さかさまの民
ダグトは空間を渡っていた。してやったり、という笑みを浮かべて。
懐から、取り出したのは、丸い結界の中に閉じ込めた妖精であった。
「ヴァルドリューズのヤツは、別の次元に飛ばしてやった。それくらいでは、死にはしないだろうが、二度と抜け出すことの出来ないところにだ。安心したか? 」
意地の悪い男の声に、中の妖精は、噛み付くように捲し立てるが、声はもれていない。
ダグトは妖精を再び懐に入れ、飛ぶ速度を上げた。
それから、降り立ったのは、ある暗い建物の中であった。
重々しい鉄の扉を開け、カビ臭い回廊を通っていく。
まるで、廃墟の中だ。
数ある扉が、回廊の両側に並ぶ。
奥に、うっすらと、灯りがこぼれている部屋があった。
その部屋に入り、扉を閉める。
部屋の入り口には何もないが、さびれた館からは想像もつかないほど、そこは、綺麗に整えられた、まるで貴族の住む部屋であった。
再び、懐から、妖精の入った球を取り出す。
指を鳴らすと、妖精を囲んでいた膜は消えた。
ミュミュは、きょろきょろと辺りを見渡した。
「……ここ、どこ? 」
か細い声で、尋ねる。
「俺の屋敷だ。貴様は、ここで暮らすのだ」
「暮らす……って? 」
「ヴァルドリューズが生きてあの次元から出ることは、容易ではない。しばらくは、ここで暮らせ。永遠に……かも知れぬがな」
くっくっくっと笑いを押し殺すダグトを、ミュミュが、キッと睨みつける。
「だっ、だれが、あんたみたいな悪い魔道士なんかと、一緒に住むもんか! バカッ! 変態! ロリコン! 」
あらゆる罵詈雑言で罵倒するミュミュを無視し、ダグトが、いきなりミュミュの背にある羽を、二つとも掴んだ。
「なっ、なにするのっ!? 放してー! 」
じたばた暴れるミュミュの身体を、ダグトは、もう片方の手で捕まえる。
彼の手は、何のためらいもなく、掴んでいたミュミュの羽を引きちぎった。
「ぎゃーっ! 」
ミュミュが泣き叫んだ。
「痛いじゃないのさーっ! いきなり、なにすんのーっ! 」
「これで、空間を渡ることは出来まい」
じろっと一睨みひたダグトは、ミュミュを鷲掴みのまま、部屋の奥へずかずかと進んでいくが、掴まれているミュミュにしてみれば、たまったものではなかった。
「うわ~ん! そのまま歩くなーっ! 放せ、バカー! 」
ミュミュにとっては、ものすごい振動であった。
頭はガンガン響き、目は回り、それでも、泣きながら、罵ることはやめなかった。
「おとなしくしてろ。まったく、やかましい妖精だ」
うんざりしたようなダグトは、更に奥の扉を開ける。
「ここにいろ」
ミュミュを扉近くにあったサイドボードに放ると、ダグトは、扉を閉め、もと来た方へと戻っていった。
「うっ、うっ……、ヴァルのお兄ちゃん、ケイン、……カイル、……クレア、……マリス……」
背中の痛みは当然、不安に押しつぶされそうになったミュミュは、しくしくと泣きながら、旅の仲間たちの名前を呼び、俯せていた。
「……誰? ……誰かいるの? 」
部屋の奥から、声がする。
ミュミュは顔を上げ、手で目をこすりながら、声のした方を見つめた。
布が床にこすれて、引き摺るような音がする。
壁の向こうから現れたのは、人間の女であった。
女は、浅黒い肌をしていた。長いウェーブしたつややかな黒髪、黒い宝石のような、切れ長の瞳。
胸元の開いた白いドレスを着ているが、貴族の姫君という感じではなく、やさしい雰囲気の中に、凛々しさも兼ね備えていた。
ミュミュの良く知るマリスやクレアとは違う人種であった。
どちらかというと、ダグトやヴァルドリューズのような、東洋系の人間であり、年齢も、彼女たちよりも上に見える。
ミュミュは背中の痛みも忘れ、その女の神秘的とも言える不思議な美しさに、しばらくみとれていた。
一方、女も、妖精などという馴染みのないものに、出会ってしまい、言葉を失っていた。
だが、次第に、ミュミュを無害な妖精であると判断したのか、にっこりと微笑んだのだった。
「どうしたの? どうやって、ここへ来たの? 」
やさしく言いかけて、女は、すぐに口を噤んだ。
ミュミュの背の、羽のあったあたりからは、透明の体液が流れていたのだった。
女には、なんとなく状況がつかめた。
「ダグトね? まったく、ひどいことするわね」
独り言のように呟いた彼女は、気の毒そうに、ミュミュを見た。
「こっちへ、いらっしゃい。傷の手当をしましょう」
