娘と私
娘の学校が配布しているプリント曰く、最近子育てではコミュニケーションが重要視されるようになってきたらしい。
それを知って、私は少々まずいと感じた。
私には娘が一人いる。今年で十幾つだろうか。そういえば、私は仕事にかまけて娘と会話らしい会話というものを、近頃していなかった様に思う。
勿論、いくらかの事務的な会話はあったが、それだけだ。彼女とは活動する時間帯があまりにも噛み合わなさ過ぎている。今の私は彼女の趣味や好みなどといった、プライベートなことは一切知らない。今更だが、それは父親としていかがなものか。
恥ずかしい話ではあるが、育児はずっと妻に任せ切りだった。男児ならまだしも、女児というものはさっぱり分からない。ちゃんとした大人である妻のことが、時折分からなくなる私だ。それが更に幼くなっているのであれば、扱いかねるのはのは自明の理だろう。そこへ下手に私が首を突っ込んでは、いたずらに事態をややこしくするだけだ。私は無能な働き者であることよりも、無能な怠け者であることを選んだ。
仲は悪くはない、と思う。これは私と同じく娘を持つ同僚の話だが、曰く、彼の娘は彼と遭遇しただけで嫌悪感を露にするそうだ。それと比較すれば、まあ、少なくとも嫌われてはいないだろう。ただ、会話が少ないだけだ。
――やはり、父親としてもう少し娘と会話するべきか。
悪くはない。これを機に、やってみるだけやってみるのもいいのではないか。私はそう思った。もしダメな様だったら、影響が少ない内に早々に手を引けばよろしい。
――それじゃあ、今度の休みの日にでも、少し話してみるか。
●
と、言ったところで、会話の糸口とは簡単には掴めないものである。
これが全くの初対面であるならば、まだ救いようがある。自己紹介をして、天気の話をして、そこから話題を広げればよろしい。
しかし、こうも中途半端に相手を知っているばかりに、会話の糸口が掴みにくい。今更自己紹介をする間柄ではあるまいし、天気の話なども微妙だ。というか、そもそもどういった方向性に話題を広げればいいのかすら見当もつかない。
娘は居間でテレビドラマを見ている。
――いっそのこと、ドラマを話題にするか?
いや、駄目だ。そのドラマについての知識が圧倒的に足りなさすぎる。「へえ、そうなんだ」「あ、うん」程度の会話とも呼べない短い受け答えをして、それきりになってしまうのは眼に見えている。
――では、ファッションはどうだろうか。
これも駄目だ。女子高生とはファッションだのなんだのに興味関心があると寡聞にして聞くが、少なくとも私の観る限り、娘はその限りでは無い様だ。化粧っ気が全く感じられない。もっとも、仮に娘がその手の話題に興味があっても、肝心要の私にその知識がほぼ無い。
かくして、思考は振り出しに戻り、私は迷宮をさまようハメになってしまった。
藁にもすがる思いで何かヒントは無いかしらんと辺りを見回すと、ドラマのシーンが目に飛び込んできた。父親役らしき人物と、その娘役らしき人物がやや気まず気な雰囲気の中にいる。
最初に口を割ったのは、父親役の方だった。
『ど、どうだ? 最近、学校の調子は』
成程、その手があったか。私は思わず両膝を叩きたくなる思いだった。
素晴らしい。こんなところにヒントどころか打開策が提示されているなんて。
早速実行に移した。
「ど、どうだ? 最近、学校の調子は」
完璧だ。声の震えから、微妙な語調まで完全に再現できた。
胸中で自画自賛をする私に対する娘の反応は、しかし実に冷めたものだった。
「え? あ、いやまあ……普通だけど」
●
そもそもいきなり普通の会話に持ち込もうとすること事態が間違っていたんだ。
正直言って、普通の会話は私の得手とするところではない。そもそも、いきなりプライベートなことを聞き出そうとすれば警戒されるのは当たり前だ。で、あればあの失敗も頷ける。
ここは一つ、父親らしいことの一つや二つやってやり、信頼を得れば自然と会話も潤滑なものとなるだろう。
そこで、私はやや事務的で、かつ私にもできそうなこと――即ち、勉強を教えること――をすることにした。普通の会話は、勉強の合間にそれとなくすればよろしい。
自室で勉強をしてくると告げ、娘が行ったのを確認する。頃合いを見計らい、二人分の茶を携えて私は娘の部屋へ向かった。
さて、最後に娘の部屋に入ったのは一体いつのことだっただろうか。記憶を探るが、それらしい記憶は思い浮かんでこない。もしかすると、入ったことすら無いかもしれなかった。
