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「婚約破棄してください」「クッキーどうぞ」その結果、陰キャ婚約者に懐かれることに

掲載日:2026/07/08

 



「……婚約破棄をして欲しいのですが」



 夕暮れの玄関先に立っていたのは、深くフードを被った男だった。

 ロゼッタはぱちりと瞬きをした。


(婚約破棄……?)


 記憶の糸を辿って、彼女はピンときた。


 男爵家の一人娘であるロゼッタは先日、両親から改まって呼び出された。


「あなたに婚約のお話が来ている、お相手はサルヴィア伯爵家の次男だ」と。


 貧乏男爵家の我が家からすれば、伯爵家は雲の上のお家柄。なぜロゼッタが相手として選ばれたのかもわからないし、そんな高貴な方との婚約なんて上手くいくはずがないと思っていたところだった。


 なるほど、と彼女は納得した。


(婚約破棄のお話を伝えに、伯爵家から使いの方を寄越されたのね)


 顔を隠すように深く被ったフード。人目を忍ぶような、夕暮れ時の訪問。


 この方はきっと、込み入った用事を任される伯爵家のお抱えの使用人なのだろう。


 ロゼッタは丁寧に頭を下げた。


「わざわざのお越し、ありがとうございます。ご主人様のお言いつけで、いらしたんですよね?」

「……え?」

「遠いところを、ご苦労さまでした」


 すると、フードの奥から間の抜けた声が漏れた。


「あ、あの、ちが……ちがくて」

「はい?」

「ご、ご主人様からのお使いとかでは、なくて。ぼ、僕が、その『ご主人』というか」

「……?」


 いまいち要領を得ない説明に、ロゼッタは首をかしげた。


「つまり、ぼ、僕が、ユーリ・サルヴィアで……つ、つまり、その、キミの、こ、婚約者で」

「…………」

「だ、だから、ちょ、直接、お話を……」


 ロゼッタはしばし固まった。

 見るからに挙動の怪しいフードの不審人物。


 この人が。


「……ええっ!?」



 サルヴィア伯爵家の、ご令息?



「み、見えないですよね。そうですよね!」

「いえ、決してそういう訳ではなく!」


 ずーんと暗く沈み込む伯爵令息の前で「使用人にしか見えませんでした!」なんて言えるはずもなく。

 ロゼッタは慌てて話題を切り替えた。


「婚約破棄ということは……まさか我が家に何か粗相がございましたか?」

「いえ、全く!」

「それでは、他に想い人がいらっしゃるとか」


 婚約破棄というのは、珍しい話でもない。

 家同士が決めた結婚なのだ。別に好きな人ができたなんて、よく聞く話だけれども。


「お、想い人!? あり得ません!」

「では、どうして……?」

「だって、僕なんかと婚約するなんて申し訳ないじゃないですか」


 ロゼッタがきょとんとした顔をしていると、堰を切ったように、ユーリのフードの奥から猛烈な早口が溢れ出した。





「だ、だってキミ、よく考えてみてください! 僕ですよ!? こんな、陰気で、暗くて、一日中ずっと家にこもってるような引きこもりで、人の目を見て話すこともできなくて、社交の場にも一度も出たことがなくて、友達もいなくて、こんな僕なんかと結婚したら、キ、キミの人生、ぜ、絶対に無駄になります! いやもう無駄どころか大損害というか、ふ、不良物件をつかまされるようなもので、こんなのもう、ほとんど詐欺です! 詐欺! だ、だから今のうちに、傷が浅いうちに、ナシにしておいたほうが、ぜ、絶対にキミのためで――」





 語尾はどんどん小さく、速く、最後のほうはほとんど呪文のようで、何を言っているのか半分も聞き取れない。


 ロゼッタが理解できたのは、彼がとんでもなく自己肯定感の低い引きこもりだということだけ。


(えーっと……)


 ちょうど父は商会へ打ち合わせに、母は近所の奥方とお茶に出ていて、家には自分ひとり。焼きたてのクッキーを冷ましながら、夕飯の支度でもしようかと思っていた矢先のことである。


