ドドワール城下町のねずみたち
「パンはいらんかぁい! 今朝がた焼いたばかりのおいしいパンだよぉ!」
昼下がり。
ドドワール城下町の階段街に、パン屋のおじさんエデュータが、元気な声を響かせていた。
「なんだいエデュータ。まぁたあんたのパンは売れ残ってんのかい」
向かいの家のアンダおばさんが、そんなエデュータをからかっている。
ベッドの中で、ミルキは読んでいた本から顔をあげると、窓から外の様子を見下ろした。
背中に大きなカゴを背負って、しゃれた帽子をかぶっているのがエデュータ。向かいの家のへい越しにいる、フリルのエプロンをした、太ったおばさんがアンダおばさんだ。アンダおばさんは洗濯物を干そうとしていたみたいだ。
「おーおーアンダ。今日も太陽さんみたいにきれいじゃないか」
下町のエデュータと、階段街のアンダおばさんは、住む家は遠いけれど、同じくらいの歳で仲がいい。
「へーへーそうかい。おだててくれるのはいいけどね、あんたの売れ残りは買ってやんないよ」
「ちぇっ。景気が悪ぃな」
エデュータはパンを売るのをあきらめたみたいで、アンダおばさんと楽しそうにおしゃべりをはじめた。
これはドドワール城下町の階段街では珍しい光景じゃない。ミルキはもう何度も読んだ本を閉じると、そんな二人をじっとながめた。
ミルキはお城勤めの両親がいる少年だった。階段街に住むのはみんなお城勤めの家庭だから、これは普通のことだ。だけどミルキは一つだけ普通じゃないところがあった。彼は産まれたときから病気がちで、アンダおばさんの子供たちみたいに学校には通っていない。
ミルキは今年で十二才。階段街にいる同じ年頃の子供で、学校に行っていないのはミルキだけだ。
ミルキは大抵ずっと家にいて、それもほとんどこのベッドの上で過ごしていた。
別にベッドから出られないほど弱くはないけど、何もやることがないから、ベッドの上でおんなじ本を何度も読んでいるのだ。
だからたまにこうして家の前で人が話していると、それを楽しくながめるようになっていた。
エデュータは背負っていたパンカゴを石畳の階段におろして、楽しそうにおしゃべりをしている。アンダおばさんは洗濯物をぱんっと広げながら、そんなエデュータの相手をしている。
この景色も見慣れた景色だ。ドドワール城下町は丘に作られた街で、ミルキの家の窓からは、下町の景色まで一望できる。
そんな見慣れた景色の中で、今日はいつもと違うことが起こった。
二階の窓から見ていたミルキは、通りのかげに、三人の少年たちがいるのに気付いた。
「あ、ライオン団」
ミルキはぼそっとつぶやいた。
三人の少年たちのうち、一番大きな少年が、身を低くしながらエデュータに近付く。ぼさぼさで汚れた金髪の、ミルキと同じ歳くらいの少年だ。
この時間に学校にいないのだから、彼は階段街の子供じゃない。階段街をおりた先の、下町の少年だ。
少年は麻の袋を持って、そろりそろりとエデュータに近付いていく。麻の袋は一抱えもあるくらいに大きい。
足音をさせないのが得意なのか、エデュータもアンダおばさんもその少年には全く気付いていない。少年がパンカゴから一つ一つ、パンを袋に移しているのに、それでもまだ気付かない。
そう、少年の狙いはエデュータのパンだ。少年はパン泥棒だったのだ!
ミルキは全部を見ていたけれど、声は上げなかった。いたずらな笑みを浮かべて、ベッドから出る。それから急いで、エデュータたちのいる通りとは逆側、家の裏口に向かった。
「あっ! こらてめぇ、泥棒め!」
エデュータが気付いた。怒って大声をあげている。少年はエデュータに捕まっただろうか? 窓から離れたミルキにそれは分からない。だけど、次に聞こえたエデュータの声で、そうではなかったと分かる。
「待ちやがれっ、この泥棒ねずみ!」
少年はまんまとエデュータの手から逃れたのだ。
ミルキはかけ足で裏庭に出る。
「はん、のろまのエデュータ。俺たちゃねずみじゃねぇ! ライオン団だぁーーー!」
金髪の少年が逃げながら怒鳴り返している。通りをぐるりと回って、ミルキの家の裏通りに駆け抜けてきたようだ。
ミルキは裏口の鍵を開けて、戸を引いた。
「早く、こっち」
走ってくる金髪の少年を小声で呼んだ。少年はミルキの顔を見るとニヤリと笑う。それから迷うことなく、ミルキの方に駆け込んできた。
裏庭に少年が入ると、ミルキは急いでまた戸を閉めて、鍵をかける。
「ダンカとチューテは?」
小声で訊ねる。
「あいつらはかく乱だ。別の道を逃げてってる」
自慢げに、やはり小声で少年は答えた。ダンカとチューテは、さっき通りのかげに隠れていたもう二人の少年のことだ。
「くそぉ、どこ消えやがった」
閉めた戸の向こうで、エデュータのそんな声が聞こえて、ミルキと少年は顔を見合わせてにっと笑う。
「表に戻って行ったな」
エデュータの足音が遠ざかると、金髪の少年はミルキに言った。彼は顔中土汚れだらけで、ミルキと違って着ている服もぼろぼろだ。
「うん、そうみたい。フレット、久しぶりだね」
ミルキは半月ぶりに見る金髪の少年フレットに、親しみのこもった声をかけた。
「だな。元気してたか? ま、見たとこ問題なさそうだな。
よし、それじゃミルキ、エデュータの様子見に行くぞ」
「うん。悔しがってるかな?」
「そりゃそうさ。今日でエデュータがライオン団の餌食になるのは、なんと百回目なんだぜ」
さえないパン屋のエデュータは、フレットたちライオン団にとって狙いやすい相手だ。それにしても百回もパンを盗まれるなんて、ミルキはおかしくてくすくす笑った。
表の方の庭に出ると、アンダおばさんがエデュータに声をかけるところだった。ミルキとフレットは門の下の隙間から様子を覗く。
「まぁた逃げられたのかい。まったく、あんたってほんとさえないね。だから奥さんにまで逃げられちまうんだよ」
「おいおい、それとこれとは別の話だろうがよ」
アンダおばさんの容赦ないからかいに、ミルキもフレットも腹を押さえて笑い転げた。
それで調子に乗ったフレットが、口の周りに手をあてて、女の人の口調を真似た。
「エデュータのパンはおいしいからね、きっとあの子たちも頑張って盗んでんだよ」
声変わりをしていないフレットの声は、近くで聞いていたミルキもびっくりなくらい、女の人の声に聞こえた。
エデュータもまさかフレットの声だとは思わなかったみたいで、照れた様子で後ろ頭をなでている。
「いやぁ、そうかい? はは、参ったな。俺の二番目の奥さんになったら、毎日だっておいしいパンが食えるんだがなぁ」
冗談なのか本気なのか、エデュータがそんなことを言うから、またミルキとフレットはお腹がよじれるくらい笑い転げた。
盗みは悪いことだって?
