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糞便移植と精神疾患の伝染

 ずっと昔に、ミトコンドリアが実は寄生生物で、人類を支配しようとするといったような話があった。

 もちろん、これはかなりの馬鹿話で、仮にミトコンドリアを別生物と見做すとしても共生生物として捉えるべきだし、そもそも“支配欲求”というのは人間のような社会性のある動物に特有のもので、生物に普遍的にあるものじゃないからミトコンドリアが人間を支配しようとするのはおかしい。

 ただ、しかし、共生生物・寄生生物の類が宿主の精神に影響を与えるというのは、実際にある話だったりする。

 例えば、ハリガネムシはカマドウマやカマキリを操作して産卵場所である水中に飛び込ませる。トキソプラズマはネズミの心に影響を与えて、猫に食わせる事で自らを猫に感染させる。ならば、人間の精神に影響を与える共生生物・寄生生物がいたって不思議ではないと思わないだろうか?

 僕がこんな話に興味を持ったのは、同棲している彼女のある変化が切っ掛けだった。

 

 彼女は生活態度がかなりだらしない。睡眠時間も食事も不規則で、おまけに偏っている。煙草は税金が増えそうだからとやっていないけど、酒の類は大好きでよく泥酔している。そんな感じだから生活の半分くらいは僕が世話をしているようなものだ。飯を用意しておくと、もったいないと思うのか、それとも僕に悪いと思うのかは分からないけど、一応は食べてくれる。そしてそんな彼女には、胃腸が弱いという悩みがあった。つまりしょっちゅうお腹を壊してしまうのだ。

 これが意外に馬鹿にできない状態で、過敏性腸症候群ではないかという疑いがあるらしい。僕としては乱れた生活が原因じゃないの?とか思うのだけど、彼女にそこを反省するつもりはまるでないようだった。そしてそんなある日に彼女はこんな事を言って来たのだった。

 

 「私、糞便移植を受けてみようと思うの!」

 

 ……糞便? なんじゃい、そりゃあ?

 と、ま、正直、それを聞いた時、僕はそう思った。変態的な何かだったらどうしようかと心配になったけれど、どうやらそうではないらしい。

 糞便移植と言うのは、健康な人の腸内細菌を移植する事で治療を行うという列記とした医療行為で、彼女の過敏性腸症候群にも効果があると言われている(ただし、2017年現在は保険適応外)。

 様々な生物が、実は共生生物である事が今日では分かって来ている。パンダは笹を消化するのに微生物の力を借りているし、蝙蝠の中には微生物によって発酵行い、メスを誘い出す種がいたりもする。もちろん、人間だってその例に漏れない。表皮常在菌は皮膚を守ってくれているし、腸内細菌は食物の消化吸収を助けてくれている。不要な臓器と思われていた盲腸は、現在では人体が提供している微生物達の住処である事が知られている。つまり、それだけ人間と共生している微生物達は人体にとって重要な存在だって訳だ。因みに腸内細菌は肥満にも影響を与えているのだそうだ。

 僕はその彼女の「糞便移植を受けたい」という提案に反対しなかった。彼女がどれだけ過敏性腸症候群に苦しんでいるのかは知っている。きっと早く解放されたいのだろう。

 まぁ、なら、さっさと生活改善しろよ、と思わないでもなかったけれど。

 探してみるとこの日本でも糞便移植を施してくれる病院があって、彼女はそこで治療を受けて来た。具体的な内容は彼女が乙女(?)であることを慮って聞かなかったけれども、結果だけを言うのであれば成功したらしい。

 そして、それから彼女はすこぶる快調になった。過敏性腸症候群が治ったばかりでなく、全般的に健康で見違えるようになったのだ。しかも、彼女はあのだらしなかった生活習慣まで改善してしまったのだ。

 早寝早起きは当り前。食べ物にも細かく拘るようになり、あれだけ好きだったお酒もあまり飲まなくなった。断っておくけど、彼女はロハスなんて少しも興味なかった。むしろ、馬鹿にしていたくらいだ。それなのに、今は健康面ばかり気にかけている。

 ある朝など、「おはよう。遅いわね」なんて言って、僕より早くに起きて朝食を用意してくれていたりした。心身ともに健全そのものだ。もっとも僕は、彼女には似合わないと思ったけれど。

