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――バッドエンド――

反転の巫女

掲載日:2026/08/25

※転載、翻訳禁止です。

 ハルゼバイト王国には、古くから語り継がれる伝説があった。


 百年に一度、この国には巫女と呼ばれる存在が生まれる。

 巫女は生まれながらにして二つ以上の属性魔法を操る力を持ち、その心の在り方によって国の運命を左右するとされていた。

 人間が善き心で育てれば人間側は繁栄し、大地は豊穣に満ちる。

 人間が悪しき心で育てれば、魔族側が勢いを増して人間は滅びの淵に立たされるという。

 もし巫女を殺した場合は、その国に災いが起こる。

 それ故に、巫女と目される者は神殿によって丁重に育てられ守られねばならない。

 それが何百年と受け継がれてきた国是でもあった。



 ある年、王都の大神殿にある石板に神託が刻み込まれた。


「巫女、生まれり。巫女のあり方によって運命は変わるであろう」


 神官長ロルナールは重苦しい声でその言葉を読み上げ、すぐさま国に布告を出した。


 国中の魔術鑑定士が動員され、生まれたばかりの赤子から育ち盛りの子供まで、あらゆる年齢の少女が調べ上げられた。

 そうして見つかったのが、十二人の少女達であった。

 そのうち十一人は公爵家、伯爵家、子爵家など、由緒正しき貴族の血を引く令嬢達であった。

 残る一人だけが、王都の外れに住む靴職人の娘であるヨミルという平民の少女だった。


 神殿は十二人全員を巫女候補として、七歳まで成長してから共に神殿の奥深くで育てることを決定した。

 誰が真の巫女であるか、それは本人が十五になり覚醒を迎えるまで分からない。

 額に巫女の紋章が浮かび上がった時、初めてその者が巫女であると確定する。


 だが人の心とは、平等という言葉とは程遠いものだった。

 十一人の貴族令嬢達と、その周囲は心のどこかでこう信じていた。

 巫女は由緒正しき血筋から生まれるはずだ。

 平民などであるはずがない。

 その思い込みが、やがて一人の少女の運命を底なしの闇へと突き落としていくことになる。






 ヨミルが神殿に召されたのは、彼女が七歳になったばかりの頃だった。

 父は王都の片隅で靴を作る職人で、母は彼女が幼い頃に流行り病で亡くなっていた。

 決して裕福ではなかったが父はヨミルを愛し、彼女も誠実な父を慕っていた。


 ヨミルが赤子の頃に鑑定士が家を訪れ、ヨミルの手に小さな水晶を当てた時だった。

 水晶は淡い光を放った。

 それは火と風、二つの属性に反応する光だった。


「お嬢さんは、巫女候補のようです」


 鑑定士の言葉に父は顔を青ざめさせた。

 喜びよりも先に、不安が彼の心を満たした。

 それでも――。


 ヨミルが七歳になり、神殿の者が迎えに来た。


「……ヨミル、神殿に行けば、お前は立派に育ててもらえる。きっと幸せになれる」


 父はそう言い聞かせながら、内心では涙を抑えていた。

 ヨミルは父と離れることが怖くて仕方がなかった。

 それでも行くしかなかった。


 神殿に到着したヨミルを待っていたのは、煌びやかな衣装に身を包んだ十一人の少女達だった。

 彼女達は侍女にかしずかれ、何不自由なく育てられてきた令嬢達であった。

 だからヨミルのような粗末な服を着た少女を初めて目にした。


 その中でも一際目を引いたのが公爵家の娘、ミーゼリア・カクソルテだった。

 艶やかな金髪に宝石のような紫の目。

 十二人の中で最も高い爵位を持ち誰よりも美しく、誰よりも才に恵まれていると評判の少女だった。

 彼女は幼いながらに、既に周囲を見下す視線を持っていた。


「あなたが平民の子……?」


 ミーゼリアはヨミルをじろじろと眺め、小さく鼻を鳴らした。


「冗談でしょう。巫女が、こんな薄汚れた子のはずがないわ」


 その一言が、すべての始まりだった。






 神殿での暮らしは、外から見れば豪奢なものだった。

 十二人の候補達には専用の部屋が与えられた。

 家庭教師がつき、魔術の基礎から礼儀作法まで、あらゆる教育が施された。

 だがヨミルにとってそこは、緩やかな地獄の始まりだった。


 最初は些細な意地悪だった。

 ヨミルの机にインクがこぼされていたり、彼女の使う物だけが汚されていたり。

 ヨミルが声を上げても世話係の侍女達は、あの方々がそんなことをするはずがありませんと取り合わなかった。


