Puppy
ある日、家に帰ったら、見知らぬ男がテレビを見ていた。
パタン。
篠宮優香は無言で扉を閉めた。
……。とうとう自分の家も分からなくなってしまったのか……と最近の忙しさを思い出しながらもショックを隠せないまま、部屋番号を確認する。間違いなく自分の家であることが分かると、優香はさらにパニックに陥った。部屋にいるのは一体誰なのか、全く見当もつかない。一瞬見ただけであるが、外国人の強盗なのではないかなどと考える。逃げ出したい気持ちを叱咤し、なんとか冷静さを引き戻した。
震える手で携帯電話を探す。普段はすぐに見つかるのに、重要な時に限って見つからない。モタモタしていると、おかえりと耳元で囁かれた。
思わず声に反応して振り返ると、目の前には先程テレビを見ていた男。満面の笑みが視界いっぱいに広がった。
「……。キャーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
持っていたバッグを思い切り振りまわす。ゴスゴスという音と共に、両手に鈍い手ごたえを感じた。
「ちょ、痛ってぇ。待って待って!」
「キャー! キャー! キャー!!」
死に物狂いで振り回していた両腕はあっという間に動きを封じられてしまったが、大声は出し続ける。不審者にあったらまず大声。防犯の基本である。やっぱり強盗だったんだと確信した優香の必死の抵抗も虚しく、無理矢理部屋に引き込まれた。
「お願いします。命だけは助けて下さい。お金ならあげるからぁ!」
今までそれなりに健全に生きてきた自分がなぜこんな目に合わなければならないのか、神様のいたずらにしては酷すぎると悲しみでいっぱいになりながら訴える。そんな優香に対し、男の声は冷静そのものだった。
「……いや、別に俺お姉さんのこと殺さないから。」
むしろ苦笑さえ浮かべている。
「本当? 本当に殺さない?」
「うん。殺さないし、危害も加えない。ちなみに、お金も要らないよ。」
俺強盗じゃないからね、と苦笑を崩さずに言う。泣いている優香を宥めるような、優しい口調である。
優香は相手の言葉にひとまずは安心したが、一拍置いて首をかしげた。結局、自分がどのような状況に置かれているのか、全くの見込めない。
男は整った顔立ちの青年だった。年の頃は20代前半くらい。エラが張った四角い顔、漆黒の髪に意志の強そうな眉、少しつり上がった二重の瞳には目尻に笑い皺が刻まれている。通った鼻筋、日焼けをしているせいか、笑ったアヒル口からは白い歯がチラチラと見えた。顔のパーツひとつひとつが主張しており、日本人というかエスニック系の外国人に見える。
「俺は高野孝規。驚かせちゃってごめんね。」
孝規と名乗る男は、未だパニックから抜け出せないでいる優香の顔を覗き込んで続けた。
「パニックになってるとこ悪いんだけど、しばらくここに住まわせてもらえないかな?」
極上の笑顔でサラリと言った言葉を、優香はすぐに理解できなかった。
「はあ?」
「俺、今住むとこなくてさ。お願い!」
孝規は顔の前で手を合わせて懇願するが、優香の目は冷たかった。
「無理。」
「そんなぁ。せめて今日一晩だけでも!」
不審な目で見ている優香を見て、孝規は眉をハの字にして苦笑する。
「大丈夫、襲ったりしないから。はっきり言ってお姉さん、俺の好みじゃないしね。」
カッチーン。
「だったら余計に出て行ってくれる?」
「無理ー! いくら春だからって、夜中はすっげぇ寒いんだぞ! お姉さんは俺を寒空の下に放り出すつもりなのか!」
孝規は鬼だ悪魔だと訴えている。
「本当に1日だけだから! お願い! ね、いいでしょ?」
優香を上目遣いで見上げる孝規の姿は小動物を思わせた。特に子犬によく似たその仕草に優香の心臓が高鳴る。一晩くらいなら良いんじゃない? と悪魔の囁きが聞こえた。いや、相手は初対面の男、絶対にやめるべきだ、とこれは理性の声。頭の中で天使と悪魔がせめぎあう。しばし考えた後、勝ったのは理性の方だった。それを伝えるために孝規に向き直るのと、インターホンが鳴ったのはほぼ同時だった。
覗き窓から外を見ると、警察官らしき制服の男性が2人立っている。
「誰?」
「警察……みたい。さっき散々騒いだからね。」
「マジで!? 警察だけは勘弁して。お願いだから!」
急かすようにして2回目のインターホンが鳴った。慌てて扉を開けると、2人組は案の定自分たちを警察官だと名乗った。
