第三十六話 森の賢者
今回のお話から、第三章の開始となります。
ここは、深き森の中。
そこの奥地――上から見れば中心に位置するその場所に、森の神殿と呼ばれる大きな石造りの建物が存在していた。
そこで暮らしているユグラシアという女性は、森の賢者と呼ばれ、世間からも絶大な尊敬の眼差しを浴びていた。もっとも本人からしてみれば、勝手にそう呼ばれているだけに過ぎず、むしろ煩わしさを覚えたことも少なくない。
人々はいつどこでも勝手に期待し、勝手に失望する。そこに本人の意思などカケラもない。しかしそれを口に出したところで無意味であることも、残念ながらよく知っていることであった。
「静かね……こんな日がいつまでも続けばいいのに」
神殿の玉座に座るユグラシアは、風に吹かれる森の木々の音を聞いていた。
まるでそれは、風に身を委ねるかのよう。目を閉じてゆっくりと呼吸しながら、森の音を拾うべくそっと耳を澄ませる。
時折、生き物の鳴き声も聞こえてきた。それもまた彼女の心を落ち着かせる。
平和な証だ。どうして人々は戦いを挑もうとするのだろうか。
魔物だろうとヒトだろうと、それこそなんでも相手にする。長い歴史の中で、それが途切れたことが果たしてあっただろうか。
世界の平和のために、我々は戦い続けます。そんな言葉を何度聞いただろうか。
それは勇敢であり立派であり、そして恐ろしく薄っぺらい。いつしかユグラシアは心からそう思えてならなくなっていた。
そして残念なことにこれからも、それは全く変わることはないのだろうと、深いため息をつくことも加えて。
「ユグラシア様ーっ! おられますかーっ!」
遠くから老人の声が近づいてくる。ユグラシアが目を開けると、手のひらサイズで羽根を生やした、白いヒゲに包まれた老人が飛んできた。
それは紛れもなく妖精という存在であり、デフォルメされたその外見は、たとえ老人といえど可愛らしく見える。
呼ばれたユグラシアは、飛んできたその妖精に向かって優し気な笑みを浮かべる。
「ロズ様。そんなに慌ててどうかされましたか?」
「どうしたもこうしたもありませんぞ! 感じませぬか? 外界から我らの同胞が近づいているのを! 我ら妖精の長老としては、黙っておることなど出来ませぬ!」
「同胞ねぇ……」
妖精の長老、ロズの叫びに、ユグラシアは目を細める。
「つまり他の妖精が、森の外からこちらに近づいていると……でしたら最初からそういうふうに言えばよろしいではありませんか」
ユグラシアが呆れ気味に言うと、妖精の長老、ロズは目をクワッと見開いた。
「そ、それは確かにそうですが、そんなことは些細な問題ですぞ! 外から我らと同じ妖精が近づいているというこの事実が、もはや普通ではないことぐらい、あなたもお分かりのハズですじゃ! もし一歩でも外に出れば、たちまちドス黒い悪しき心を持った族に狙われ、襲われ、そして売られてしまう。そんな恐ろしい外界から妖精が近づいてくるのですぞ! これがどうして慌てずにいられることができましょうか!」
「……わ、分かりました。よく分かりましたから落ち着いてください」
ロズの酷い慌てっぷりに苦笑しながら、ユグラシアは空中に魔力を走らせる。そしてそこに作り出された球体の中に、映像が映し出された。
荒野を走る一匹のキラータイガー。その背に乗っている人間族の少年と、エルフ族の少女が一人ずつ。そして人間族の少年には、三匹の魔物が一緒にくっ付くように乗っていた。そしてその一匹は、紛れもなく妖精であった。
「おぉ、なんとクーではないか! 数ヶ月前に行方知れずとなったクーが、生きて無事に戻ってきたのか。実にめでたいことじゃが……なんじゃ、この少年は?」
涙を流して喜んだ次の瞬間、ロズは目を細めて映像に映る少年を睨む。
「さてはコヤツがクーをかっさらったというのか? 飛んで火にいる夏の虫とは、まさにこのことを言うようじゃのう。かくなる上はワシがあの小僧に引導を……」
睨みを利かせるロズに、ユグラシアが深くため息をつく。
「お待ちなさいな。よく見てください。クーちゃんはとても楽しそうですよ?」
「むっ?」
ユグラシアの指摘を受けたロズは、改めて少年たちを凝視する。
確かに妖精も少年も、そして他の魔物たちも、実に楽しそうに笑っていた。無理をしている様子は全く見られず、心から信頼している表情であることが分かってしまう。
ロズはとても動揺していた。これは一体どういうことなのか。目の前に映し出されている映像は、全てニセモノではないのか。頼むからそうであってくれと、ロズは願いを込めてユグラシアを見るが、その直後に事実であると悟ってしまう。