 神殿側の対応も歪んでいた。

 十二人の候補を平等に扱うという建前は早々に崩れていた。

 貴族令嬢達には上等な衣装と豊富な食事が与えられる。

 それなのにヨミルには最低限のものしか与えられなくなっていった。


「平民の子に無駄な出費はできませんからね」


 神官の一人がそう囁くのをヨミルは偶然耳にしたことがある。

 神殿全体が当然のように、巫女は貴族の中から生まれると信じ込んでいたのだ。

 過去の記録に残る巫女が、すべて高い身分の生まれであったという事実が、その偏見を更に強固なものにしていた。


 ミーゼリアを筆頭とする令嬢達のいじめは、年を追うごとに巧妙さを増していった。

 表向きは礼儀正しく、神官や侍女の前では決してヨミルを傷つけるような素振りを見せない。

 だが人目のないところでは容赦がなかった。


「あなたみたいな子が私達と同じ様に学んでいるなんて、おかしいと思わない?」

「巫女は、きっとミーゼリア様よ。ミーゼリア様ほど高貴で美しい御方が巫女でないはずがないもの」

「平民のくせに、巫女候補だなんて図々しいわ」


 そんな言葉を毎日のように浴びせられた。

 時には食事に虫を入れられ、時には大切にしていた母の形見の物を壊された。

 ヨミルが泣いて訴えても、「証拠がない」「あなたの思い込みでは」と一蹴されるばかりだった。


 唯一、ヨミルに優しくしてくれたのは神殿の下働きとして働く少年ヤハルだけだった。

 彼もまた孤児で身寄りのない身の上だった。


「ヨミル、辛いことがあったら、いつでも俺に話していいからな」


 ヤハルの存在だけが、ヨミルの心の支えだった。

 だが神殿という閉ざされた世界の中で、一人の下働きの少年にできることは限られていた。






 歳月は無情にも流れていった。

 ヨミルが十歳になる頃には、いじめは更にエスカレートしていた。

 令嬢達は巫女ごっこと称してヨミルに跪かせ、靴を舐めさせようとしたこともあった。

 ヨミルが拒めば、平民のくせに生意気だと殴られた。

 それでもヨミルは、心のどこかでまだ希望を捨てていなかった。

 いつか、誰かが分かってくれる。

 私は悪いことなんて何もしていないのだから。


 彼女は黙々と魔術の鍛錬に励んだ。

 火と風、二つの属性を操る彼女の才能は本来であれば誰もが認めるべきものだった。

 実際、教師の中には密かにヨミルの才を高く評価する者もいた。


「ヨミル、あなたの魔力の伸びは候補の中でも群を抜いている」


 老齢の魔術教師フルビストは、人目を忍んでそう告げたことがある。

 だがそれを陰で聞いていたミーゼリア達は、更に苛烈な嫌がらせでヨミルを苦しめるようになった。


「あんな平民の出来損ないが、私達より優れているはずがないわ」

「先生は何か勘違いしているのよ」


 数ヶ月後、教師のフルビストは突如として神殿を追われることになった。

 理由は指導力不足とされたが、真相は公爵家からの圧力であったと、後にヤハルがヨミルにそっと教えてくれた。


 そんな時、父の訃報が届いた。

 流行り病だったそうだ。

 ヨミルは悲しみにくれた。

 ヤハルがそばにいてくれたが、ヨミルの中では何かが少しずつ壊れていった。


 優しさを向けられても、それはすぐに奪われる。

 才能を認められても、それは罰として返ってくる。

 声を上げても、信じてくれない。



 十二歳になる頃には、ヨミルはヤハル以外とはほとんど口をきかなくなっていた。

 彼女の目からは、かつての無邪気な光が消えている。

 代わりに昏く沈んだ諦観が宿るようになっていた。


「あの子、最近様子がおかしいわよね」

「気味が悪いわ。やっぱり平民の血は卑しいのよ」


 令嬢達はそんなヨミルを見ては嘲笑っていた。

 彼女達にとってヨミルへのいじめは、もはや日常の一部で退屈しのぎの娯楽でしかなかったのだ。

 唯一の救いであったヤハルとの時間も神殿の規則によって次第に制限されるようになっていった。

 巫女候補が下働きと親しくするなど、もってのほかだという理由だった。


 ヨミルは、たった一人で深い孤独の底に沈んでいった。






 ヨミルが十五歳を迎えようとしていたある夜、神殿に激震が走った。

 晩餐の席でミーゼリアが突然苦しみ出し、その場に倒れたのだ。


「ミーゼリア様の飲み物から、毒が検出されました!」


 神殿の薬師が叫んだ言葉に、その場は騒然となった。