それはもちろんそうだ。盗まれた人が迷惑するのは間違いがない。だけどフレットたちが盗みを働くのには訳がある。
フレットたちライオン団はみんな、親のいない子供たちなのだ。しかも教会の孤児院に拾われた運のいいみなしごじゃない。みんな大人に見捨てられた、子供だけで生きていかなきゃいけない少年たちなのだ。
ミルキのいる階段街とは違って、下町はとても貧しいところだ。ほとんどの人は生活に余裕なんてなくて、子供を育てられなくて捨ててしまうことがある。それにちょっとした病気やケガで、お医者様にみてもらうお金もなくて、親が死んでしまう子もいる。
そのせいで、フレットたちみたいな子供はたくさんいるのだ。
どんなに貧しくっても、子供を捨てるなんてひどいだろうって? 死んでしまいそうなら、お医者様はタダでみてあげればいいのにって?
それは違う。子供を捨てた親もお医者様も、生きていくにはお金が必要なのだ。子供を捨てる親は大抵、生きてきた中で一番辛い思いをして子供を捨てる。貧しい人を治療してあげられないお医者様も、歯を食いしばって悔しがっているのだ。
貧しいということはそれほど残酷なことで、どれもみんな生きていくには仕方のないことなのだ。
フレットたちの盗みだって、ちゃんとした働き場所なんてない彼らにとっては、生きていくのに仕方なくやっていることだ。
それにだ。下町出のエデュータは、フレットたちと同じく学校には行っていなかった。だからおじさんになった今でも計算が苦手で、いつもパンを作りすぎる。
時間がたったパンは固くなって味が落ちる。だから贅沢な階段街では誰も買わない。パンを下町で売り歩くパン屋もいるけど、下町で売ったってほとんどお金にはならない。だから売れ残ったパンは大体捨てられてしまうか、教会に寄贈される。
そんなパンだから、まだおいしい内にフレットたちがいただくのだ。
ミルキは一番最初にフレットと会ったとき、そんな話を聞かされた。あれはもう一年も前の話だ。
最初に会ったとき、それは家族で南の教会にお祈りに行っていたときだ。南の教会は下町のはずれ、林の中にあった。
カダワール教の神様は、とても優しくて慈悲深い。だから一生懸命お祈りしていれば、不幸でかわいそうなミルキも、きっと素晴らしい人生を歩める。そんなふうに両親が言うから、小さいときからずっと、調子がいい日は教会に来ていた。
神様。僕の体が丈夫になりますように。
だけどミルキの体には、どんな奇跡も起こらなかった。
一年前のミルキは、神様のことが嫌いになりかけていた。
きっと僕が元気な体になれないのは、神様が僕のことを嫌いだからだ。だったら僕も神様なんて嫌ってやる。
教会に着くと両親はお布施を持って、神官様のいる部屋に行った。いつもなら両親がいない間、ミルキはずっと必死にお祈りをする。だけど、今日は何もかもバカらしくなって、無断で教会の外に出た。そこでフレットたちに出会った。
フレットと、そばかすのダンカと、やせっぽちのチューテ。彼らは孤児院に拾われた、元の仲間に会いに来た帰りだった。
学校に行っていなかったミルキは、生まれて初めて歳の近い友達ができた。ダンカとチューテは三つと四つ年下だったけど、フレットとは同じ歳だった。
「お前もここの孤児院の子供か?」
突然声をかけられたミルキは、きょとんとしてフレットを見返す。
「ヨルムよりだいぶいい服着てんじゃん。まさかあいつ、いじめられたりしてんじゃねえよな?」
ヨルムとはフレットたちがその日会いにきた、元ライオン団の子供のことだ。なんのことか分からなかったミルキは、人見知りしながら自分が階段街の子供だと話した。
ミルキの話を聞くと、何か考えている様子でフレットがじっと見てきた。それからすぐににっと笑った。
「俺フレット。ライオン団の狩猟部隊の隊長だ。よろしくな」
ミルキはうながされるままフレットの手を取り、固く握手を交わした。
それからダンカがライオン団がなんなのか、ヨルムとは誰か、どうして自分たちがここに来たか、色々なことを教えてくれた。ダンカ一人でニワトリ小屋みたいににぎやかだった。
ダンカのおしゃべりが落ち着くと、ミルキは泥だらけになってフレットたちと鬼ごっこをした。体の弱いミルキだったが、一番年下のチューテとはいい勝負だった。
歳の近い友達と遊ぶなんて初めてだった。もっともフレットはこの鬼ごっこを、逃げ足の訓練だなんて言っていたけど。
神様。僕の体は丈夫にならないけど、初めて友達に出会えました。
ミルキはほんのちょっと駆け回っただけで、息が苦しくなった。だけど、気持ちは全然苦しくなかった。林の中ごろんと横になって、嫌いになりそうだった神様に、心で感謝の言葉を言った。
「おいミルキ。今日はこれから予定あるか? まあどうせねえよな。今日は俺たちの本部に案内してやる。ついて来いよ」
エデュータから盗んだパンをかじりながら、フレットが言った。
結局あのあとすぐに、両親がミルキを探しにきて、フレットたちは逃げるようにどこかに行ってしまった。だけど次の日、彼らはミルキの家を探し当てて、しかもなんと、ミルキに盗みの片棒をかつがせてしまったのだ!