「あら、キラータイガーが止まりましたね。どうやら休憩みたいですよ」
映像の中では、大きく縦に伸びた岩陰に座り込む少年たちの姿。
水分補給をしながらも、少年は魔物たちと楽しくじゃれあっていた。エルフ族の少女も傍でキラータイガーと戯れながら座っており、純粋エルフ族に比べると耳がやや短く見えるが、ロズやユグラシアからすれば気になる問題ではない。
楽しそうな表情を浮かべる少年と妖精に、二人は揃って釘付けとなっていた。
「クーちゃんったら幸せそうね。あんなに笑顔で頬ずりなんかしちゃって、本当に彼のことが大好きなのね」
ユグラシアは和やかな笑みを浮かべ、そして安心していた。
彼女もクーが行方不明になったときは心配していた。しかしこうして無事でいてくれて安心した。おまけに心から信頼できる人に巡り合えたようではないか。
少年が魔物使いであることもすぐに気づいた。三匹の魔物たちの額の印。これが従えていることを示す、なによりの証拠。彼らの様子からして、それなりの期間を過ごしてきたのがよく分かる。
本当の固い絆で結ばれている姿を、ユグラシアは久々に見たような気がした。
しかし、傍で見ている老人は、心の底から信じていないようであった。
「わ、罠じゃ! これは何かの罠に間違いありませんぞ! クーもあの小僧にダマされておるに決まっておる! かわいそうなことじゃ。ユグラシア様、もはや一刻の猶予もありませぬ! クーを魔の手から助け出すためにも、あの忌まわしき小僧を我々の手で討ち取るべきですじゃ!」
「いいえ、それはなりません」
ぴしゃりと言い放つユグラシアに、ロズは顔をしかめる。
「ユグラシア様。あなたともあろうお方が、情に流されるとはらしくないですぞ」
「情などではありません。少し落ち着きなさいということです。見たところ、彼らはこの森に向かってきている様子。まずは迎え入れ、話を聞くことから……」
「手ぬるいですぞ! あなたはヒトを……特に人間族を甘く見過ぎです! ヤツらの欲望は、まるで底なし沼といっても過言ではありませぬ。それはあなたもよくお分かりのハズですじゃ!」
拳を握り、激情に駆られるロズの姿を見て、ユグラシアは頭を抱え出した。
「とにかくこれだけは言っておきます。勝手な行動は断じて許しません」
「……本当に残念ですじゃ。ユグラシア様ならば、ワシの気持ちを分かってくれると信じていましたが……どうやらここまでのようですな」
ロズはお辞儀一つせずにその場を去った。あなたには失望しましたぞと、そんな雰囲気を醸し出しながら。
「私としたことが……面倒なことにならなければいいのだけど……」
ユグラシアは後悔の念に駆られるが、もはや後の祭りでしかなかった。
◇ ◇ ◇
サントノ王都を旅立ってから三週間――遂にマキトたちは、ユグラシアの大森林に到着した。
実際マキトたちも、こんなに早く到着できるとは思っていなかった。
普通ならば一ヶ月半ぐらいかかる距離を、キラータイガーの凄まじい移動速度のおかげで、ここまで短縮できたのだった。
そんな驚きを胸に秘めつつ、マキトたちは去りゆくキラータイガーに別れを告げる。
「バイバーイッ!」
「送ってくれてありがとう! 元気でなーっ!」
キラータイガーが見えなくなるまで、マキトたちは手を思いっきり振っていた。
短い付き合いでも、やはり名残惜しく感じてしまう。またいつか会いたいと、マキトは願わずにはいられなかった。
そして見送り終わったマキトたちは、改めて目の前の大森林を見上げる。凄まじい高さの木々が左右に広がっており、それらはどこまでも続いている感じであった。どう見ても、サントノ王都の南の森とは比べ物にすらならない。
「まさかこれほどとは思ってなかったな。ぶっちゃけ侮ってたよ」
「私も同意見かな」
マキトは勿論のこと、何気に初見であるアリシアも、心の底から驚いていた。
言葉どおりと言われればそれまでだし、大森林のウワサ話はスフォリア王国でもサントノ王国でも広がってはいた。しかしだからと言って、この広さを想定しろというのは無理だと、アリシアはツッコミたい気持ちに駆られていた。
「こんだけデカくてしかも迷いの森なんだろ? こりゃあ通り抜けるだけでも相当苦労しそうだな」
「それには及びませんよ」
「いやいや、どっからどう見ても及ばないわけが……へっ?」
マキトは突如介入してきた第三者の声に、目を丸くして慌てて見渡すと、思わず息を飲んでしまうほどの美女がそこに立っていた。
