ちがうひと
気づけば、夕飯時になっていた。
メリアやレーネ、そしてシエルが心配して夕飯に誘ったり、声をかけてくれたけれど、私はずっと布団の中に潜り込んでいた。
やがて皆が夕飯に行ってしまって、部屋がしんとした。
もぞもぞと顔を出すと部屋はもう真っ暗になっている。
誰もいない。
孤独であることに、なぜだかとてもほっとした。
「ねえ、エカルテ。起きてる?」
天井を眺めていると、シエルの声がする。まだ食事を終えるには早すぎるタイミングなのに。
びっくりして、布団を慌ててかぶり直した。
普段どおりの、さっきのことなんてなかったかのような声に、私は答える。
「うん。起きてる」
「顔、出せる?」
「……ごめん」
『シエルが居ないと何もできないくせに』
ヴァロッテに言われたことが何度も頭に響いていた。
深く刺さったのは、それが本当だからだ。私自身、どこかで自覚していた。
今まで何度もシエルに助けられてきた。慰められてきた。
シエルがいないと、きっと何もできなかったのだ。
とても大事な宝石みたいな思い出達。
そのはずなのに、ヴァロッテに言われた途端、すべてが陳腐化して、おもちゃになってしまったような気がした。
自分のやってきたことが酷くガキ臭くて、これまで何度も何度も泣いて来たことが、とても恥ずかしく思える。
考えたくないのに、そんな考えが胸に何度も浮かんでくる。
そんな事を考えているのが、シエルに悪くて、顔を見せたくなかった。
顔を出さないと、また心配をかけることは分かっているのに、シエルの顔を見るのが怖かった。
顔を出したら、きっとまた泣いてしまう。
今までのようにシエルに頼ってしまう。
その事が、怖かった。
二段ベッドの階段を昇る音がして、枕元に何かが置かれた気配があった。
「パンぐらいしか、持ち帰れなかったけど……。後で食べて。お腹空いてるでしょ」
すぐ側で、彼女の優しい声がする。
パンの甘い匂いをかぐと、ぐうって勝手にお腹が大きく鳴る。
悩んでいてもお腹は減る。我ながら、変なところだけは妙に現実的だ。
ごまかすように声を出すと、自分でも思ってもみない大声が出た。
「……あ、ありがとう! シエル。シエルは、ご飯食べたの?」
「うん。食べたよ」
ああもう。最悪だ。
泣きたくなんて無いのに。
シエルに嘘までつかせて、優しくしてもらっている。
自分が情けなくて、布団の中で液体が目を伝った。
自分だけ言いたいことを喚き散らして、メリアに迷惑かけて、周りから白い目で見られて、動揺して。
挙句の果てにまたシエルに優しくしてもらっている。
こういうのは、もうだめだ。自立しなきゃって思っているのに、情けなくて涙が止まらなかった。
「エカルテ。えらかったね」
「……んぇ」
言葉にならない胡乱な声しか出せなかった。
シエルの手が布団ごしに、ぽんぽんと軽く私の体を叩いた。
「わたしは、怒れなかったもん。みんなの前でどうしていいかわかんなかった。わたしだってすごくむかついたんだ。でもさ、結局言えなかったよ。エカルテは間違ってないって、わたしは思うよ」
「……別にえらくない。怒って感情をぶちまけるだけなら、子供だってやってる。シエルやメリアのほうがよっぽど大人だよ。ちゃんと周りに合わせられて、そっちの方がよっぽど良い。オレ、結局メリアにも迷惑かけただけで何もしてない」
「それって本当に良いことって思う? 自分の頭でちゃんと考えてみて」
「思うよ! ひとと違うって不安なんだ。怖いんだよ。シエルにこんな気持ちわかんないよ! シエルはずっと女なんだから! ほっといてよ。もう、優しくしないで。シエルに頼ってばかりじゃ、オレはちっとも大人になれない!」
耳元で心臓が鳴っているみたいだった。自分の吐いた毒のせいで、息が吸えなくなって、胸が苦しい。
何度大きく吸っても、布団のなかの空気は薄くなるばかりで、ちっとも体を満たしてくれない。
酷いことを言っている。だってシエルは何も悪くない。分かっているのに、シエルに優しくされるたびに、心がささくれだつ。何が気に食わないのかもわからないまま、言葉のナイフを振り回している。
さっきからシエルはなにも返事をしなくて、真っ暗な沈黙が体にのしかかってきた。
布団から顔を出せば、彼女は傷ついた顔をしているんだろうと思う。
傷ついたシエルを見て、自分も傷ついた振りをすればいい。
そしたらシエルはまた優しくしてくれるだろう。
なあ、オレ。ご立派だね。楽しいかい。
そうやって、誰もオレの気持ちなんてわかんないって、被害者ぶって、いつまでもめそめそしていれば、みんなが優しくしてくれて幸せだろう。
最低だ。もういやだ。こんなの、オレじゃない。
シエルを傷つけたいわけじゃないのに。
でも、シエルに優しくされると心がさざめいて、酷く落ち着かない。
男でも女でもない、子供だって言われている気がするから。
わかんない、わかんない、わかんない。どうして良いのか、全然わかんない!