それ以来、ミルキの家はライオン団の隠し支部になった。
普通は許可なく下町の人が階段街に来ることはできない。階段街の入り口で、いつも衛兵団の人が見張っているのだ。
だけどフレットたちには抜け道がある。その抜け道を使って、フレットたちは簡単にミルキのいる階段街に入り込めるのだ。
「うそ? それって僕もライオン団の抜け道を通っていいの?」
「ああそうだ。ミルキはもう、俺たちライオン団の一員だ。ライオン団の見習い期間は一年って決まってるんだ」
抜け道。それはこのドドワール城下町の地下にある、下水道だ。
それは城下町の住民が使い終わった水が流れる、地下にある川だ。ドドワール城下町の地下には、葉っぱの脈のように何本もの洞窟が掘られていて、それをフレットたちは抜け道に使っているのだ。
ノロマなパン屋のエデュータが、フレットのことをねずみだなんて言ったのは、彼らがまるでねずみのように地下に潜り込むからなのだ。
「見習い期間なんてあったの? それに僕見習いだったんだ。知らなかったよ」
「は? チューテから聞いてねえのか? あいつ、帰ったら説教だ」
「あ、ううん、やっぱ聞いてた。僕が忘れてたんだ」
フレットはパンを食べ終えると、「お前はチューテに甘いよな」なんて言った。
それからミルキはフレットに手を引かれて、裏口から通りに出た。しばらく歩くと、主婦たちの洗い場がある建物の裏に着く。もう昼過ぎだから、洗い物をしている人はいない。
洗い場の建物の裏には水が流れ込む縦穴がある。縦穴には重たい石のふたがしてあるけど、フレットがそれを思い切り押してずらした。
「よし、滑らねえように気を付けろよ」
縦穴にははしごがかけられていた。水が詰まってしまったとき、下町の下水道職人が入って行くためのはしごだ。
はしごはこけむしていて、ぬるぬると滑る。ミルキは慎重に穴の中に入っていった。後からフレットもきて、石のふたを元通りに閉じる。石のふたを閉じると、手元も見えないくらいに真っ暗になった。
慎重に慎重にミルキははしごを降りる。どこまで続いているのかまるで見えないから、永遠に続いているんじゃないかと不安になった。
「ゆっくりでいいからな。落ちんなよ」
上から降ってくるフレットの声がなかったら、怖くて足が動かなくなっていたかもしれない。ミルキは暗闇がこんなに怖いものだなんて、生まれて初めて知った。そして、……
「あっ」
慎重に降りていたのに、突然はしごがなくなって、ついにミルキは足を踏み外してしまった。バランスを崩して、手もはしごから離してしまう。
落ちる!
ミルキの体が宙に投げ出された。
いきなりはしごが一段なくなるなんて、フレットはどうして教えてくれなかったんだ。
全身に冷や汗をかきながら、ミルキはそんなことを思った。
だけど違った。
はしごは一段なくなったのじゃなくて、それで終わりだったのだ。ミルキが落ちたのはほんの一瞬だけで、軽くしりもちをつくぐらいだった。
「よっと」
フレットが慣れた感じで、ミルキの横に飛び降りる。
「ちょっと待てな」
がさがさと何かを探しているような音。カチッカチッという音。それから火花が飛び散って、突然辺りがぱっと明るくなった。
フレットがランプに火をつけたのだ。どうやら壁のくぼみにランプを置いてあったらしい。
「おい、いつまでしりもちついてんだ? 行くぞ」
明るくなってフレットの顔が見えると、ほっとして泣きたくなった。フレットが差し伸べてくれた手を取って、ミルキは立ち上がる。
落ち着いてみて一番最初に感じたのは、鼻がひん曲がるような臭いだ。水の流れる音が遠くから聞こえる。近くでは天井から垂れてくる水がぽたぽたぽたと鳴っている。
フレットに手を引かれてしばらく歩いた。どこをどう歩いたのか全く分からなくなるくらい、下水道は入り組んでいた。本物のねずみもたくさん見かけた。
遠くから聞こえていた水の音は、だんだん近くなり、大きな一本の川に突き当たった。
「ぜぇーったいに落ちんな」
フレットがこれでもかってくらいに、強調して言ってくる。流れの速い川は、これでもまだこの下水道の支流だという。この支流が何本か混ざった本流は、足がつかないくらい深くて、ライオン団は近寄ることも禁止しているそうだ。
「本流の向こうに出たいときは、いったんまた上に出るんだ」
そんな説明をしてくれた。
支流にそって川下に歩いて行くと、向こうの方に明るい場所が見えてきた。白い太陽の明るさじゃなくて、オレンジ色の明るさだ。
「あそこがライオン団の本部?」
「ああ。たぶんダンカとチューテはもう着いてる」
明かりの中は天然の空洞だった。ミルキの家のホールより広い。丸い空洞の中にテーブルとイスが置かれていて、そこに七人の子供が座っていた。
フレットがランプの火を吹き消した。テーブルの上には立派な三つ叉のろうそくが置かれている。
