黒い狼ーーダーク・ウルフーー
「魔力を増強するこのネックレスさえあれば、俺の魔法能力は、お前並みか、それ以上となる。毒攻撃を受けたお前は、回復に、少々時間がかかる。その間に、俺は、得意の召喚魔法を、じっくり唱えることが出来るってわけだ。戦っている相手には、下手に同情なんてするもんじゃねえなあ。なあ、ヴァルドリューズ? 」
ダグトが、笑い声を張り上げた。
毒の攻撃を受け、紫色の混じった血液が、流れ出る脇腹を押さえながら、ヴァルドリューズは、ダグトを見据える。
全快するには、まだ時間がかかる。
「俺は、相手に同情なんてしないんでな。遠慮なく、唱えさせてもらうぜ」
ダグトが言い終わるとともに、ヴァルドリューズは大きく飛び、距離を取った。
ぼやぼやと、ダグトの頭上に、暗雲が立ちこめる。
黒い、邪悪な気配を漂わせる不吉な雲は、膨れ上がると、徐々に、四つ足の獣ような形を帯びていき、大きなウシほどもある黒い生物へと変化していった。
全身を真っ黒な長い毛に覆われ、獰猛な牙を剥き出し、燃えるような赤くつり上がった目が、らんらんと輝いている。
「黒狼か」
ヴァルドリューズが、呟いた。
ダグトは薄笑いを浮かべた。
「魔界の狼だ。死肉が好きだというのは、ただの伝説であって、本来は、生きた肉の方を好むようだ。こいつに対する恐怖心だけで、死んでいった人間もいるほどとは、貴様も知っていよう」
狼の狂犬めいた、血走った目が、ヴァルドリューズを、じっととらえている。
「さあ、行け、ダーク・ウルフ! 存分に、ヤツを甚振ってくるがいい! 」
ダグトが手を振り上げると同時に、黒狼が駆け出した。
一瞬にして移動し、ヴァルドリューズに食いつこうと牙を突き立てるが、直前に彼の姿が消え、離れたところに現れる。
だが、狼の数倍も鼻の効くダーク・ウルフは、彼の逃げる方向へ、ひょん、ひょんと、姿を消しては現れながら移動し、獲物を追跡する。
「はっはっはっ! どうしたヴァルドリューズ? 傷はまだ回復しないか? ヤツは、お前の血の匂いを追って行ったぞ。貴様ですら、その『イヌ』の恐怖の前には、逃げるしかないのか? 」
ダグトは、満足そうに笑った。
「……ここは、いったい……? 」
痩せて、年老いた執事は、目を覚ました。
館の調理場と思えるところに、給仕と一緒に、縛られているのに気が付く。
丸々と太った給仕の男も目醒め、辺りをきょろきょろと見回した。
調理場の景色は、まったく変わり果てていた。
壁はボロボロに崩れ、天井は吹き飛んでしまったのか、そこは、闇夜の中の廃墟である。
辺りは、激しい戦闘の跡となっていた。
二人は、自分たちを縛っている縄を解くと、立ち上がり、ぼう然と立ち尽くした。
ガルルルルル……!
獣の唸り声に振り返ると、二人は悲鳴を上げた。
ヒトよりも大きく、ウシほどもある巨大な黒い狼が、鋭い牙を剥き出し、唾液を垂らし、恨みのこもったような赤い眼で、二人を見ていたのだった。
「うわああああ! 」
給仕が小さな目を、これ以上開かないほどに見開き、恐怖のあまり逃げ出した。
巨大狼が瞬時にして飛び上がり、丸々太った足に喰わえ付く。
「ギャアアアアアア! 」
給仕は気も狂わんばかりに、叫び続けていた。
狼は、彼の膝の裏を押さえつけると、ふくらはぎに、がぶりと深く牙を食い込ませ、肉を抉った。
給仕の絶叫が、屋敷を通り越し、森にまで届くほど、鳴り響いた。
「……あ、あわわわ……! 」
執事は、腰を抜かしてしまい、冷静な判断など出来る状態ではなかった。
自分の身を守ることすら思い付かないらしく、ただただ目の前の恐怖に身体がすくんでしまった。
狼は、給仕の片足を食いちぎると、ペタンと座り込んでしまった執事へと、目を向けた。
『次は、お前がこうなる番だ。逃げるのではないぞ』と脅しているように、執事には思えた。
給仕は、激痛と恐怖の中を彷徨っていた。
仰向けにされると、黒狼に腹を悔い破られ、自分の内蔵までもが、引っ張り出され、食われていくのを目の当たりにするはめとなった。