「近隣の方から悲鳴が聞こえたと通報がありまして。異常ありませんか?」
優香はリビングを振り返る。物陰に隠れながら、必死にこちらに念を送っている孝規の姿が見えた。深いため息をつく。
「いえ、大丈夫です。彼のサプライズに驚いてしまって……。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
内心なんで自分が謝っているのだろうと思いながら頭を下げる。警察官は小言を残して帰っていった。
「ありがとうお姉さん。マジ助かった。」
孝規は天使だの女神だのと言っている。先程とは真逆のことを言う調子の良さに、呆れてため息しか出ない。この男、相当なダメ男だ。かかわらない方が良い。
そんな優香の考えをよそに、孝規は冷蔵庫の中をあさりだした。
「じゃあ、お礼にメシでも作るよ。」
「は? ちょっとまって。ごはんとかいいから早く帰ってくれない?」
「えー! 泊めてくれるんじゃないの!?」
孝規は口を尖らせる。
「誰が止めるって言った?警察に引き渡すのはかわいそうだったからかばっただけです。」
「本っ当に頑固な人だな。彼氏とかいないだろ?」
図星だが、こんな子供に指摘されるいわれはない。血管が切れそうになるのを理性で抑え、平静を装う。
「余計なお世話! はい、さっさと帰る!」
「あーもう! わかった! だけど、メシ作るくらいさせてよ。見ず知らずの俺のこと、警察に引き渡さなかっただけでも感謝してるんだ。」
頼むよ、とまた上目遣いで優香を見る。どうもこの子犬のような上目遣いに弱いらしい。
「……。ごはん作ったら帰るのね?」
「うん。」
「約束する?」
「もっちろん!」
「……。しょうがないな……。」
「よっし! カレーでいい? 俺カレー得意なの。」
やっぱり犬みたいだ、と思わず優香の頬が緩む。が、今日のこの一連の成り行きを思い出し、一瞬でも気を許してしまった自分を悔やんだ。
「そういえば、お姉さん、名前なんて言うの?」
孝規は野菜の皮をむきながら尋ねた。
「……篠宮優香。」
ちゃんと食べられる物を作れるのか気が気でない優香は、孝規の手元が気になって仕方がない。答えるつもりはなかったが、料理に気を取られてうっかり答えてしまった。
「優香ちゃんね。さっきも言ったけど、俺は高野孝規。こんな顔だけど純潔の日本人。よろしくね。こっちは大丈夫だから、テレビでも見て待ってて。」
年上に向かってちゃん付けとはなんと馴れ馴れしいと怒りを覚えつつも、手際良く準備されていく様子を見て、見た目は軽そうに見えるが器用な子なんだなと、優香は少し意外に思った。
ちゃんと食べられる物が出てきそうなので、優香はようやくリビングに座り、大きく息をついた。しかしおかしなことになってしまった。この数十分間のことを思い出して、疲れが重くのしかかった。この状況は全く意味のわからないものだ。……警戒心はある。寝てはいけない。だが、落ちてくる瞼をコントロールすることは不可能だった。しばらくすると、優香は小さな寝息を立て始めた。
***
急激に意識が戻った。優香はハッと目を覚ます。いつの間にか寝てしまったらしい。
嫌な夢を見ていた。仕事から帰ると、知らない男がリビングでテレビを見ている夢だ。妙にリアルな夢だった。思い出すだけでドッと疲れが蘇った。
カーテンの向こうが暗いことから、まだ夜明け前だということが分かる。時計を見ると、午前3時を少し過ぎたところであった。日中は暖かくなってきたものの、夜になると随分と肌寒い。このままでは風邪を引いてしまう。起き上がると、体の上から何かが滑り落ちた。
それは、見たことのない服だった。黒のスプリングコート。しかも男物である。
優香は必死に記憶を辿った。
意識が冴えてくるのと同時に記憶も鮮明になる。そうだ、あれは夢ではない。その証拠に、ほんのりとカレーの香りが漂っていた。室内に人の気配がないことから、どうやらあのダメ男は帰ったらしい。
本当に約束を守ったことに感心しながら立ち上がる。すると、ダイニングテーブルに手紙を見つけた。そこには汚い字で『今日はありがとう。カレー自信作だから食べてね。明日コート取りにきます。ねがおかわいかった。コウキ』と書かれていた。
「可愛いって何。てか寝顔勝手に見るなバカ。」
優香は耳まで赤くなっていることにも気付かずに一人ごちた。そして、寝顔くらい漢字で書けないものか……。そんなことが気になるなんて、自分ももう年だな……と自嘲した。