フレットはテーブルの上にパンの入った麻の袋を置く。
ミルキを空いている手前のいすに座らせると、彼は一番奥のいすに座った。
「よし、全員いるな。
ミルキ、こっちの二人が偵察隊のザッカとマルク。マルクが隊長だ。
そんでこっちの女の子三人がルールーとヒヤルダとカルナ。工作隊で、このテーブルとイスを作ったり、下水道の地図を作ったり、仕入れた布で服を作ったり、まあ色々やってくれてる。それで俺たち狩猟部隊の三人と、今日から隠し支部長に就任したお前とで、ライオン団の九人だ」
見たところ、ライオン団の団員は全員ミルキより年下だった。一番小さいルールーなんかは、まだ四歳くらいに見える。
「九人しかいないの?」
ミルキはライオン団はもっとたくさんいるのだと思っていた。ドドワール城下町には何十万人もの人が暮らしている。当然フレットみたいな親のいない子供も少なくない。
「ああ。この一年で年上の五人が、みんな働き口を見つけてったんだ」
ねずみと言われる子どもたちは、いつまでも盗みで生きていくわけではない。体が大きくなって雇い主が見つかれば、ちゃんとした仕事についていくのだ。
そんなことをフレットは教えてくれた。
「そんで昨日俺の二つ上の人が、隊商の下女になれてさ、俺たちは九人になったってわけ」
「それでも、たったの九人しかいないの? 他はみんな孤児院に行けたってこと?」
フレットはようやくミルキの疑問を理解してくれた。
「ああ、そうじゃねえよ。俺たちの他にも俺たちみたいなチームがあんだよ」
ああそっか。
ミルキもようやく理解した。ミルキはねずみと言われる子どもたちは、全員ライオン団なんだと思っていたのだ。
「ちなみにもしコンドル団のやつに会ったら、絶対仲良くなるなよ」
ミルキが首をかしげると、慣れ親しんだダンカが説明してくれた。
「あいつらはコンドルじゃなくて、ハゲタカだ。弱いやつばっか狙って狩りをして、ほんとにひどいときは、相手にケガまでさせてんだ。おかげで俺たちもすっごいやりづらくてさ。しかも人数ばっかりやたら多いから、止めようにも止められないんだ。しかもさ、」
おしゃべりなダンカは目一杯コンドル団の説明をして、さらに頭脳派のオオカミ団、女の子中心のクロユリ団、自由奔放なヤマネコ同盟とか、色々なチームを教えてくれる。
とても全部は覚えられない。
ミルキが困った顔をしていると、フレットがけらけらと笑った。
さて、今日ここにミルキが連れてこられたのには、見習いが期間終わったのと、もう一つ理由があった。
フレットがいすの上に立ち上がり、テーブルのろうそくを一本外して、片手で大きくかかげた。
「昨日で姉さんが卒業をした。だからみんな。今日からライオン団のリーダーは俺になる。反対のやつはいるか?」
誰からも反対意見は上がらない。突然の宣言で驚いたけど、今日初めてライオン団になったミルキも、当然反対する理由はない。
「よし、それなら今から、このフレット・スニクがライオン団のリーダーだっ!」
全員が拳を上げて、おー! と叫んだ。ミルキも照れながら同じように手を上げて、おーと言ってみる。
見上げるフレットは自信に満ちた表情だ。ろうそくの薄い明かりの中だから、髪も顔も汚れが目立たない。金髪に凛々しい顔立ちのフレットは、そうして見るとまるで物語に出てくる英雄のようだ。
「ライオン団は仲間だ! 家族だ! 親友だ!」
フレットが宣言する。今度はもっとしっかりと、ミルキは叫ぶ。急に熱い気持ちがこみ上げてきたのだ。
ミルキの声にかぶさって、全員の声が下水道に響いた。
ライオン団へ正式に加入したミルキは、すぐに全員から一目置かれるようになった。ミルキ以外の団員は、誰も文字が読み書きできなかったためだ。
ミルキは全員に文字を教えた。
学校に行っていなかったミルキだけど、夜には両親に計算も習っていた。他の団員が持ってくる盗品に、ミルキが値段を付けて、ライオン団は下町でそれを売りさばいた。
ミルキが来たことで、ライオン団の暮らしはずいぶん豊かになった。
「俺やせっぽちだからさ、ミルキみたいに頭良くなる。文字が読めて計算ができりゃさ、力がなくても働けるんだ」
チューテが狩猟部隊をやめて、ミルキの一番弟子になった。
フレットは新しい盗品を持って、チューテは勉強をしに、良くミルキの家にやってくるようになった。
もちろんミルキの両親には内緒だ。
来る途中エデュータから盗んだパンを食べながら、三人で色々な話をした。
ちなみにエデュータのパンに、ミルキの分はなかった。
「ミルキは食べるのに困ってないから、盗んだパンを食べたらダメだ」
フレットはそんなことを言っていた。
ミルキにとっては、ライオン団の一員になれたことはとても嬉しいことだった。
みんなに勉強を教えたり、盗品に値段を付ける仕事をしたり、それなのにパンももらえないなんて、損ばっかりだと思うだろうか?