 幸い毒の量はわずかであり、ミーゼリアの命に別状はなかった。

 それでも誰かが彼女を害そうとしたという事実は神殿中を震撼させた。


 そして誰が言い出したわけでもなく、ある一つの結論が瞬く間に広まっていった。


「ヨミルよ。ヨミルがやったに違いないわ」

「そうよ、あの子、いつも私達を恨めしそうな目で見ていたもの」

「平民の身で私達に嫉妬して……」



 何の証拠もなかった。

 それなのに十一人の令嬢達が口を揃えて、ヨミルが怪しいと証言すると神殿側はあっさりとそれを信じてしまった。


「ヨミル、お前を拘束する」


 神殿の衛兵がヨミルの部屋に踏み込んできた時、彼女はただ呆然とするしかなかった。


「私は……何もしていません!」

「お前が他の巫女候補達を妬んでいたことは、誰もが知っている。神殿に侵入できる者は限られている。お前以外に誰がこんなことをする?」


 弁明は、最初から聞き入れられなかった。

 ヨミルの部屋からは、彼女が使ったこともない薬瓶が証拠として押収された。

 後にそれが何者かによって仕組まれたものであったことなど、その時のヨミルには知る由もなかった。

 唯一ヨミルを信じようとしたヤハルも神殿の衛兵に取り押さえられ、引き離されてしまった。


「ヨミルは無実だ! 信じてくれ!」


 ヤハルの叫びは、誰の心にも届かなかった。



 牢に繋がれたヨミルは冷たい石の床に座り込み、ただ涙を流すことしかできなかった。

 どうして、私がこんな目に遭わなければならないの。

 幼い頃から積み重なってきた理不尽の数々が、彼女の心の中の何かを動かそうとしていた。

 優しさを向けられたことなど、数えられるほどしかなかった。

 報われることのない努力。

 信じてもらえない訴え。

 それでも耐え続けてきたのは、いつか分かってもらえると信じていたからだ。

 その希望は今、完全に潰えようとしていた。






 裁判という名の茶番は、わずか数時間で終わった。

 神官長ロルナールが主導する審問の場で、ヨミルにはまともな弁護の機会すら与えられなかった。

 証人として呼ばれたのはミーゼリアをはじめとする十一人の令嬢達のみであり、彼女らは口々にヨミルへの疑いを語った。


「ヨミルはいつも、私達を恨んでいる目をしていました」

「平民の分際で、巫女になれると思い上がっていたのです」

「あの子なら、やりかねません」


 誰一人として、ヨミルが実際に毒を盛る現場を見た者はいなかった。

 証拠とされた薬瓶も、その出所すら明らかにされなかった。

 それでも、十一人の貴族令嬢達の証言という数の力と平民が巫女であるはずがないという周囲の根深い偏見が組み合わさり、ヨミルの有罪はあっという間に確定してしまった。


「ヨミル、汝は巫女候補ミーゼリア・カクソルテ様への毒殺未遂の罪により、公開処刑に処す」


 その宣告を神官長は淡々と、まるで何の感情も伴わない事務作業のように読み上げた。

 ヨミルは何も言わなかった。

 その時には言葉を発する気力すら残っていなかった。

 牢の中で唯一の慰めとなったのは、衛兵の目を盗んでわずかな時間だけ会いに来てくれたヤハルの存在だった。


「ヨミル、諦めるな。俺は……俺は、何とかして助けを呼ぶから」

「ヤハル……あなた以外、私を信じてくれない。ずっとそうだった。お父さんと離れてから、私を本当に大切にしてくれたのは、あなただけだった」

「ヨミル……」

「ありがとう、ヤハル。あなたがいてくれて、私は……少しだけ、救われていた」


 ヤハルは何も言えず、ただ涙を流すことしかできなかった。


 その後、ヤハルがヨミルを逃がそうとしていたことが発覚し、速やかにヤハルは処分したと聞かされた。

 それを知ったヨミルは絶望した。


「ああ……そんな、いやよ……ヤハル、ヤハルーーーー!!」


 処刑の前夜、ヨミルは一睡もできずに牢の小さな窓から見える夜空を見つめ続けていた。

 星々は彼女の人生とは無関係に、美しく輝いていた。


 この世界は、優しくなどない。


 その心は彼女の中で確実に育っていった。

 悲しみではなかった。

 後に残るのは深い憎しみだけだった。






 処刑の日、王都の中央広場には、かつてないほどの人だかりができていた。


 ロンスト国王、ロルナール神官長をはじめとする神殿の高位聖職者達、そしてミーゼリアを含む十一人の貴族令嬢の巫女候補達も、特別席から処刑の様子を見守ることになっていた。