髪の毛は森をイメージさせるような深い緑のストレートロング。そのスタイルの良さからして、大人の色気という言葉がよく当てはまる。おまけに優しげな表情は母性に満ち溢れており、人々どころか魔物すらも癒してしまいそうだ。
「あーっ、ユグラシアさまーっ!」
ラティが一直線に女性に向かって飛んでいき、ユグラシアと呼ばれた女性はそれを受け止める。
満面の笑みを浮かべながら、ラティはユグラシアに頬ずりをし出した。
「ユグラシアさまー、会いたかったのですー!」
「久しぶりねクーちゃん。元気そうでなによりだわ」
ラティの嬉しそうな表情からして、この女性は恐らくラティの知り合いなのだろうとマキトは思う。ふと隣から、アリシアの驚きに満ちた声が聞こえてきた。
「う、うそ……本当に森の賢者様? どうしてこんなところに?」
動揺しながら体を小刻みに揺らすアリシアの隣で、この人が賢者なのかと、マキトはジッと見据えていた。
同時に、森の賢者が神族であることも思い出す。
神族の外見は人間族と全然変わらない。仮に町を歩いていても、人々は人間族としか思わないだろう。それぐらい、どこで見分けるのか全く分からないくらいだ。
神族特有のオーラでもあるのかとマキトは思ったが、特にそれらしきモノは全く感じられない。
ユグラシアとマキトたちがそれぞれ自己紹介をしあい、マキトが魔物使いであることを知り、改めて納得したような表情を浮かべるユグラシアであった。
「やっぱりそうだったのね。テイムの印がついているから、もしかしたらと思ったのだけど……本当に無事で良かったわ。ロズ様も……心配していたのよ」
「そうですか。それは悪いことをしてしまったのです」
少しだけ言い淀むユグラシアであったが、ラティもマキトたちも特に気になっている様子はなかった。
マキトと魔物たちはしょんぼりするラティに、そしてアリシアは憧れの賢者様に会えた嬉しさで、それぞれが視線を外したり視点がボヤけたりしていたため、彼女が憂鬱そうな表情を浮かべていたことに気づくことはなかった。
「よろしければ皆さま、私の暮らす森の神殿にお越しくださいな。少しでも長旅の疲れを癒していただければと……」
「良いんですかっ?」
ユグラシアの誘いに真っ先に反応したのは、アリシアであった。
「憧れの賢者様に会えただけでなく、まさか神殿に誘っていただけるなんて……まるで夢みたいです!」
「そ、それは光栄に思うわ……どうもありがとう」
「てゆーか、アリシアは少しだけ落ち着いてほしいのです……」
ドン引きするユグラシアを見かねて、ラティがはしゃぎまくるアリシアにツッコミを入れる。それによってアリシアは少し正気に戻り、顔を赤くするのだった。
「それでは参りましょう。私について来てください」
マキトたちはユグラシアの案内で、森の中へと入っていく。
まるで外界から遮断されているみたいに静かであり、別世界のようであった。木漏れ日が適度な明るさを作り出しており、入り組んでいながらも、どこか歩きやすさを感じさせる。
時折すぐ傍を通りかかる野生の魔物たちも、ユグラシアが付いているからか、襲ってくる様子はなかった。もし彼女が一緒でなければ、今頃は容赦なく襲われていたことだろう。それ以前に、ここまで静かだったかどうかも怪しいところだが。
アリシアが言っていたことをマキトは思い出す。大森林は魔力によって迷いの森と化しており、森の神殿へは簡単に辿り着けないようになっていると。
しかし今は、一直線に真っ直ぐ森の中を進んでいるように思える。ユグラシアが一緒にいるおかげであるのは間違いない。
(もしかしなくても俺……メチャクチャ凄い状況の中にいるんだろうな……)
流石のマキトも、そう思わずにはいられなかった。
冒険者――特に魔導師や魔法剣士にとっては、まさしく夢のような状況だろう。現にアリシアは、さっきからずっとキラキラした笑顔のままだ。こういうのを夢心地と言うんだろうなと、マキトはこっそり苦笑する。
ちなみにラティは、ユグラシアにこれまでの経緯を一生懸命説明している。
ユグラシアはそれを興味深そうに聞いており、時折驚いた表情を浮かべていた。
「そうだったの……クーちゃんも大変だったわね」
「でも、今となっては良かったのです。こうしてマスターに出会えたのですから。もちろんスラキチやロップル、それにおじいちゃんとかもなのですよ?」
「ふふっ、ちゃんと分かってるわよ」
慌てて取り繕うラティに、ユグラシアは微笑みながら落ち着かせる。
じいちゃんは元気にしてるかなぁと、マキトは二人の会話を聞きながらボンヤリと思うのだった。