「――せーのっ」
それはあまりに唐突すぎて、抵抗する暇もなかった。
シエルの掛け声がしたかと思ったら、布団を一気に引き剥がされた。
一気に視界が広がって、窓から差し込む月明かりのおかげで、シエルの顔ははっきりと見えた。
存外、外は暗くなかった。
「返してよ、見ないで!」
咄嗟に両手で顔を覆った。涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、髪だってぼさぼさだ。
「ふふん。力でわたしに勝てると思わないで」不敵な笑い声と同時、両手を捕まれ無理矢理にこじ開けられる。お腹の上に馬乗りになった彼女がオレの顔を覗き込んでいる。「ずいぶん酷い顔」
「……放してよ」
私に出来るのは、すねたように顔をそむけることだけだった。
シエルはちっとも傷ついた顔なんてしてなくて、鋭い犬歯を見せて不遜な笑みを浮かべていた。
「やだ。放さない。離さなくていいって言ったのは、エカルテだよ」
「こういう意味じゃない」
「ううん。そういう意味だよ」シエルの両手を抑える力がふっと抜けた。彼女は痛みを堪えるように眉を下げて、それでも口元は笑った。
「たぶん、これは間違い。あなたへの言葉はわたしが伝えるべきじゃなくて、メリアから……ううん。違う。エカルテなら、きっと自分でちゃんと言えたと思う。待てなかった」
「……シエル、私が――」
言いかけた私の口を彼女の人差し指が塞いだ。
「わかってる。エカルテの言った通りだよ。それにね、どんなに言葉を尽くしても、わたしはあなたの苦しみを本当の意味で理解してあげられない。わたしは、どうしたって女だから。だからさ――」
彼女の顔が近づく。赤い瞳は月明かりに濡れていた。
首元に覆いかぶさられて、彼女の匂いがする。首筋に彼女の吐息がかかった。
「――だからさ。わたしはなんにもできない。なんにも言えない。けど、わたしはずっと側にいるよ」
彼女の表情は伺えない。彼女の体温や吐息はとても熱くて、だからもしかしたら、彼女は泣いていたのかもしれないと思った。
彼女の言葉がただ悲しくて、気づいたら私は両手で顔を覆って泣きじゃくっていた。
シエルと私は違う人間だ。
そんな当たり前のことを、はじめて私はこの時知ったのだ。
「ごめん」
私が言う。
「大丈夫」
シエルが答えた。
「オレひどいこと、いった」
「良いの。前、一緒に傷つきたいって言ってくれたの、すごくうれしかった」
「ごめん。シエル。ごめん、なさい。ごめん。ごめん、なさい。ごめん。傷つけて、ごめん。ごめんなさい」
「大丈夫。大丈夫だから」
ごめんなさいを繰り返して、次第に嗚咽が混ざっていく。
涙と一緒に吐き出したのは、きっと私が弱いからだ。
「シエル。私、メリアの事で、怒ったはずだったのに、クラスの皆に、違うものを見る目で見られて、すごく嫌だったんだ。怒ったこと、後悔したんだ。私、最低なんだ」
「最低なんかじゃない」
「ちがう。シエル。私、最低なんだ。
私ね、男に戻れるかもしれないんだ。でも、ちっとも嬉しくない。一生懸命、命すらかけて、方法を探してくれた人がいるのに怖くて、喜べない。
今まで築いたものが、全部無くなってしまうのなんて、いやだ。オレが男になったら、皆オレのこと嫌いになる。友達じゃいてくれなくなる。フリックだって、レーネだってメリアだって。
…シエルだって!女のオレしか知らない。
そんなの嫌だよ。怖いよ、シエル。オレは早く女になりきりたい。大人になりたい。そうすれば、その人にも、ちゃんと胸を張って断れるのに。私は女にも、なりきれない。大人になれない。こんな風になっても、まだ自分の性別がどっちかわかんないままだ。怖いよ。助けてよ、シエル」
しゃくりあげながらの言葉は酷くたどたどしくて、聞き取りづらくて、世界で一番汚い言葉のように思えた。お腹の中の、汚いもの。そんなもの、シエルにぶつけたくなかった。言うつもり、なかった。
私は、どうしたって弱くて、最低だ。
「エカルテ」
「助けてよ。私は、どうしたらいいの。教えてよ。どうしてオレだけ周りと違うの。どうして私は女にもなりきれないの」
「エカルテ……!」
「心の中、汚いものばっかだ。成長するたび汚くなってる。ずっと子供でいたかった」
「汚くなんか無い。あなたは優しすぎて、自分の事に厳しすぎるだけ。
ごめんね、エカルテ。わたしには、やっぱり何もできない。答えは上げられない。だから、ずっと一緒にいるから。答えが見つかるまで、ずっと側にいる。わたしは、あなたと一緒に傷つきたい」
そう言って、シエルは私の首筋に犬歯を立てた。
二度目のそれは短く、あんまり痛くなかった。