***
翌日、出勤の際、優香は鍵をかけ忘れていないか入念に確認した。また昨日のようなことがあってはたまらない。今度は本当に強盗と鉢合わせる可能性だってあるのだ。鍵をかけてからドアノブを捻ってダブルチェック。間違いなく閉まっていることを確認して出発した。
はずだった。
「おっかえりー。」
その日、優香が帰宅すると、男がテレビを見ていた。
「な……っ!?」
優香は声をあげることさえできない。目の前の無邪気な笑顔に、ただ口をパクパクさせるのが精一杯だった。
「優香ちゃん、いつもこんな時間まで仕事? 頑張りすぎだぞ。」
はいこれお土産! と袋いっぱいのスナック菓子を渡される。孝規はまるで自分の部屋にいるかのようなくつろぎぶりだ。再びテレビの前に陣取ると、バラエティ番組を見ながらゲラゲラと笑っている。
優香は近くにたたまれていたコートを引っつかみ、孝規に向かって思い切り投げつけた。そのまま孝規の胸倉をつかむ。
「……どうやって入った……?」
後頭部にクリーンヒットした上に、何倍も低くなった優香の声に、孝規も身の危険を感じたようだ。
「大家さんに弟と偽って開けてもらいました……。はい。すみません。」
「すみませんじゃない! 今日こそ警察に突き出してやる!」
「わー! 待って下さい、お願いします! もうこんなことしないからぁ!!」
てめぇまじふざけんな! と言葉が悪くなるのも気にせず、子機電話をつかむ。110番をダイヤルしようとすると、孝規ともみ合いになった。
しばらくの格闘の末、孝規が子機を奪取する。互いにゼーハーと肩で息をしていた。
「なかなかやるわね……。」
「俺、男ばっかり5人兄弟なんだよね。だからこういうのは日常茶飯事なの。」
「へえ、そうなんだ。」
「優香ちゃんは? その様子だと、男兄弟いるでしょ。」
「ふっふっふっ……。どうかしら……ね!」
優香はダッと走った。目指すはバッグの中の携帯電話だ。
が、寸前でまたもや孝規に目的のものを奪われた。あからさまな舌打ちは、孝規の耳にも届いたに違いない。
「よっしゃー。俺の勝ちぃ。見たか、三男の力を!」
勝ち誇って胸を張る孝規を、優香は悔しそうに睨んだ。ちなみに、親機もすでに孝規が押さえている。くそ、気だけはよく回る奴だ……。優香は荒くなった息を整えながら恨めしく思った。
「あ、そうそう。実はそろそろ帰ってくる頃かなと思って、カレーあっためといたんだった。」
一緒に食べよう、と孝規は何事もなかったように奪った電話機を両手に抱えながら言った。もう息は弾んでいない。若さからも体力はあるのだろう。さすが、男兄弟の中で育っただけのことはある。
「なんで私が君とカレーを食べなきゃいけないわけ?」
未だ怒りが収まらない優香は顔をしかめる。孝規は、これも何かの縁ってことで、と微笑んだ。
「昨日、カレー作ってる間に寝ちゃっただろ? 最後まできちんとお礼がしたいんだ。そういう俺の気持ちくらい受け取ってくれてもいいじゃん?」
子犬のような上目遣いに、また優香の心臓が高鳴る。今、一瞬犬の耳としっぽが見えたような……。あーもうっ、ダメダメ、この上目遣いにだまされるな! と一生懸命自分の理性に鞭を打つ。
そんな優香を知ってか知らずか、孝規は頼むよとダメ押し。ウルウルとこちらを見る子犬を無碍にできず、優香は本日2回目の敗北感でいっぱいになった。
カレーを食べ終わると、じゃあねーとあっけなく帰っていった孝規に優香は少し拍子抜けした。また泊めてくれと駄々をこねられるのではないかと覚悟していたからである。今日は面倒を起こさずに帰っていったことに安堵しているが、孝規がいなくなった部屋は妙に静かで、少し寂しく感じる。1人になった室内で、優香は自分に対する怒りに震えていた。全く……なんなのだ、あの上目遣いは! 明らかに年下であろう孝規の言動に、大人気なく反応してしまう自分が悔しい。一方で、明日も帰宅したらいたりして……と期待してしまう自分にまた怒りが込み上げた。高野孝規、ムカつく奴。たった2日間で、平凡だった日常を見事にかき回してくれた。きっと、もう2度と会わないであろうその男のことを思うと、嬉しい反面なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
自分の欲求をぶつけるために書きだした処女作。楽しく書かせていただこうと思います。
読んで下さった皆様にも楽しんでいただければ幸いです。