 もちろんこれは良い事なのだろう。だけど、僕はちょっとばかり変な気がした。友人にそれを言ってみたら「お前、そりゃ共依存ってやつだよ。お前は彼女の世話ができなくなって淋しくなっているんだ」なんて言われたけれど、僕はそうじゃないと思っている。何故なら、彼女の食生活には妙なところがあったからだ。

 彼女は繊維分が豊富な野菜を好んで食べるようになった。ここまではいい。ところが、やはり健康に良いとされる発酵食品にはあまり手を出さない。特に“腸まで届く~”的なキャッチフレーズで売っている発酵食品は敵視しているようにすら思えた。僕が買って来ると怒りだすんだよ。理由を聞いてみると、「お腹が受け付けないの」と、そんな事を言う。あまり聞かない表現だ。

 しかも、そのうちに、彼女は更に妙な事を言い始めたのだった。

 「私、糞便移植のドナーになろうと思っているの」

 彼女が言うには、「ほら、私は糞便移植のお陰で助かったでしょう? だから、その恩返しがしたいのよ」と、いう事らしいのだけど、以前の彼女なら絶対に言わないセリフだ。やっぱりおかしい。

 どうにも腑に落ちない僕は、彼女が糞便移植を行った病院を訪ねて話を聞いてみたのだ。すると、それを聞くなり医者は明らかに動揺を見せたのだった。

 「いや、そちらもですか? 実はそんな感じで人格が変わったっていう患者さんがうちでは増えているのですよ。これで5人目くらいかな?」

 その態度から、まだ何かを隠していると踏んだ僕は更に追及をしてみた。素直な人のようなで、簡単に表情が変わる。しばらくつついていると、そのうちに観念したのか、医者は渋々とこんな話を教えてくれた。

 「実を言うと、糞便移植をして人格が変わった患者の中には統合失調症って診断を受けた人もいましてね……」

 僕はそれを聞いて、俄かに危機感を覚えた。これは、もしかしたら彼女も危ないのじゃないだろうか?

 そして、その医者に相談をし、無理を言って薬を分けてもらったのだった。

 

 僕はその日、“腸まで届く~”というキャッチフレーズのヨーグルトやなんかの発酵食品を大量に買い、まだ彼女が帰っていない時間帯を狙って家に帰った。それら発酵食品を冷蔵庫に仕舞うと、それから晩御飯の準備をする。彼女が好みそうな食材を使って工夫して。

 そのうちに彼女が帰って来た。彼女は僕が作った料理を見て、「あら、今日は作ってくれたんだ」とそう言って、その料理をじっくりと観察し始めた。使われている食材に満足をしたらしく、数度頷いていた。しかし、それから二人で料理を食べ始めると、彼女は表情を異様に曇らせた。

 「これ、変な味がしない?」

 僕は首を傾げると、「そう? もしかしたら、火の通しが甘かったかもしれない」とそう誤魔化した。それでもしばらくは食べ続けていたけれど、やがて彼女は我慢ができなくなったのか、三分の一ほどを残して席を立った。

 「悪いけど、ちょっと不味いわ」

 そして、そのまま冷蔵庫へと向かった。多分、他の物を食べる気だ。僕はそれを見て不安になった。

 “あれくらいの量で足りていただろうか?”

 それから彼女は冷蔵庫を開けた。そして、そこに並んでいる大量の発酵食品を見て目を丸くする。

 “まだ、あれを彼女には見せるつもりはなかったのだけど……”と、僕は軽く緊張感を覚えた。さて、果たしてどんな反応を見せるのか?