 巫女候補による毒殺未遂という前代未聞の事件は瞬く間に国中の噂となり、見物に集まった民衆の数は数千を超えていた。


 処刑台の上に引き立てられたヨミルは、涙を流すことすらなかった。

 粗末な囚人服に身を包み両手を縄で縛られた彼女の目には、深い諦念とそれを上回るほどの暗い感情が宿っていた。


「ヨミル。汝の罪は明白である。今この場にて、その首を刎ねる」


 神官長の声が広場に響き渡った。


 群衆の中には、ヨミルに同情の目を向ける者も僅かながらいた。

 だがその声はあまりにも小さく、誰にも届くことはなかった。

 多くの民衆は、ただの見世物として好奇の目でこの光景を眺めているだけだった。


 処刑人が大きな斧を構えた。


 ヨミルは最後に空を見上げた。

 お父さん。お母さん。私は、何のために生まれてきたの。

 幼い頃の記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。

 父の優しさ。

 母の温かい記憶。

 神殿に来てからの終わりのない理不尽の数々。

 ミーゼリア達の嘲笑。

 信じてもらえなかった訴え。

 そしてたった一人、自分を信じてくれたヤハル。

 私は何も悪いことなんてしていない。

 それなのに――。

 心の奥底で、何かが弾けた。


 処刑人の斧が振り下ろされようとした、まさにその瞬間――。


 ヨミルの額が眩い光を放った。


 ああそうか、私は――。






 広場にいた誰もが、その光に目を奪われた。


 処刑人の動きが、まるで見えない力に縛られたかのように、ぴたりと止まった。

 斧を振り下ろすことができない。

 いや、振り下ろすことを彼の体そのものが拒んでいた。


 ヨミルの額に複雑な紋様が浮かび上がっていく。

 それは伝説の巫女の印だった。


「あ……ありえない……」


 神官長ロルナールが、その場に崩れ落ちるようにして呟いた。


「平民の……あの子が……巫女、だったのか……」


 国王は玉座から立ち上がり、信じられないものを見るような目でヨミルを見つめていた。

 ミーゼリアをはじめとする十一人の令嬢達は揃って顔面蒼白となり、言葉を失っていた。

 そしてその驚愕は、すぐに更なる戦慄へと変わることになる。


 額に浮かび上がった紋様がゆっくりと、上下逆さまに反転していったのだ。

 そして黒く染まった。


 伝承によれば巫女の印は、人間が善き心で育てれば正位置のまま固定され、人間の繁栄をもたらす。

 しかし人間が悪しき心で育てれば、印は反転し魔族の繁栄を招く凶兆となる。


「逆位の印……まさか……」


 老齢の神官の一人が震える声で呟いた。


「人間の滅びの兆し……」


 その光景に民衆、貴族、衛兵達は立ち尽くしていた。


 誰もが目の前で起きている異常事態を理解できずにいた。


 縄が、まるで意思を持った蛇のようにほどけ落ちた。

 ヨミルの両手は自由になった。

 彼女はゆっくりと処刑台の上に立ち上がり、自分を死に追いやろうとした国王、神官、そして自分をいじめ抜いた令嬢達を静かに見渡した。


「私は、人間の繁栄など望まない」


 ヨミルの声は不思議なほど静かでありながら、広場の隅々にまで響き渡った。

 ミーゼリアが震える声で叫んだ。


「な、何を言っているの……あなたは巫女なのよ! 人間のために繁栄を望むべきでしょう!」


 ヨミルは彼女を真っ直ぐに見据えた。

 その視線だけで、ミーゼリアは凍りついたように動けなくなった。


「人間のために? ……あなた達が、私に何をしてきたか覚えていないとでも?」


 ヨミルの声には、これまでの長きに渡る苦しみのすべてが滲んでいた。


「私を平民だからと蔑み、嘲り、痛めつけてきたのは、あなた達だ。私の声を聞こうともせず、ただ生まれを理由に断罪したのは、この国そのものだ。あなた達は私に人間の汚いものばかりを見せてきた」