実際ミルキは忙しくなって、体の調子はあまり良くなかった。いつもけだるくて、夜になると熱も出た。だけどミルキには今までなかったものが手に入ったのだ。
友達? いや、それはフレットたちに会ったときから手に入れていた。
退屈をしない時間? それは少しあるけど、そんなものよりもっと大事なものだ。
ミルキは目標を手に入れたのだ。ライオン団を発展させて、みんなができるだけいい仕事に付けるように応援する。そんな目標ができたのだ。
目標なんてみんな持ってるって?
そう。みんな目標は持っている。だから気付かないんだ。目標があるから人は未来を思い描ける。明るい想像ができる。
目標は力強く生きるために、元気な体と同じくらい大切なものなのだ。
今までなんの目標も持ってなかったミルキは、初めての目標を持って、すぐにそれに気付いた。
半月、ひと月、ふた月、そして半年。
ライオン団で目標ができたミルキは、時間があっという間に流れていくように感じた。
その頃ドドワール城下町では、ある問題が起こっていた。
伝染病だ。
「下町では半分くらいの人が、伝染病にかかっているそうだよ」
お城でお医者様をしている父親が、そんな話をしてくれた。
「そういえば最近エデュータが来ないね。なにか関係あるの?」
ミルキは思い付いてきいてみた。
「ああ。今下町と階段街は通行止めになっていてね。パン屋なんて入って来られないのさ。私たちもしばらく教会には行けないよ」
アンダおばさんの噂だと、エデュータも伝染病にかかったらしいと母親が付け加えた。
伝染病はとても怖い。体の弱った人や小さな子供は、目が見えなくなったり、最悪死んでしまうこともあるそうだ。
ミルキはライオン団のみんなが心配になった。
次の日やってきたフレットとチューテに、さっそくその話をきいてみた。
「ああ。風邪みたいな症状なんだけどな。実はルールーが今医者にかかってるよ」
フレットが少し暗い顔で言った。
「ミルキのおかげでさ、ライオン団には今結構お金があるんだ。だからルールーも医者に行けたんだ。心配いらないって医者が言ってたよ」
チューテが付け加えてそう教えてくれた。ミルキはほっとして、自分自身が誇らしく思えた。
次の日、毎日来ていたチューテがやって来なかった。
その次の日、盗んだ羊皮紙を持ってフレットが来た。
「チューテが伝染病になっちまってよ、しばらく来らんねえ」
伝染病は完治するまでかなり長い時間がかかる。チューテの症状は軽いそうで、心配はないとフレットは言ったけど、しばらくチューテに会えないのは寂しかった。
「僕から会いに行ったらダメかな?」
「は? ダメに決まってんだろ。お前は体が弱いんだからよ、絶対にダメだ」
厳しい口調でフレットに言われた。
それからひと月してもチューテはやって来なくて、下町の伝染病被害も収まっていなかった。それどころか、ついに階段街でも患者が出たらしい。
「しばらくお父さんはお城から出られなくなる。お母さんは逆にずっと家にいるからな」
父親にそんなことを言われて、ミルキは不安でたまらなくなった。
その日の夜、ミルキは家を抜け出して、ランプを片手に洗い場の裏に来た。それでなるべく目立つようにフレットへの手紙を置いてきた。母親がいるから、しばらく家には来られないと書いた手紙だ。
次の日の夜、手紙はなくなっていた。無事フレットに伝わったのだろう。
母親は家にいたけど、またミルキは退屈になった。
それからさらにひと月たっても、伝染病は続いていた。
数日前に洗い場の裏に手紙が置かれていた。チューテからの手紙だ。
「ルールーは元気になった。俺はもう少し。ヒヤルダとザッカも伝染病になった。ライオン団が新しく五人増えた」
そんなことが書かれていた。
ライオン団には新しく加入する人が増えていて、今では二十人を超える大きなチームになっていた。ミルキはみんながうまくやっているか不安だった。
父親が城から帰ってきた。
「階段街の伝染病は収まったみたいだ。明日からまたお母さんもお城に行くことになる」
待ちに待った報告を聞いて、その夜さっそくミルキは、手紙を書いて洗い場の裏に置いた。
次の次の日、フレットとダンカが家にやって来た。
「いや、もうほんとまいっちゃってさ。ライオン団も半分以上が伝染病になってさ、ミルキと会えないから盗品にも値段が付けられないし、ほんとぎりぎりだったんだ。
クロユリ団なんてほとんど全員やられちまったみたいでさ、仕方ないから俺らが面倒見てやってんだ。そうそう、チューテはもうすっかりいいんだけど、あいつが今本部から離れるとまずいんだ。誰にどのくらいパンを渡すかとか、全部あいつが決めてくれてんだ。それからさ、」
ダンカは会えなかった時間に起こったことを、二時間以上も話し続けた。
ミルキはダンカの話を聞きながら、二人が持ってきたたくさんの盗品を、メニュー表にまとめていった。
「ほんとにぎりぎりだったんだけどさ、エデュータのやつが元気になってくれたおかげで助かったんだ」
ダンカの話が一区切り付くと、フレットが言った。
「エデュータが? 良かった。だけどそれがどうして?」
ミルキがきくと、フレットもダンカもニヤニヤ笑った。
「あいつさ、今日こそは階段街に入れるって、毎日信じてるみたいなんだ。だから売れないのにすごい量のパンを焼くわけよ。だから俺らもすごい量のおこぼれをいただけるってわけ」
フレットがそう説明すると、ダンカが声を上げて笑った。ミルキは少しエデュータが心配になった。
「そんなこと続けてたらさ、エデュータが破産しちゃわない?」