扉の前で幾度かの深呼吸して心を落ち着かせる。
ノックし、部屋に入る。
「茶を淹れてきたぞ。勉強ははかどっとるか? もし分からない所があれば父さんが――」
教えてやるぞ、と言おうとしたところで、私は思わず絶句してしまった。
見えたのだ。娘のパソコンの液晶画面上で、いかにも少女漫画に出てきそうな美少年二人が絡まり合っている姿を。
「へ? え、あ……きゃああああ!」
誰かが部屋に入ってきたことを今更感じ取ったのか、ヘッドホンを外し――恐らく、それでは私のノックも聞こえていなかったのだろう――、振り返った彼女は悲鳴にも似た叫びを上げた。
「で、出てって――!」
私は彼女に押され、一も二もなく部屋から強制退場を食らってしまった。
それからしばらく、彼女とはまともな会話はおろか、一言も言葉を交わせなかったのは言うまでもないだろう。
●
「と、いうことがあったんだ……」
休日の苦闘を友人――彼は子供の扱いに長けている――に説明し終わると、彼は苦笑した。
「なんとまあ、不器用というかお前らしいというか……。今まで仕事と浮気していたツケが回ってきたな」
「茶化さないでくれ。こっちは真剣なんだ」
眉尻を下げ、言っても彼は「いやいや」とそれに取り合う様子は無い。
「でも、実際そうだろう? このままだと、――まあ順番は逆になるが――女房にも愛想尽かされるかもしれないぞ」
「ああ、畜生、そんなの分かってるよ。でも仕方ないだろう。私は不器用なんだ。仕事して、給料を家族を養う以外に愛情表現なんて出来やしない」
「ワーカーホリックは大変だな」
「そんなんじゃない。それに同じ仕事でもワーキングプアよりは数倍マシだろう」
溜息をつき、肩をすくめた。
「で、どうなんだ? 教えてくれ、私は一体何をすればいい」
「そうだな……。じゃあ、美味いケーキでも買って帰ってやるのはどうだ?」
「ケーキ? そんなもので良いのか」
「良いんだよ。美味いもん食わせてやれば、会話も弾むだろうさ。ま、そのためにせいぜいいつもより早く帰宅するんだな」
思わず私は眉をひそめてしまう。
「いつもより早めに、か……。難しいな」
「ワーカーホリック」
「だから、そんなんじゃないって言ってるだろう。ただちょっと難しいな、と……」
「終いにゃ女房に愛想尽かされるぞ、ワーカーホリック」
「……っち、分かった。分かりました。早めに帰って美味いケーキ買って帰りゃいいんだろう」
「ああ、家族でケーキ食ってたまには休め」
減らず口の友人を睨むが、彼は悪びれた様子もなく「一石二鳥だろう?」とおどけた様子で肩をすくめた。
●
その後、私は彼の言う通りにいつもより早く会社から出て、ケーキを買って家に帰った。
「ただいま」
居間にいたのは、意外なことにも娘だけだった。
「あれ? おかえり。今日は早いんだね」
「ああ、ちょっと、な。母さんは?」
「出かけてるみたい。町内会だったかな? 遅くなるって」
「そうか」
いつもなら、これだけで会話は終わってしまうが、今日は違う。ケーキの入った箱を掲げ、私は言った。
「ケーキを買ってきたんだ、食おう」
「……珍しい、明日は雨?」
「まあ、たまには、な」
紅茶を淹れ、ケーキを出す。彼女は見るからに機嫌良く「頂きます」と言った。
「わ、美味しい。これだったらこの前のことも赦しても良いかな」
「この前のこと?」
「ほら、前にあったじゃない。夜にお父さんがいきなり部屋に入ってきて、えーっと、その……」
「ああ、あれのことか」
急にまごつき始めた娘を見て、休日のあの事件を思い出す。
「いや、あれについてはすまなかった。まさかあんな状況に出くわすとは夢にも思わなくてな……」
「いいよ、もう気にしなくて。あたしも気にしてないから」
彼女は外方を向いてそう言った。その頬に朱が差しているところから、おそらくは照れ隠しなのだろう。そのまま食べることに集中していますという風を装って、彼女はぺろりとケーキを平らげてしまった。
「ああ、美味しかったぁ」
満足気な溜息をつき、彼女は笑みを零した。
やはり女児とはよくわからない。しかし、こうして娘の笑顔を見られるというのも、どうしてだか悪くはないと私は思った。
初めまして、一・一と言います。
今回は読者の心が温まってheart full、お父さんが苦労してhurt fullをテーマに描き上げた短編です(あ
ウチの父親よ、負けるな・・・!
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