人の体内に、これほどまでの血液が流れていたのかと驚くほど、辺りは錆びたような、生臭い血の海となっていた。
狼の口の周りや、鋭い足の爪も、牙も、給仕の血で、赤黒く染まっていく。
給仕は息も絶え絶えに、思わず呟いた。
「……なんで俺が、こんな目に……? こいつは、いったい……」
それが、彼の最期の言葉であった。
狼が、心臓に食いついたのだった。
大柄な男の身体は、あっという間に肉を削られていき、無惨な屍となった。
それを、目を反らすことも出来ずに、見ていた執事は、突然、苦し気に、胸を押さえ、ばたっと倒れた。
狼が、くんくん匂いを嗅ぎながら近寄るが、執事は、ピクリとも動かない。
恐怖のあまり、心臓が停止し、そのまま息絶えてしまったのだった。
死んだ人間には興味がない狼は、給仕の剥き出した骨をバキンと折り、二本の前足で抱えて、しゃぶり出した。あたかも、食後のデザートのように。
「ちっ、ヴァルドリューズよりも、美味そうなヤツを見付けちまったか」
現れたダグトが、舌打ちする。それほど、悔やんだ様子はなく、むしろ、満足気に、ダーク・ウルフを眺めていた。
「ダーク・ウルフ、もういいだろう。早く、空間に逃げ込んだヴァルドリューズを探せ! 」
ダグトが、すーっと、ウルフの目の前に降り、腕を組んで見下ろす。
ウルフは、ピクッと耳を立て、気配を探っている。
そのうち「ウウウ……! 」と唸り声を出して、宙へ飛び上がり、姿を消した。
「ヤツは空間も自由に行き来出来る。逃げても無駄だぞ、ヴァルドリューズ。ヤツはお前を食うまで追うのを諦めないハイエナだ。フハハハハハハ! 」
ダグトが高笑いしていたその時、
「ギャン! 」
奇妙な悲鳴とともに、気配を感じたダグトの顔色が、さっと変わった。
「……くっ! 」
ダグトはマントに身を包むと、素早く飛んで移動した。
そこへは、何もない空間から、黒い塊が、ぼたっと落ちたのだった。
「ギャワワワアアアン! 」
それは、銀色の炎に全身を焼かれている、黒い巨大狼であった。
その背後に、ヴァルドリューズが姿を現し、何の感情も浮かんではいない瞳で、静かに見下ろしていた。
狼は悶え苦しみ、地面でのたうち回るが、炎を消すことも、振り払うことも出来ずに、しばらくすると、炎ごと、シュボンと消滅してしまったのだった。
ダグトが、ギリギリと奥歯を噛む。
「貴様……! 」
ヴァルドリューズは平然と、ダグトを見る。
「私がグルーヌ・ルーの知識を得て編み出した銀の炎は、闇の使者を容赦なく、焼き尽くす。魔界の生き物を召喚しても、私には効かぬ」
全快した彼は、もう脇を押さえてはいない。
ダグトは悔しさに、奥歯が割れるほど噛み締めていた。
(やはり、こいつを倒すには、ただの召喚魔法じゃだめた! 古代魔法しか……! )
だが、実のところ、ダグトも古代魔法のことを、詳しく知るわけではなかった。
白いゴーレムを呼び出すことは出来たが、それが、もともとは、何のためのものか、魔道士の塔でもわかってはいない。
だが、彼は、白いゴーレムを召喚することが出来た。出来てしまったため、古代魔法を使う特権を授かったようにも思っている。
未知の領域ではあったが、どんな結果になろうと、彼は、この魔法で、ヴァルドリューズを倒す以外はないと思った。
ダグトは目を閉じ、精神を集中させた。
ヴァルドリューズの方も、彼がいよいよ古代魔法を使うことは予想でき、その様子をじっと見据える。
戦い始めは、ダグトに古代魔法の呪文を唱えさせないよう、絶え間ない攻撃を仕掛けていたヴァルドリューズでもあったが、彼も、自分の回復と銀の炎の攻撃で、魔力を消耗している。
吟遊詩人から授かった、彼の髪で作られたブレスレットが、古代魔法からヴァルドリューズを守っていたことを頼りに、ダグトが召喚する間の僅かな時間であっても、自分の魔力の回復に当てようと判断したようであった。
呪文を唱え終えたダグトが、叫ぶ。
「出でよ、ホワイト・シャドウよ! 」
ダグトの姿が、ゆらっと、蜃気楼のように揺れた。彼の前に、透明の物体が出現したとわかる。
白いゴーレムではなかった。