女は、ミュミュの乗っているボードに、そうっと、てのひらを上に向けて、近付けた。
ミュミュは、どこかまだ警戒している様子だったが、女が安心させるように微笑んでいるのを見ると、そろり、そろりと、差し出されたてのひらに乗った。
女は、ミュミュを大事そうに抱えると、部屋の奥へと、連れていった。
ヴァルドリューズは立ち上がり、辺りを見回した。
白いゴーレムの姿は、そこにはないが、その場所も普通ではないことが一目瞭然であったため、安心するわけにもいかない。
足元には、木の根と思われるものが、うねうねと押しのけ合いながら、地面を覆い尽くす。
ひっきりなしに生えている樹木は、すべて地を這う。
葉も枝も、何もかもが、地面の上にあり、歩きにくい。
魔道士であるヴァルドリューズには、飛んでしまえば関係のないことであったが、得体の知れない場所では、いつ敵に出くわしてもいいよう、なるべく魔力を消耗させずに歩く方が得策だ。
試しに、時空を移動する時の呪文を唱えるが、何も起こらない。
『光速』の呪文は通用し、少しだけ飛んでみた彼だが、どこまで行っても同じような景色ばかりで、果ては見えない。
魔力を無駄に使うことをやめた彼は、この場所が、いったい何であるのかと、出口を探しに歩くことにしたのだった。
進めば進むほど、ここがおかしなところだということがわかる。
地面に向かっているのは、植物ばかりではなく、時折見かける小動物までが、奇妙な格好でいるのだった。
トカゲのような、尾の長い、足の生えた動物は、なぜか腹を上に向け、ひっくり返った格好で歩いていた。
毛の生えた動物たちも、下の方に頭部があり、その上に胴体があり、手足が何本もあった。逆立ちをしているかのようだ。
このような中に長時間いれば、自分の方が逆さになってしまったような感覚を覚えることだろう。
「お前さん、人間かい? 」
振り向くと、大きなコウモリが、逆さになって、飛んでいた。
ヴァルドリューズが黙っていると、コウモリが口を開けた。
「お前さんに聞いてるんだよ。あんたは、人間なのかい? 」
しわがれた、人間の年寄りのような声で、コウモリは再び尋ねる。
「そうだ。人間だ」
ヴァルドリューズは、どことなく、人間界で見るものとは違う造りのコウモリを、観察した。
「気を付けなよ。生身の人間で、この森に迷い込み、生きてここから出られた者は、滅多にいないんだからね」
「ここには、魔物でも出るというのか? 」
「キエーッ」
コウモリは、一声鳴くと、大きな折れ曲がった黒い羽を、バタバタと振り、答えた。
「ここには、魔物なんていやしない。だけど、あれをご覧」
コウモリが顎で指した方向には、白骨が生々しく転がっていた。
明らかに、人間の骨である。
このような場所に足を踏み入れる可能性があるのは、空間移動の術を使えるほどの上級魔道士である。白骨化した死体は、まぎれもなく、自分と同等の魔道士であったと、彼にはわかった。
「……お前さん、あんまり怖がってないみたいだね」
コウモリは、不思議そうに、ヴァルドリューズを見上げた。
「知っていたら教えて欲しいのだが、『ここ』の出口はどこだ? 」
彼の静かな青い瞳を見つめてから、コウモリは答えた。
「ないよ。あったとしても、人間には、通り抜けられないね」
「なぜだ? 」
「なんというのかね……、人間には、この『さかさまの森』から抜け出す抗体みたいなものはないんだよ」
「入ることは可能でもか? 」
「人間からすると、理不尽なことかも知れないが、ここでは、ごく当たり前のこと。その証拠に、我々ここの住人は、ここから別の次元に行くことはできない。世の中には、不思議な世界もあるもんだ」
人間の年寄りのようなコウモリの口調には、親しみ易さも感じられるが、それを気に留める間もなく、彼の頭の中では、あらゆる思いが行き交っていた。
(さかさまの森ーーここが、ヘイド殿の言っておられた迷いの森か。ダグトは、私を永遠に、死ぬまで、この森に閉じ込めておこうというのか? )
(ミュミュは大丈夫だろうか? 泣いていた。ダグトにいたぶられていなければいいが……)
そして、彼は、ずっと旅を続けている紫色の瞳を持つ少女を、ふと思い浮かべた。
(マリス……、元気でいるだろうか? お前を守ってやらねばならないというのに、私は、このようなところにまで来てしまった。帰るには、思ったよりも時間がかかってしまいそうだ。私のいない間に、無茶をしていなければいいが……)