「それにしても不思議な縁よね。盗賊に捕まったら、そこから更に運命の出会いがあったということでしょ? 普通ならそんな都合の良い展開はないと思うわ」
「うーん、そうなのでしょうかねぇ……」
ラティが首を傾げる後ろで、マキトも改めて思い返してみる。
普通ならば盗賊に捕まった時点で、人生が終わってしまうことだろう。無事に逃げ出しただけでも奇跡だ。それに加えてクラーレという良識ある老人に助けられ、その上で自分と出会い、こうして故郷に帰ってこれたのだ。
確かにラティは色々とツイていたようだ。まさに都合の良すぎる展開と思われても、何ら無理はないだろう。
「一応、確認しておきたいんだけど、クーちゃんはやっぱりマキト君に……」
「ハイなのです。長老さまに挨拶したら泉とはバイバイして、改めてマスターと一緒に旅に出ようと思ってるのです!」
「やっぱりそうなるのね……予想はしていたけれど」
ユグラシアが深いため息をつく。それを見たラティは心配そうに覗き込む。
「どうかしたのですか? あんまりため息をつくと幸せが逃げますよ?」
「誰のせいよ誰の……」
忌々しそうな声を出すユグラシアに、流石の賢者らしさも薄れたらしく、ハッとした表情でアリシアが我に返る。
「ね、ねぇ……一体何が起こってるの?」
「さぁ?」
動揺しながら小声で問いかけるアリシアに、マキトは無表情のままそう答える。
スラキチやロップルも特に慌てている様子は見られず、事の成り行きをジッと観察していた。
そんなマキトたちに全く気づくことなく、ラティとユグラシアは話を続ける。
「あーでも、長老さまは絶対納得しないですよね。あの人すっごい頑固ですから」
「そこはちゃんと分かっているのね」
ユグラシアがため気をつくと、ラティが気合いを入れるかの如く拳を握り締める。
「まぁ、それならそれで、真っ向から勝負を挑むまでなのですけどね♪」
「…………たくましくなったわね。もう昔のクーちゃんはいないのかしら?」
「全てはマスターとずっと一緒にいるためなのです!」
げんなりとしているユグラシアに、ラティが笑顔で胸を張って言い切る。
完全に追い打ちでしかなかったらしく、ユグラシアは完全に閉口し、ガックリと項垂れる。後ろでマキトたちがジッと見つめていることなど、まるで気にも留めていないようであった。
アリシアも戸惑いがないわけではなかったが、それ以上に思うことがあった。
「愛されてるね、マキト」
「そうかな?」
「うん、どう見てもそうとしか思えないよ」
アリシアは嬉しそうに微笑みながら、首を傾げるマキトを見つめる。
彼の頭に乗っているロップルが嬉しそうに顔をこすりつけ、足元にいるスラキチも鳴き声とともにすり寄っている。マキトは特になんてことないかのように二匹を改めて抱き上げ、その頭を優しく撫でる。
突然魔物たちが甘えてきたことについても、前々からたまにあったため、疑問に思う様子も全くない。むしろ甘えてくれることに対して、幸せな気持ちでいっぱいであることから、どうでも良いというのが正直なところであった。
「あーっ! ズルいのですよ! わたしもマスターにスリスリしたいのですっ!」
凄まじい叫び声とともに、ラティが血相を変えて弾丸のように飛んでくる。
すると案の定、飛びついた瞬間に衝撃が発生し、マキトは魔物たちと一緒に後ろに倒れ込んでしまった。
スラキチとロップルも放りだされてしまい、何するんだと言わんばかりにラティとケンカを始めてしまう。ヨロヨロと起き上がりながら、マキトは三匹のケンカを仲裁するのに、ひと苦労する羽目になるのだった。
そしてその様子を、アリシアは物思いにふけるような視線で見守っていた。
(やっぱり似ているなぁ……あの時の子に……)
幼い頃のかけがえのない思い出が、アリシアの脳裏に蘇ってくる。
マキトと思い出の子は別人。それは間違いないハズなのだが、どうしてか見事に重なってしまう。まるでこれが答えだと言わんばかりに。
(いけないいけない! 勝手に思い出を押し付けるだなんて、流石に失礼だよ!)
アリシアは頭を左右に振りつつ、マキトに対して申し訳なさを覚える。
そして両手の拳を力いっぱい握って気を取り直し、三匹の魔物たちの言い争いを止めるべく、マキトの加勢に向かうのだった。
程なくして、三匹の魔物たちは無事落ち着かせることに成功する。マキトとアリシアは一仕事を終えたと言わんばかりに、深いため息をついた。
そんな彼らの姿を見て、ユグラシアはどことなく感心するかのような笑みを浮かべるのだった。