「ヨミル……」


 国王が初めてその名を口にした。


 だがもはやその声に、ヨミルの心を動かす力はなかった。


「そんな者達など滅んでしまえ!」


 ヨミルは確固たる意志を持って、その言葉を口にした。


「あなた達を選ぶことは決してない! 私は魔族側の繁栄を望む!」


 その瞬間、空が割れた。



 天より黒く渦巻く雲が広場の上空を覆い尽くした。


 雷鳴のような音とともに空間そのものが裂け、そこから影が姿を現した。

 それは人の形をしていながら、人ならざる威圧感を纏った存在だった。


 漆黒の衣に身を包み、背には漆黒の翼。

 頭には鋭く湾曲した二本の角。

 目は燃えるような深紅に輝き、見る者すべてを震え上がらせる絶対的な強者の風格を漂わせていた。


 魔王ザヴァール――。


 人間達が何百年もの間、恐怖と共に語り継いできた闇の支配者その者であった。


「まさか、巫女が我らを選ぶとはな……」


 ザヴァールは広場全体を見渡しながら、口元に酷薄な笑みを浮かべた。


「人間とは、本当に愚かなものだな。自分達の守るべき巫女を、こうも無惨に踏みにじるとは」


 その声は、地の底から響くような重低音でありながら不思議と耳に響いた。


「お前達は、手にしていた宝を自分達で壊したのだ」


 ザヴァールはゆっくりと処刑台に降り立つとヨミルの前に跪いた。

 それは人間達の誰もが想像し得なかった光景だった。

 闇の支配者が、一人の少女に対して敬意を示しているのだ。


「巫女よ。お前の絶望は私には痛いほどよく分かる」


 ザヴァールの深紅の目がヨミルを見つめた。

 そこには、これまでヨミルが向けられてこなかった敬意と理解の色が浮かんでいた。


「人間どもは、お前の価値を見誤った。だが我ら魔族は違う。お前を正しく敬うことができる」


 ヨミルは、しばし沈黙した。

 彼女の中に残っていたほんの僅かな迷いすらザヴァールのその言葉によって、跡形もなく溶け去っていった。


「……私を連れて行ってくれますか」


 ヨミルの問いにザヴァールは頷いた。


「無論だ。お前はもうこの国に縛られる必要などない」


 ザヴァールが手を差し伸べるとヨミルは静かにその手を取った。

 冷たいはずのその手は不思議と温かく感じられた。

 これまでの人生で誰かに手を差し伸べられた記憶など、数えるほどしかなかったヨミルにとって、それは新たに感じる確かな居場所の感覚だった。


「待て!……待ってくれ!」


 国王が悲痛な声を上げたがその声は、ヨミルの心には届かなかった。


「これからは、我らの時代のようだ」


 ザヴァールはそう言い放つとヨミルを伴い、漆黒の翼を広げた。

 二人の姿は黒い渦に包まれ広場の人々が見守る中、虚空の彼方へと消えていった。

 残されたのは、阿鼻叫喚に包まれた広場と取り返しのつかない絶望だけだった。