 それから、急速に表情を変えると、彼女は絶叫をした。

 「何よ! これはぁぁぁ!」

 目を剥いて僕を睨みつけて来る。

 「私がこーいうのを嫌いだって知った上で買ってきたのよね? アキ君は充分に知っているはずだものね!」

 そして、それから凄まじい怒りの形相を浮かべて僕に迫って来た。恐怖を覚えた僕は、席を立つと居間の方へと逃げた。怒り狂った彼女は僕を追って来る。

 「どうなのよ、アキ君! どうなのよ!」

 以前の彼女なら、例え怒ったとしてもこんな反応はあり得ない。やっぱり、今の彼女はおかしい。因みに今更だけど、僕の名前は“アキ”という。

 「ちょっと、落ち着いて!落ち着いて!」

 そう言って彼女を説得しようとしたけどまるで無駄で、追い詰められた僕はソファの上に転んでしまった。

 彼女はそこに覆い被さって来る。顔を至近距離にまで近づけると、「馬鹿にするのもいい加減にしてよ!」とそう怒鳴った。

 「あんな不味い変な料理を食わせたり……」

 こりゃ、駄目か…… とそんな彼女を見て僕はそう思う。しかし、その時だった。彼女の顔が急に変わったのだ。

 「……一体、何を食べさせたの?」

 そして、立ち上がるとそれから慌てて彼女はトイレへと向かった。

 どうやら間に合ったらしい。

 僕は安堵の吐息を漏らした。

 しばらくしてトイレの水を流す音が聞こえたかと思うと、彼女は直ぐに出て来た。表情を見る限りでは、以前の彼女に戻っている。怒りはすっかり治まっていて、

 「本当に何を食べさせたのよ、アキ君~」

 なんて涙目で抗議して来た。

 ……実は、今日の彼女の料理の中には細菌を殺す為の抗生物質を混ぜていたのだ。医者に無理を言って分けてもらったのだけど。僕は笑ってこう誤魔化した。

 「いや、ちょっと、薬を混ぜたんだけどね」

 「薬~? なんの?」

 「まぁ、良いじゃない。ところで、口直しにヨーグルトでも食べてみたら? ほら、冷蔵庫にたくさん買っておいたから」

 「ヨーグルトォ? だから私、苦手だって……」

 そう彼女は言いかけて、「ん、ま、でも、この際だからそれもいいかもね」なんて言って来た。

 それから本当に冷蔵庫に行って、あれほど拒絶していたヨーグルトを食べ始める。

 「意外に美味しいわね」

 なんて言いながら。

 そこに向けて僕は言った。

 「前から、君はヨーグルトは好きだったじゃない」

 「ん? そう言えばそうだったわね、どうして苦手になったのかしら?」

 キョトンとした顔でヨーグルトを食べ続ける彼女は、以前の彼女にほとんど戻っているように思えた。

 それを見て僕は“取り敢えず、一安心だけど、ヨーグルト程度じゃそれほど効果はないだろうから、まだちょっと不安だな”と心の中でため息混じりに吐き出した。

 抗生物質で腸内細菌を殺し過ぎてしまうと、人体に様々な悪影響があるから、早急に補充しなくちゃ駄目らしいし。

 

 ――うつ病。または、統合失調症。そういった類の精神疾患と腸内細菌が深い関りを持つと最近では考えられるようになってきているらしい。つまり、人体に住まう微生物たちは、人間の精神にも影響を与えうるのだ。

 果たして、彼女が糞便移植によって受け取ってしまった腸内細菌がどんなものなのかは分からないけど、恐らくここ最近、彼女はその影響を受け続けていたのではないだろうか?

 だから、その腸内細菌にとって有益な食材ばかりを食べようとし、ライバルになるであろう他の細菌を排除する為に発酵食品は避けていた。そしてまた、その腸内細菌は他の人体へ繁殖をするために、彼女を糞便移植のドナーにさせようともしていたのだろう。

 まぁ、単なる仮説に過ぎないけどね。

 

 それから数週間後。

 僕は苦労して、海外からある医薬メーカーのカプセルを取り寄せた。物凄い数の人の中から選ばれた健康な人の腸内細菌が入ったもので、これを取り込めば、彼女は健康な体を取り戻せるはずだった。抗生物質で腸内細菌をやられてしまった彼女が、また過敏性腸症候群になってしまったので、お詫びの意味も込めて、僕はそれを取り寄せたのだ。

 「これで治るのよね? 本当に、もうあんな悪戯は勘弁してよアキ君」

 そう言って彼女はそのカプセルを受け取った。僕は彼女に悪戯で抗生物質を食べさせた事にしておいたのだ。説明しても信じてはくれないと思って。

 彼女は何も疑っていないようだったけれど、僕は少しだけ心配だった。彼女がそのカプセルに入った何かの細菌の影響で、またおかしくなってしまわないかと。

 まぁ、流石に、今回は大丈夫だろうけど。

参考文献

 『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた アランナ・コリン 河出書房新社』


一応、断っておきますが、物語の都合上、ちょっと誇張していたりもします。

作中でも書いた通り、ヨーグルトにそれほど効果はないでしょうし。

しかし、世の中、まだまだ面白い知識がたくさんありますね。


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