夏祭りの人混みの中に見た懐かしい浴衣を纏うのは、
夏祭りの人混みの中に見慣れた浴衣を見た気がした。
半襟を縫い付け、下には襦袢、太鼓にした帯、ジャラジャラと水色の飾りをたくさん付けたかんざしが、人混みの向こうに見える。
幼い頃祭りではぐれてベソをかきながら探した母の姿だ。
うだる暑さも喧騒や祭りばやしも遠のき、暗い空で咲く花もあせ、逸る心臓にせき立てられて一心に人の波をかき分ける。
寄せては返す波のように近づいては離され、もどかしい距離を強引に細い手にすがって縮めた。
たたらを踏んで止まる女性の、下駄とかんざしに付いた飾りが賑やかに鳴る。シャラ、と涼やかに鳴らし振り返った相手に、ポカンとしてしまった。
相手もポカンとしている。
間抜けにしばし見つめ合い、そしてリエは困ったように眉尻を下げた。
「誰かと間違えた?」
誰、とは愚問だ。従姉妹のリエもこの浴衣を着た母に幼い頃手を引かれていたのだから。敢えてぼかしたのは気を遣ったのだろう。
「お前、この浴衣」
地元を離れて県外に進学してから疎遠だったが、帰って来てたんだな、とか、久しぶり、とかの挨拶が出て来なかった。リエは気を悪くするでもなく、コレはね、と口を開く。ナチュラルメイクなのか、化粧っ気がないように見える顔で唯一彩られた唇がおっとりと答えを紡いだ。
「おじさんがね、せっかくだから着てけって。懐かしいから、つい着て来ちゃったけど」
ばったり会うなら着なければ良かった、とでも言うようにバツが悪そうなかおをする。
「母さんかと思った」
「ごめんね。似合わないヤツが着て」
なじるつもりは無いので首を振り、似合ってるよと答えながら、掴んでいた手をほどく。
思い出をなぞった幻でも、会えて良かった。だから、なじったりなんてしない。
緩やかに通常の速さに戻った心臓に、深く息を吐いて気持ちを切り替える。
「しばらく見ない内に見違えたな、って思ったんだよ」
おどけて見せれば、半眼で睨まれる。
「おばさんと間違われるくらい老けたって言いたいの?」
「包容力のある後ろ姿だった」
「太ったって言いたいの?」
軽口の応酬をして空気を変え、揚げ足取るなよ、降参、と手を上げる。
「マザコンのシュウスケには最大の誉め言葉だった、って事にしてあげる」
「マザコンじゃない……釈然としないが、まあ許してくれんなら」
「かき氷とリンゴあめと綿飴とやきそばとお好み焼きとクレープおごってくれたらね」
「おい」
「いいでしょ? 付き合ってよ。久しぶりだし、女一人で回るのはさびしかったのよね」
「そんな食うと太るぞ」
「二日以内にちゃんと消費すれば太りませんー」
リエはツンとそっぽを向く。すねたかおが子供の頃のままで、懐かしくて笑ってしまった。
笑って、それから考える。多分、リエは気を遣っているのだ、これでも。この思い出の浴衣と祭りを回らせてあげようとでも気を回したのだろう。
リエは確かによく食べるヤツだし、ちゃっかりしているところもあるが、流石に品数が多過ぎる。夜店を回る口実の筈だ。多分。
「……仕方ないな」
苦笑混じりに応じてやれば、そうこなくちゃ、とリエは朗らかに笑った。手を差し出せば引っ張って腕を組んで来る。
「お前な……暑いだろ」
「昔はよくこうしてたでしょ?」
照れるなよ、と茶化すリエの頬が赤い。お前が照れるなよ。自分でやったんだろ。
「よーし、遊ぶぞ!」
「ハイハイ、程ほどにな」
あっち、次はこっち、とリエは俺を連れまわした。よくリエと二人で母の袖やつないだ手を引いていたものだ、と思い出す。
あの頃のようにやきそばやお好み焼きを半分こして、シュウスケの方が多い、ズルい、と口を尖らすリエに、ハイハイ、と譲れば何故だか不満げにむくれられたり。
昔よりは上手くなった射的に手を叩いて喜ばれたり。
相変わらずの風船釣りの腕前に苦笑いされ、昔は得意だった金魚すくいに苦戦して。
アンズあめを見つめてしんみり黙り込んだリエは、きっと母を思い出していたんだろう。それは母の好物だった。己の好物のリンゴあめを袖に入れ、祭りの間中ずっと大事そうにそれを抱えていた。
夜店を端から端まで歩いて終点でしゃがんだリエは、ぴぃぴぃ鳴くふわふわの毛玉を覗き込む。キラキラした目にはそれがスゴく良いものに見えてるらしい。
「ニワトリになるんだぞ、ソレ。ちなみに、卵生まない方の」
可愛いのなんて今だけだ。
「うちのアパートがペット禁止じゃなきゃなあ」
「止めとけ」
「うん。私はこっち持って帰るし」
何とかすくえた黒と赤のひらひらした金魚が、狭いビニール袋の中を漂っている。
「おう。帰るぞ」
「ねえ」
「ん?」
「お祭りに来たら、今度は私の事も思い出す?」
からかう目で茶化しながら、ちゃんと祭りを楽しんだかどうか、確認して来る。
――シュウスケは、コレしたら楽しい?