「は? 何言ってんだよ。エデュータは階段街でパンを売れるやつなんだぜ? 下町の中じゃかなりの金持ちだよ」
ミルキはびっくりして目を丸めた。あのさえないエデュータがお金持ちだというのも、ただ階段街でパンを売るだけでお金持ちになれるというのも、考えも付かないことだった。
ただひとまずこれでライオン団も安心かと、ミルキはほっと胸をなで下ろした。
しかし、ミルキは知らなかった。思いもよらない問題がライオン団に襲いかかろうとしていたのだ。
それから数日して、疲れた顔の父親が言った。
「どうも、スレイクルード様がお忍びで下町に行ったらしいんだ。それで伝染病をお城に持ち込んで、またしばらくお城に泊まり込まないといけなくなった」
スレイクルード様というのは、このドドワール国の第三王子だ。今回は母親もお城に行けないって話じゃないし、ミルキはそれを聞いてもそんなに気にしなかった。
「下町なんて汚いねずみだらけなんだ。あんなところに好んで行くなんて、本当にスレイクルード様は変わったかただよ」
父親がそんなことを言うから、ミルキは早くお城に行っちゃえと、不機嫌になった。
「本当に嫌になるわね。その内お城にまでねずみがわくようになるんじゃないかしら」
「うん、そうだね」
母親に同意を求められたミルキは、ぐっと歯を食いしばってそう答えた。
お父さんもお母さんも、どれだけフレットたちが真剣に生きているか、まるで分かってないんだ。
ミルキは心の中で父親と母親を責め立てた。
次の日、母親がお城から帰ってきたあと、言った。
「ミルキ。喜んで。ついにお父さんの言葉を、国王様がお認めになられたのよ」
母親はとても嬉しそうにはしゃいでいた。ミルキにはどうしてそれが嬉しいのか、いまいちぴんと来なかった。
「どんな言葉が認められたの?」
「お父さんはね、ずっと伝染病の原因を王様に提言していたのよ」
「伝染病の原因が分かったの?」
「そう! 伝染病はね、地下の下水道にいるねずみのせいなのよ!」
力強く言う母親に、ミルキは信じられなくて目を丸めた。
「ミルキにはまだ分からないかしら? 伝染病はね、汚いものに宿るものなのよ。だからあの汚いねずみたちを全部殺してしまえば、これ以上広がらなくなるの。王様がね、明日の朝すぐに、下水道に毒をお流しになるんですって」
これでまたミルキのために教会にも行けるわなんて、母親は鼻歌まじりに言った。
その日母親が寝るのを待って、ランプを片手にミルキは家を飛び出した。
信じられなかった。父親と母親があんなに残酷な人だったなんて、信じたくなかった。だけどそれよりも今は、早くフレットたちに危険を知らせなきゃいけない。
ミルキは走った。
洗い場の裏の重たい石を、力の限り押す。ランプを片手にぬるぬる滑るはしごを降りる。とても危ないことだったけど、そんことは気にしていられなかった。
何度も滑りそうになり、ランプの油をこぼしそうになり、だけどミルキは、どうにかはしごを降りきった。
ミルキは走った。
少し走るだけで、息がものすごく苦しかった。
複雑な下水道はどこをどう進めばいいか、まるで分からない。だけど水の音を頼りに、ミルキは太い支流に出ることができた。
ミルキはそこでいったん息をついた。「ぜぇーったいに落ちんな」というフレットの言葉を思い出したのだ。ここでミルキが川に落ちたら、誰もフレットたちを救えない。
呼吸が整うと、ミルキは川下に向かってまた走り始めた。
心臓が破裂しそうなほど高鳴っている。目がかすむ。息は吐き出すのも吸うのもとても難しくなってきた。
おかしい。
ミルキは立ち止まる。
ずいぶん走った。それなのに、ライオン団の本部が見えて来ないのだ。
もしかしたら違う支流だったのかもしれない。
「フレット! ダンカ! チューテ!」
ミルキは親友たちの名前を呼んだ。ミルキの声は暗い下水道の中をこだまして消える。
落ち着け。違う支流と間違えただけだ。戻って別の道を探すか、掟をやぶって、本流からライオン団のいる支流を探すか。
ミルキは首を振った。ミルキは本流を見たこともない。そんな危険をおかすより、元来た方に戻るべきだ。
ミルキはくるりと向きを変えて、川上に走った。
暗い下水道。時々立ち止まってフレットたちを呼ぶけど、返事はかえってこない。
視界がぼやけてくる。体が燃えるように熱い。こんなときにも、病弱な体は言うことを聞いてくれない。
ついにミルキはそこから一歩も動けなくなった。
胸が割れそうなほど痛い。水の中にいるみたいに息ができない。がんがんと頭が痛み、耳鳴りが川の音よりも大きかった。
「フレット!」
精いっぱい吸い込んだ息で、もう一度親友の名前を呼んだ。思ったよりも大きな声にはならなくて、ほとんど反響もしない。
しかし今度のミルキの声には反応があった。
「おい、お前、ライオン団のやつか?」
顔を上げると、そこには知らない少年がいた。
ミルキは心で神様に感謝を言って、少年の言葉にうなずいた。
「おーい兄さん! やっぱりライオン団のやつだ。どうする?」
運が良かった。ここは他のチームのいる空洞のすぐそばだったらしい。姿は見えないけど、少年に呼ばれた人の声が聞こえた。
「こっちに連れて来い。こんな夜中に騒ぎまくるなんて、調子に乗りすぎなんだよ」
「だけどよ、なんかすっげぇ具合悪そうだぜ。見にきてくれよ」
呼ばれて現れたのは、ミルキやフレットよりも少し上くらいの少年だった。彼は疲れ果てたミルキの様子を見ると、ずる賢そうに笑った。