 魔王とヨミルが消え去った後、王宮は混乱の極みにあった。


「一体、誰の責任だ!」


 国王ロンストは、神官長ロルナールを問い詰めた。


「神殿が平民だからという理由だけで、ヨミルを蔑ろにしていたのではないか!」


 ロルナールは、青ざめた顔で言葉を失っていた。

 ミーゼリアをはじめとする十一人の令嬢達も、これまでの自分たちの行いが招いた結果の重大さに、ようやく気づき始めていた。


 国王は急遽、ヨミルへの仕打ちについて徹底的な調査を命じた。


 調査の結果、明らかになったのは想像を絶する真実だった。

 ヨミルへの長年に渡る組織的ないじめ、神殿側による意図的な待遇格差、そして毒殺未遂事件における証拠の捏造。

 そのすべてがミーゼリアとその取り巻きの令嬢達、そして彼女らに迎合した一部の神官達による悪意に満ちた所業であったことが判明したのだ。


「なんという愚かなことしてくれたのだ……」


 国王は頭を抱えた。

 だがすべてはもう遅すぎた。


 真実が明らかになったところで、ヨミルはもう戻ってこない。

 彼女は既に魔王の手を取り、人間に対する憎悪を胸に闇の世界へと旅立ってしまったのだから。






 それから数ヶ月後、ハルゼバイト王国の国境付近で異変が報告されるようになった。

 魔族の軍勢が、かつてないほどの勢いで国境を侵し始めたのだ。

 これまで人間と魔族との間には巫女の存在によって保たれてきたある種の均衡があった。

 その均衡を支えていた巫女自身が魔族側についた今、その歯止めは完全に失われていた。


「魔族の軍に、黒き衣を纏った女性の姿が確認されました! その額には、巫女の印が!」


 騎士からの報告に、王宮はさらなる恐慌に包まれた。


 ヨミルは自らの魔力を以て、魔族軍の先頭に立っていた。


 彼女が放つ火と風の魔術は、かつて神殿で平民には不釣り合いと蔑まれていたその力は、今や国そのものを焼き尽くす圧倒的な脅威となっていた。


 戦況は、瞬く間に人間側の劣勢へと傾いていった。

 ハルゼバイト王国の騎士団は奮戦したが、巫女という絶対的な存在を欠いた人間の軍勢は魔族の圧倒的な力の前に、なすすべもなく敗北を重ねていった。

 王都が陥落するまでに、さほど長い時間はかからなかった。


 国王は囚われ、神殿は破壊され、かつてヨミルを蔑んだ貴族達の多くは、戦火の中に消えていった。


 ミーゼリアだけは生きたまま捕らえられ、ヨミルの前に引き出された。


「ヨミル……お願い……許して……」


 ミーゼリアは、かつての高慢さなど欠片もなく、ただ命乞いをするばかりだった。

 ヨミルは、その姿を見ても冷たく静かな目で見下ろした。


「あなたは、ずいぶんと私をいたぶって楽しんでいたわよね。そんなあなたに、ぴったりのお礼をするわ。今度はあなた自身の身体でだけど。この魔族はね、拷問が好きなの。ゼルトス、彼女を好きにしていいわ」