(ケインがいれば、残された彼らは、きっと大丈夫だろう。今は、なんとしても、ここから脱出し、ミュミュを救出しなくては)
ヴァルドリューズは地面にあぐらをかいて座ると、目を閉じた。
「おいおい、お前さん。どうしちゃったのかね? 」
コウモリが驚いている。
「無駄に魔力を使うわけにはいかない。今のうちに、魔力を高めておくのだ」
コウモリは、一声鳴いた。
「へーっ、随分落ち着いてるんだねぇ。だけど、それもほんとに今のうちだけだよ。白骨があるのは、ここだけじゃない。あっちの方にもいっぱいあるんだからね。皆、あんたと同じような格好をした人たちで、中には、あんたのように、そうやって座りこんでた人もいたけど、そのうち、発狂してしまったんだよ。ああ、発狂してしまうのは勝手だけどね、その時に、人間の使う妙な術を乱発しないでもらいたいね。よくいるんだよ。手から火を出したり、雷を出したり。あんたは、死ぬ時は、ひとりで、ひっそりと死んでおくれよ」
コウモリの声も、もう耳に入らないのか、ヴァルドリューズの瞑想は、既に始まっていた。
「ふん、さすがに、この程度では、あまり動揺していないか」
真っ暗な部屋の中で、酷薄な細い目が笑う。
ダグトの自室である。
覗いている水晶球に移ったのは、さかさまの森にいるヴァルドリューズであった。
「あそこを自由に行き来できるのは、人間では俺だけだ。このまま、あそこで発狂させてやってもいいが、ヤツの精神力では、それもいつのことになるかわからん。俺は気の短い方なんでな。悪く思わないでくれよ、ヴァルドリューズ」
くっくっくっと笑い声をもらすと、彼は水晶球に向けたてのひらに、ある念を送った。
「ギャーッ! ギャーッ! 」
「グオオオオオオッ! 」
遠くから聞こえる、さかさまの森の住人たちの、尋常でない叫び声に、ヴァルドリューズは目を開けると、すぐさま、飛び立った。
まず、彼の見たものは、地面に点在する、動物の死骸であった。
巨大なものに踏み付けられたように、奇妙な格好でつぶれている。
その死骸の転がった先には、人間の背丈ほどもある、黒い獣のような毛を生やした、丸い球が、浮かんでいた。
「モンスターか。このようなところで」
ヴァルドリューズは、目を細めた。
「おお、あんた、来たのかね! 」
横には、さきほど話をした逆さのコウモリが、バタバタと羽を羽ばたかせ、血相を抱えている。
「ここには、モンスターは、いないはずではなかったのか」
コウモリには見向きもせず、毛で出来ているかのようなモンスターから、目を離さずに、彼が尋ねた。
「そうなんだけどさ、あいつは、突然現れたんだよ! みるみるうちに、動物達に体当たりしていきやがったんだ! 」
キエーッと、コウモリが悲鳴のような声を上げる。
「ここでは、魔法がどこまで効くかはわからぬが、試してみるか」
ヴァルドリューズの身体が、ふわっと浮き上がり、黒い球のモンスターの前に、舞い降りた。
モンスターの正面には、大きな紅いひとつ目があった。その周りから全体に、黒く長い毛をなびかせている。
その瞳が、まばたきをするように、一瞬閉じてから、開いた時であった。
目の玉からは、赤い業火が、ヴァルドリューズ目がけて飛び出した。
「ギエーッ! 」
さかさまコウモリが叫ぶ。
だが、炎が消えると、何事もなかったような、無表情なヴァルドリューズが現れたことにますます驚き、何度もまばたきをした。
「どうやら、ただのモンスターのようだ」
ヴァルドリューズは静かに言うと、片方の手を挙げた。
そこから、ひゅうっと、何かの矢が飛び出し、モンスターを貫いた。
目玉モンスターは絶叫すると、墜落し、しゅぼんと消えた。
「ああっ、あんたっ! こっちにも来たよっ! 」
コウモリの甲高い声に、ゆっくりと振り返ると、後方には、人の倍もある半獣人の姿があった。
頭の両側に角の生えた獣の顔と、足の間にある胴体は、人間のようだ。
半獣人は、発達した筋肉の手腕を、力任せに振り回し、さかさまの動物たちを襲う。
ヴァルドリューズは高速で移動し、モンスターの目の前に現れ、掌を向けた。
ガオオオオオオ!
一声嘶くと、半獣人の身体は、こなごなに吹き飛んだ。
モンスターは、他の場所でも次々と現れては、無抵抗な動物たちを嬲り、木々を引きちぎるなどして暴れていた。