「よし、こいつを引き渡して、フレットのやつに恩を売ってやろう。おいお前、名前はなんてんだ?」
少し息が整ってきたミルキは、正直に答える。
「僕はミルキ」
彼らがフレットを連れてきてくれるなら、願ったり叶ったりだ。
「そうか。俺はオオカミ団のリーダー、ブルだ。こいつは弟のゼキッタ。よろしくな」
ブルはどことなくフレットに似た雰囲気だった。同じリーダーだからか、みなぎる誇りがよく似ていたのだ。
「ゼキッタ、ひとっ走りライオン団のところまで行ってこい」
ブルはミルキをオオカミ団の本部まで連れて行き、水を一杯分けてくれた。
「ありがとう」
「なんだ。ライオン団のくせに礼儀正しいやつだな。ライオン団の本部はそんなに遠くないから、多分すぐ来てくれるはずだ。しっかり休んどけよ」
本部にはもう二人オオカミ団の人がいたけど、二人とも寝ていた。
三十分もしないで、ゼキッタはフレットとチューテを連れてきてくれた。
「おいミルキ、お前なんでこんなとこいんだよ」
フレットの薄汚れた金髪を見たミルキは、思わず抱きつきたくなった。
「おい、本当にお前らは調子に乗ってんな。オオカミ団の本部をこんなとこだと?」
「ブル、そういう意味じゃねえよ。こいつは下水道に住んでんじゃねえんだ」
フレットとブルはあまり仲が良くなさそうだった。けど今はケンカをしている場合じゃない。
「フレット、それにブル、大変なんだ。王様が明日、この下水道にいる人たちを殺すことに決めたんだ」
言ってからミルキは泣きたくなった。お父さんがとはどうしても言えなかった。
「は? どういうことだよ?」
フレットが険しい顔できいてくる。ブルも同じような表情をしていた。二人ともミルキの言葉を信じてくれてないのだ。
「王様は伝染病の原因が、ここにいる子供たちのせいだって思ってるんだ。だから明日の朝、下水道に毒を流すって」
必死に説明をすると、フレットとチューテとブルとゼキッタが、いっせいに目を見開いた。
代表してフレットが言う。
「はぁっ? ふざけんな。どうして俺たちがそんなことするんだよ! 俺たちだって伝染病には困ってんだぞ!」
「そんなこと言ってる場合じゃない。早く逃げなきゃ」
チューテが指摘すると、ブルが口を挟んだ。
「ちょっと待てよ。とてもこんな話信じられない。なんかの間違いじゃないのか?」
「王様は汚いものに伝染病は宿るって。だから」
「ブル。こいつはみなしごじゃねえ。階段街の子供なんだ。俺たちが階段街の子供を仲間にしたのは聞いてんだろ?」
「まじかよ」
ブルはミルキの顔や服をじろじろと見て、それからしばらく考えてからうなずいた。
「分かった。幸いまだ朝までだいぶ時間がある。
おいっ! お前ら起きろ」
リーダーのブルの大声に、寝ていたオオカミ団の二人が起きてきた。
「ちっ、おいチューテ、お前は本部にこの話を伝えに行け。俺はミルキを家に送ってく。ブル。悪いが一番足の速いやつをヤマネコ同盟に走らせてくれ。さすがに他のチームも見殺しにはできねえ」
フレットとブルは伝えに行くチームを割り振った。話はすぐにまとまった。本流の向こうの一番遠いヤマネコ同盟には、ブルが走って行った。
「チューテ。集合場所はどうする?」
「偵察隊の支部がいいんじゃないか? あそこなら全員隠れられる」
「分かった。俺もミルキを送ったらすぐに合流する。それまで頼むぞ」
オオカミ団が全員いなくなると、フレットとチューテはそう打ち合わせて、すぐにそれぞれ行動を始めた。
みんなが話している間に、どんどんミルキの体調は悪くなっていった。耳鳴りがうるさくて、フレットの声がとても遠いところから聞こえる気がした。
「おい、ミルキ、しっかりしろよ」
ほとんどかつがれるようにして、ミルキはフレットに送ってもらった。
本当はミルキもライオン団のみんなと合流したかった。思い通りにならない、自分の体が恨めしかった。
フレットだってミルキと同じ十二の少年だ。ミルキのことをはげましながら行くのは、大変だっただろう。
「フレット。こんな状態じゃ僕、とてもはしごはのぼれないよ」
しかしフレットは任せろだなんて笑うと、ミルキが知らない階段街の一番下の出口に案内してくれた。長いはしごはなくて、だけど衛兵に見つかりやすいから、あまり使わない出口なのだそうだ。
そこからミルキの家までののぼり階段はつらかった。だけど、どうにか家までたどり着いた。
「落ち着いたらまた来る」
「約束だよ」
「ああ。分かった」
小声で短く約束をかわすと、フレットは行ってしまった。
夜が明けた。昨晩のむちゃな行動が、ミルキの体を苦しめていた。心も不安でどうにかなりそうだった。
母親が呼んだお医者様に、苦い薬湯を飲まされた。それから意識がはっきりしないまま、五日も時間がたった。幸運にも、ミルキが下水道に行ったとき、伝染病の患者には会わなかった。もしオオカミ団じゃなくて、ライオン団の本部に行っていたら、もっと大変なことになっていたかもしれない。
意識がはっきりしてからも、体調の悪い日は続いた。そしてその間もずっと、フレットは来なかった。
ミルキがベッドから出られるように回復したのは、あの日から十日もたった後だった。
「パンはいらんかぁい! 今朝がた焼いたばかりのおいしいパンだよぉ!」
母親がお城へ働きに出てすぐ、耳慣れた元気な声が聞こえた。
おどろいて窓から通りを見下ろす。
エデュータだ。下町と階段街がまた行き来できるようになったのだ。
まだ今日は朝早い時間だから、アンダおばさんは洗い場にいる頃だ。エデュータは遅い朝食を取る家を探しているのだろう。