 魔族のゼルトスがミーゼリアの前に立ち、不敵に笑った。


「本当によろしいので?」

「ええ、彼女を存分にいたぶっていいわ」

「お願い! 謝るから、やめてちょうだい!!」

「何を言っているの? あなたは私がそう言っても止めなかったじゃない。だから私も止めないわ」

「いやっ……いやぁああああぁ、助けてえぇえぇ」


 ミーゼリアは引きずられながらゼルトスに連れて行かれた。


 ヨミルの声には、もはや怒りすらなかった。

 それは完全に人間という存在から心が離れてしまった者の虚無の声だった。


「不要なものは処分しないとね」


 その言葉を最後にヨミルはミーゼリアが連れていかれた方向から背を向け、その場を去った。

 ミーゼリアのその後の運命については、記録に残されることはなかった。






 ハルゼバイト王国が陥落してから一年が過ぎた頃、かつて人間達が治めていたその大地は、すっかり魔族の支配する領土へと姿を変えていた。


 王都であった場所には漆黒の尖塔がそびえ立つ新たな城が築かれ、そこに魔王ザヴァールと、その妃となったヨミルが共に暮らしていた。


 人間達の中には、なおも抵抗を続ける者達がいた。

 だがその声がヨミルの心に届くことは、二度となかった。

 彼女はもはや、人間という種族そのものに何の感情も抱いていなかった。

 完全な無関心だけが、そこにはあった。


 ザヴァールは、そんなヨミルを誰よりも大切に扱った。


「お前は、もう何も恐れる必要はない」


 ザヴァールは城の高い窓から、かつて人間達の国であった大地を見下ろしながらヨミルにそう語りかけた。


「ここでは、誰もお前を傷つけない」


 ヨミルは、静かに頷いた。


 彼女の額に刻まれた逆位の印は、今や魔族の繁栄の象徴として城のいたるところに掲げられるようになっていた。


「ザヴァール様、私はこれでよかったのでしょうか」

「……よかったかどうかなど、私には分からない。だがお前はもう誰の道具でもない。お前自身のために生きていいのだ」


 その言葉にヨミルの目はわずかな涙が滲んだ。

 それは、これまでの人生で流してきた苦しみの涙とは違う何か別の感情から生まれたものだった。


 人間達の国ハルゼバイト王国がかつて誇った繁栄は、今は見る影もなかった。

 生き残った人々は魔族の支配下で、かつて自分たちが見て見ぬふりをしてきた理不尽の報いを骨身に染みるほど味わうことになった。


 巫女とは本来、丁重に育てられるべき未来を左右する尊い存在であった。

 しかし人々はその真実を忘れ、生まれという表面的な事実だけで一人の少女の価値を断じてしまった。

 その傲慢の代償は、あまりにも大きかった。


 人間達の歴史書には、後にこう記されることになる。

「我らは、事実から目を逸らした。そしてその報いを受けた」と。


 ハルゼバイト王国は地図の上から静かにその名を消し、代わりに魔族が支配する闇の領域として新たな歴史を刻み始めるのだった。






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― 新着の感想 ―
これ、候補を一カ所に集めたこと自体が間違いでは…? ある程度の集団になれば蹴落とし見下しが発生するのはまぁ予想できてしかるべきというか……比較対象が近くにいたら競争になるのは仕方ないんだよなあ…まして…
巫女が人側に生まれているのは、人族が優勢だったからなのかなぁ。 腐敗度チェッカーとして優勢な勢力に誕生するのかなと妄想。
なんか、思ってたよりあっさり終わってびっくりした。 反転の巫女とか、ありえない事態がこの国に起こったとか、期待値だけ上げて内容は普通って感じ。しかも人間の繫栄ってなってるけどしょせん一国つぶれただけだ…
感想一覧
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