透明のものは、ゆらゆらと動いていたが、そのうち、白い半透明の布のように、一纏まりになり、ひらひらと舞う。それが実態であるようだ。
古代の魔法は、やはり、ヴァルドリューズのように、魔物と戦ってきた者でも、目にしたことのないものだった。
ダグトは、白い大きな霧の集合体を、ヴァルドリューズに向かわせた。
白い霧は、ヴァルドリューズを包む。
手で払おうと、呪文を使おうと、追い払うことは出来ない。
だが、ヴァルドリューズの左手首にはめたブレスレットのせいか、霧の方も、完全に、彼のことを飲み込むことはなく、戸惑うよいに、周りをうろうろしているだけだった。
「ちっ。やっぱり、効かねえか」
ダグトが、憎々し気に舌打ちし、別の魔法を唱える。
白いゴーレム、白い霧を始め、白くても魔物めいたものが、次々とヴァルドリューズを襲う。
が、はやり、効果は同じだった。
(ちくしょう! どうあっても、俺には、貴様を倒すことは、出来ないのか!? )
ダグトの心の中には、再び、焦りや悔しさが渦巻いてきていた。
一方、ヴァルドリューズの方は、ダグトの攻撃の中にあっても、ブレスレットに守られながら、古代魔法とは、そして、その古代魔法を躱してしまう、あの吟遊詩人の正体とは何か、を考えていた。
人間ではないと、彼は言っていた。
それでは、古代魔法は、人間ではないものには、効果がないのか?
周りに漂っている、古代魔法によって召喚されたものたちは、魔界から呼び出されたものたちと違い、邪悪な気配が感じられない。魔の世界に引きずり込もうという情念が感じられないからこそ、恐怖感も、また違ったものとなる。
この白いものたちには、異物を追い払おうとする念は感じられても、相手の滅亡までは、望んではいないように思える。
ヴァルドリューズには、ただそのように感じられた。
そして、吟遊詩人ーー
吟遊詩人を名乗るわりには、吟遊詩人とは程遠い身なりであった。
華奢で、中性的な雰囲気をまとう男、薄い衣をはおり、茶色の皮紐を巻き付けたサンダルを履いていた。
マリスの話にも聞いたことがあった。獣神サンダガーが、彼女の意識の中に現れる時に、そのようなスタイルであったと。
人間からすると、言い伝えにある、神話に登場する神々のイメージだったが、どことなく、ミュミュの衣とも共通しているようにも見えた。
彼の記憶では、妖精、特に、ニンフは、人間と共存することもあるが、時には、神とも接点がある。限りなく、神話に近い話であったが。
彼は、吟遊詩人を、神か、その一種ーーそのような類のものだろうと、仮定した。
そのなりからだけではなく、彼の使う回復魔法も、普通の白魔法とは違う感触であり、もしかしたら、自分たちの使う魔法と、原理が違うのかも知れないと考えたからであった。
ダグトは、使える古代魔法は、ほとんど試してみたものの、一向に、ヴァルドリューズに効く様子はない。
焦った彼は、最後の手段として取っておいた、四つ目の魔法に、挑戦するしかなくなった。
それは、魔道士の塔も解読途中のものであり、まだあやふやな部分が多い。召喚魔法であるのか、攻撃魔法であるのかも、わからない。ダグト本人も、試したことのない魔法であった。
「だが、やるしかあるまい。ヤツを倒すには……! 」
ダグトは、覚悟を決めると、呪文を唱える。
ヴァルドリューズの冷静な瞳が、じっと見据えている。
呪文を唱えるダグトの周りに、透明な風が起こった。
それが、徐々に勢いを増していき、規模も膨張していく。
はっと、ダグトの目が見開かれた。
「……おかしい。今までと、何かが違う!? 」
困惑したダグトの表情を、吹き荒れる風の中から、垣間見たヴァルドリューズの目が、細められる。
風は、ダグトの周りだけでなく、範囲を広げ、巻き込み、ぐるぐると舞っている。
葉や木の枝、崩れた壁の破片なども舞い上がっていった。
「……う、……うわあああ! 」
とうとうダグトの身体までもが、宙に舞い上げられた。
ダグトは、完全に術の制御が出来なくなっていた。
ヴァルドリューズは、一瞬考えてから、飛び上がり、ダグトを包む風の中へ、突入していった。