ミルキは銅貨を持って家を出た。
「エデュータ」
下町の方に歩いて行こうとしていたエデュータを、呼び止める。
「おや、ミルキ坊ちゃんじゃないか。ずいぶんひさしぶりだねぇ。体の調子はいいのかい?」
「うん。ちゃんと話すのは何年ぶりだろうね」
ミルキは良く窓からエデュータを見ていたけど、エデュータと話すのは、確か七才のとき以来だ。
「パンを買うんかい? ちょうど今日はあと二つで完売だ」
ミルキは銅貨を一枚手渡した。
「毎度。そんで、何か俺に用があるのかい」
エデュータは背負っていたかごをおろしながら、そう訪ねてきた。中から二つパンを取り出すと、階段に腰掛けて、一つはミルキに、一つは自分で食べ始めた。
ミルキはどうやってたずねるべきか迷いながら、パンを一口かじった。
「下町の伝染病はもういいの?」
パンはふわりと芳醇な味で、ジャムを付けなくてもおいしかった。
「ああ。そんなことを気にかけてくれてたんだね。そういえば、ミルキのお父さんには感謝しないと。それと気まぐれな王子様にも。城下町のねずみが全部死んでからさ、伝染病はほとんど収まったよ」
みんなが死んだ。ミルキは心臓が止まるかと思うくらい、胸が痛くなった。
「そんな」
一言それだけ言うと、それから何も言えなくなった。
そんなミルキの様子を不思議そうに眺めながら、エデュータは自分のパンを食べきった。
「ああ、ミルキ坊ちゃんはライオン団のことを気にしてんのかな? 大丈夫、ねずみって言っても死んだのは本物のねずみのことだよ。あいつらは元気だ。昨日もパンを盗まれたよ。といっても下水道が使えないから、なかなか苦労しているみたいだがね」
エデュータは声を立てて笑った。ミルキは安心しながら驚いた。
「どうして僕がライオン団を気にしてるなんて分かったの?」
さえないパン屋だと思っていたエデュータは、なんとミルキがライオン団の仲間だと見抜いていたのだ。
「毎度毎度、あいつらのことを坊ちゃんちの近くで見失うんだ。俺みたいなバカでもさすがに気付くさ」
ミルキは信じられなかった。あれだけ悪さをされているのに、エデュータはミルキに少しも怒っているように見えない。ライオン団のことを話すときも、親しみを感じられるくらいだ。
「このことは他のやつらには内緒だぞ。俺がパンを作りすぎるのはさ、あいつらに盗まれてやるためなんだよ」
「え? なんで?」
「普通に渡したら、あいつらは絶対に受け取らないからさ」
確かに、きっと誇り高いフレットたちは、エデュータからただでパンをもらうなんて嫌がる。
「って、そうじゃないか。俺は息子は死んじまって、奥さんには逃げられて、俺一人食えればいいんだ。暮らしにはだいぶ余裕があんのさ。だからな、あいつらにパンを盗まれたって大したことはねえんだ」
奥さんに逃げられたというのは、ミルキも知っている話だったけど、エデュータに子供がいたというのは初めて聞いた。
「俺の子供が生きてたらなんて、そんな風に思っちまったのが始まりかね。まあ、なんにせよ、こんなことは絶対他のやつらには言わないでくれよ」
エデュータはいたずらな笑みを浮かべて、空になったパンカゴを背負って立ち上がった。
結局ミルキの父親が流させた毒は、本物のねずみを殺すためのものだったのだ。
そう。伝染病が広まった原因は、本物のねずみのせいだった。
それと毒といっても、人間が死んでしまうほどのものではなかったそうだ。
数日後、ようやく会いに来てくれたフレットとチューテに、そう説明された。
「ただなぁ。人間に害が全くないってわけじゃなかったんだ。あんまり長く下水道にいると、具合が悪くなってくるんだ。だからミルキが教えに来てくれて助かったよ」
「ほんと。そもそも考えてみたらさ、階段街の人って、俺たちが下水道に住んでるなんて知らなかったんじゃないかな」
チューテがそう推測した。
ひさしぶりに会ったフレットは、変わらず元気そうだった。下水道の毒も抜けて来ているから、またたびたび会いに来られると言った。
「下水道の毒が完全に抜けたら、僕もすぐライオン団に顔を出すよ。まだ会ったことない人たちもいるんでしょ?」
「ああ。もうすぐライオン団は百人になるぞ。俺でも名前を覚えきれないくらいだ」
「百人! うそでしょ?」
「うそじゃねえよ。これからミルキも忙しくなるぞ。覚悟しとけよ」
チューテが正確には百人の四分の三だと教えてくれた。それでも七十五人。大した数だ。
フレットは四分の三というのがよく分からなかったみたいで、首をひねっている。ミルキはそんなフレットがおかしくなって、チューテと二人で声を立てて笑った。
これからまたライオン団の人数が増えれば、本当に百人になるかもしれない。
ミルキは目標を一段高くした。百人のライオン団の仲間が、みんないい仕事に付けるように。
本当にこれから忙しくなりそうだ。ミルキは想像するだけで震えがしてくる気がした。
え? 体の弱いミルキが本当に大丈夫かって?
それは心配いらない。確かにこれからきっと大変な思いもするだろう。うまく行かないことに、心が折れそうになるかもしれない。
だけど新しい目標を持ったミルキの顔を見たら、そんな不安はきっとどこかに吹き飛ぶはずだ。
フレットに言われた覚悟は、ミルキの中でしっかりとできあがっている。
お読みいただきありがとうございました。
少し長めの短編でしたが、いかがでしたでしょうか?
いつかはこのお話をもとに長編を書きたいと思っています。
いつかまた機会があれば、そちらでもお会いできれば幸いです。