小さな頃、リエは何かする前によくそう確認していた。それをしたら楽しいのか、嬉しいのか、と。人の顔色をうかがうと言うより、純粋に楽しませたり喜ばせる事が好きだったのだろうけど。
面倒なヤツだなあと思う時もあったな。
「その浴衣を見て、お前を思い出すようになるかもな」
「え」
リエはぱちぱちと瞬いて、染まった頬を隠すようにパッと顔を背けた。
「おい?」
軽口に本気で照れるなよ。
「見るな。エッチ。」
顔を覗き込もうとしたら背を向けられる。
「小学生か」
「マザコンのくせに」
すねて口を尖らすのも幼い仕草だ。
つうか、だからマザコンじゃねえよ。
「マザコンにしては、多分、最大級の誉め言葉よね」
「マザコンじゃねえって!」
「手……」
「ん?」
「帰るんでしょ?」
差し出された手をつなぐと、今度は大人しく手を引かれて後ろをうつむきがちに付いて来る。
急にしおらしくされたらどうして良いのかさっぱりわからない。
というか、何なんだ一体。
「ねえ」
「あ?」
「さっきの、本当?」
「俺はマザコンじゃねえ」
「この浴衣を見て、私思い出しちゃうって」
聞けよ。本当に俺はマザコンじゃねえんだよ。溜め息混じりに、かもな、と答える。従姉妹にねだられて財布がさびしくなったり、従姉妹の情緒不安定を目の当たりにしたり、今夜の事は強く記憶に刻まれた気がするよ。
「ふうん……この浴衣見て、私を思い出しちゃうんだ」
笑う気配に振り向けば、……顔赤いぞお前。
「私、この浴衣見ておばさんを思い出すけど、シュウスケと手をつないで夜店を回った事も同じくらい思い出したよ」
シュウスケも私を見てくれた、やっと、とリエははにかんだ笑みを浮かべた。
忘れていたが、リエはこんな風に笑う女の子だった。
祭りの度に遊びに来るから、小さい頃は一緒に母に手を引かれて夜店を歩いたものだ。迷子になっても、リエは泣かなかった。手をギュッと握ってくれて、好物のリンゴあめをくれた事もある。
――リンゴあめあげたら、泣き止む?
リンゴあめを半分こして食べていたら、母が見つけてくれた。人混みの中でも、片方が動かずにいればはぐれても案外合流出来るものなのだ。
泣いたのが恥ずかしくてあんまりかおをあげられなかったが、そう、リエはちょうどこんな風にふんわりと笑っていた。
気恥ずかしくて真っ直ぐ見れないような感情がその目にあって、なるべく見ないようにしていたから忘れていたが。
ええと。これ、なんだっけ。
何て言うんだっけ。
口を手で覆って熱の上った頬を隠すように背け、それがさっきリエのした仕草と同じだと言うのに、わけがわからないと自分で思っておきながら、実に判り易いものだったのだと気付いた。バカか。羞恥に更に顔が熱くなる。
「シュウスケ?」
応えが返らなくて顔を覗き込んで来たリエが、目を丸くして。多分、かおに書いてあった答えに、また顔を赤くして二、三歩後ろをしずしず歩き出す。
祭りばやしは遠く、提灯の提げられた道は明るいが、人通りはまばらで。リエの下駄の音がカラコロ付いて来る。
それから。居たたまれない、と額を押さえた時、一際高く下駄を鳴らし、急に腕にリエが絡みついて来た。かんざしの飾りも賑やかに鳴る。
驚いてびくりと震えて振り返れば、人の腕を抱いた女が、大層機嫌よく口の端を吊り上げていた。
うふふ、と笑う震えが肌を通して伝わるのが気恥ずかしい。
ビニール袋の中は波打って、金魚達が驚きながら揺れ惑い、寄り添う様に身を寄せ合っている。随分簡単な事のように見えて、肩から力が抜けた。
ちょっと肩を下げてやると、リエが肩口に赤い顔を預けて来る。
「シュウスケは熱いね」
「お前だって熱いだろ」
「この浴衣、また着ても良い?」
「来年の話をすると鬼が笑うらしいぞ」
「来年だって、再来年だって、ずっと」
「ずっと?」
靴を下駄で踏まれた。お前なあ。手加減しろよ。
「着るもん。おじさんに貸してもらうもん」
リエはツンとそっぽを向く。
そして、また猫の子みたいに頭を擦り寄せてくる。間近でかんざしがシャラシャラ揺れた。
「浴衣を見て、私を思い出すくらい、ずっと、ずーっと」