いて毎日を過ごして、こんな日々が永遠に続くようなきがした。


 それでも他人にあざ笑われるのは嫌で、私は平気なふりをして日課をこなしている。夜の訓練場に行けば、フリックに会うはわかっているのに、行動を変えることは怖くてできなかった。


「エカルテ。こんばんは」


 彼がすっかり板につきつつある紳士の笑みを浮かべ、私はその顔から目をそらした。


「うん」


「一緒に訓練しない?」


「一人のほうが集中できるから、やめとく」


「そっか。じゃあまた今度」


「うん。ごめんね」


 彼に背中を向け、遠い”かかし”に向かって歩いていく。

 胸が痛いのは気のせいだ。彼の気持ちに向き合えないことが、彼を傷つけている。彼だって本来なら、婚約者がいてもおかしくない年齢だ。

彼も私と一緒に居ることでいろいろなものを犠牲にしている。私とそれなら、もう関わっちゃだめなんだ。優しくされちゃ、もうだめなんだ。


「なんてね。一緒にやろう」

 

 隣に、彼の影がさした。私は顔をあげなかった。


「フリック。私は一人が良いの」


「ぼくは君と一緒がいいんだよ」


 軽薄な、いっそ茶化したような声だった。

 気に食わない。いろんなことが。フリックのことも、気に食わない。私、最近本当におかしいんだ。彼のことすごく好きなのに。


「いいってば。あっち行って」


「嫌だよ」


「しつこい」


「しつこくてもいい」


 なおも、彼の影が隣を歩いている。私は無視を決め込んだ。こうなったら根比べだ。


「ねえ、エカルテ」


「……」


「エカルテってば」


「……」


「君が返事をするまでぼくは諦めないからな」


 ああ、もう!


「フリックってそういうやつだっけ!?」


 優しくて、言い争いになればすぐに折れる。そんな彼だったはずなのに。


「やっと顔を上げてくれた。たしかに、そうだね。ぼくはそういうやつじゃなかったかもしれない」


 彼が本当に嬉しそうに笑うから、私はますます腹がたった。

 自分に、だ。見るんじゃなかった。こういう顔とは、もう離れないといけないのに。

 私が無言で踵を返そうとする、その手を彼が掴んだ。太くて、豆の潰れた後のある、年齢にしてはごつごつした手だった。


「……なにが言いたいの?」


「エカルテ。変わるのは当たり前なんだよ。ぼくだって、君だって。それは怖いことじゃない。大丈夫だから」


「私がいつ怖いなんて言ったの」


「言ってないよ。エカルテの過去を、ぼくは殆ど知らない。でも、出会ってからの君なら知ってる。ずっと、怯えてるような目をしてるんだ。笑ってても、ふっとそんな顔になるときがある。気になってたんだ。なんでなんだ? 教えてよエカルテ」


 お腹の底がぐるりと一回転するかのような、いらいらがあった。

 自分の一番触れられたくないところに、気付かされたからだ。自分の奥底に沈めていた一番柔らかな部分。それに彼が触れたからだ。


 私は彼が握った手を振りほどこうとしたけれど、それは叶わなかった。

 弱々しい自分の力に、ますます苛立つ。八つ当たりなんだ。わかってる。


「フリックには関係ない」


「あるよ。ぼくは、君を知りたい。お互いをもっと知りたいって思うのは悪いことかな」


「悪いよ! 私はフリックのことなんて、ちっともわかんない。ヴァロッテとだって、いつのまにか仲いい。わけわかんない。身長だって、勝手に大きくなるし。いつもまにかリーダーやってるし。泣かなくなるし。男らしくなるし。

 なんだよ。わかんないよ。なんで、私の知らない人になっていくの。私は、フリックのことなんて、ちっともわかんない! フリックなんて、フリックなんて……好きじゃ、ないよ」


 ちがう。こんなこと、言いたくない。彼のことは好きだ。大事だ。だから、遠ざけたい。

 それだけを言いたいのに、汚れた泥水を吐き出すみたいに、止まらない。


「エカルテ。聞いて」


「……聞きたく、ない」


「ぼくは昔言ったよね。君が言いたくなるまで待つって。それは、ぼくの弱さだ。踏み込む勇気がなかっただけなんだよ。関係を変えるのが怖かったんだ。でも、ぼくは変わったんだ。違う。変わりたいって、思ってるんだ」


 私の手を掴む彼の手が、かすかに震えているのに気づいたのは、今更になってだった。

 目だって、9歳の弱虫フリックのまま。涙に潤んだとても懐かしい瞳だった。

 フリックはいつでも、そこにいたのだ。

 

「エカルテ・シルフィード」


 彼が私の手を軽く引いた。それだけで、私の足が地面から少し浮いて、気づけば、彼の腕の中に居た。


「っ」


「エカルテ・シルフィード。ぼくは君を愛している。もう、待たない」


「……あ。ああ。うああ……」


 涙が、溢れた。色んな味の混ざった、だけど、一番濃いのは、きっと彼がいつもみていた、怯えの味だったのだと思う。

 

「エカルテ?」


「変わるなら、いつか君だって、私を嫌いになる。永久に変わらないでよ。それなら、私は君を愛せる」


 フリックに触れられてようやく、自分の根っこの部分に気づいた。

 きっと、妾の子、第二王子として生まれた瞬間からこびりついていた、薄汚い、けれど単純な思いだ。


 オレはいい子でいたかった。愛されたかった。愛されていないと不安だった。

 いい子でいたかった。いい子になりたかった。みんなから頼られたかった。優しくされていたかった。愛されていたい。いい子じゃないと。愛されないと価値がない。なんでオレだけ、お母さんがいないんだろう。どうして私だけ、こんな境遇なの?

 愛されたい。いい子になりたい。人を傷つけたくないのは、いい子でいたいからだ。愛されたかった。愛されたい。愛して。愛してよ。


 ついに愛してるって言われた。私はついに愛を手に入れた。

 でもオレは、彼を信じられない。愛し方が分からないままだった。それが私の根っこで、私の中心だった。


「永久に変わらないものなんて無いんだよ、エカルテ。それでも、ぼくは今君が好きだ」


「私は、だめ、なんだ。怖いんだ。近づかれるのが。また捨てられるのが。すきにはなれるけど、あいせない。もう嫌なんだよ」


「エカルテ…」


「ごめん。傷つけて。ごめん。ごめんなさい」


 彼の手が緩んで、私は逃げ出した。もうここには居られないと思った。

 

……。


 エカルテの様子がずっと変だった。いてもたってもいられなくなって、夜の闘技場に出向いたら、フリックと抱き合っていた。

良かったよかった。あの優しい幼馴染なら、大丈夫。これで、きっと安心。

 もう少ししたら、涙だって止まるだろう。

 わたしは、逃げ出した。

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