「と、とにかく! 僕みたいなのと一緒になっても、キミは幸せになれません! それだけは、声を大にして言いたくて、それで、わざわざ――」

「ユーリ様」

「は、はいっ」

「とりあえず、中へどうぞ」

「……はい?」


 ぴたり、と早口が止まった。

 ロゼッタはにっこり笑って続ける。


「日が落ちると冷えますし、伯爵家のご令息に立ち話なんてさせられません! ちょうど、クッキーが焼けたところなんです!」


 くるみの香ばしい匂いが、玄関の奥からふわりと漂ってきていた。


「……クッキー」


 フードの奥で、ユーリがぴくりと反応した。



 ◇



「では、どうぞ。古くてお恥ずかしいんですけど」


 男爵家の居間は年季が入っているし、けっして広くはないが、掃除だけは行き届いていて小綺麗である。


 ユーリは、すすめられた椅子の端にちょこんと浅く腰かけて、フードを被り直す。


「熱いので気をつけてくださいね」


 ロゼッタが紅茶と一緒に焼きたてのクッキーを皿に盛って差し出すと、ユーリが弾かれたように顔を上げた。


「……いいん、ですか」

「もちろんです。たくさん焼いたので」

「いや、その、そうじゃなくて」


 フードの奥で、彼はもごもごと口ごもった。


「ぼ、僕は、婚約を破棄してくれと言いに来た、いわば失礼な人間で。そんな相手に、その、こういうものを、出してもらう資格は」

「資格、ですか」


 資格と言われても、ロゼッタにはよく分からない。なんだか難しいことを言う方だなと思いながら、告げる。


「クッキーを食べるのに資格なんて要りませんよ。食べたかったら食べる。それでいいじゃないですか」

「……な、なるほど。では、遠慮なく」


 彼はクッキーをひとつ、まるで壊れ物でも扱うようにそっとつまんで、フードの陰へと運んでいく。

 さくり、と小さな音がしたと同時に、ユーリの動きが止まった。


「……お、おいしい」

「それは良かっ――」




「外がさくさくで、中がしっとりしてて、くるみの、香ばしさが……っ、あ、甘さはひかえめなのに、後から、じわっと来るというか、これはたぶん、は、蜂蜜……? あっいや、はちみつだけじゃない、こ、この味は、きっと――」




 ユーリは早口でまくしたてながら、ロゼッタにずいっと近寄った。


「メープルも入ってますか?」

「すごい。全部、当たりです。蜂蜜と、ちょっとだけメープルシロップを混ぜてるんです」

「やっぱり! このクッキー、王都の洋菓子店なんかよりもずっと――」

「……ふふっ」


 あまりに熱すぎる感想に、ロゼッタは思わずこらえきれずに噴き出した。すると、ユーリはしまったとばかりに頬を真っ赤にする。


「調子に乗ったら早口になるのは僕の悪い癖で……ごめんなさい」

「いえ、こちらこそ、ふふっ。喜んでもらえて何よりです」




 結局その日、話はひとつも進まなかった。


 ユーリは驚くほどの話下手で、あれこれ聞き出すうちにすっかり日が暮れてしまった上、婚約破棄するにしても、ロゼッタは両親に確認をしなければならなかったからだ。


「すみません、急に押しかけたのにも関わらず、何も話を進められなくて……」

「いえ。……あの、ユーリ様」

「は、はい」

「クッキー、よかったら、残りも持って帰ってください。袋にお包みしますから」


 ユーリはなぜか石像のように固まって、フードの奥の瞳をキラキラと輝かせた。


「いいんですか……っ」

「こんなものでよければ、いくらでも」

「あっ、ありがとうございます!」


 たくさんのクッキーを大事そうに抱えて、ユーリは簡素な馬車に乗り込んでいった。乗り込む間際にも、もう一度こちらを振り返って、ぺこりと、ていねいに頭を下げた。


(また、来るのかしら)


 不思議とそうなったらいいな、とロゼッタは思った。



 ◇



 両親に婚約破棄の件を相談すると、返ってきた言葉は「あなたが決めなさい」というあっさりしたものだった。

 父も母も、伯爵家との婚約で得られるメリットを重々承知しているはずだ。でも、何を決めるにも、最後は本人に委ねてくれる両親のことをロゼッタは尊敬していた。


(もちろん、婚約破棄するのは簡単だけれど)


 ユーリは結局、「僕なんかと結婚するのは申し訳ない」とばかり言って、肝心の事情は何ひとつ話してくれなかったから。


(次に来たら、ちゃんと聞いてみよう)


 そう思っていた矢先に、ユーリはやってきた。


「す、すみません、また来てしまって。け、決して催促とかではなく、ただその、お返事を、と思っただけで」


 二度目の訪問でも、ユーリはやはりフードを目深に被っていた。玄関先で、相変わらず申し訳なさそうに背を丸めている。


 ロゼッタは彼を居間へ通すと、ちょうど焼きたてだった梨のパイを差し出した。

 切り分けた断面から飴色に煮えた梨のフィリングがとろりと覗いて、バターの匂いに混じって湯気がふわふわと立ちのぼっている。


「今日は梨のパイです」

「て、天才ですか……っ?」


 席に着いたユーリは、待ってましたとばかりにフォークを手に取る。先日は、野良猫のように怯えていた彼だが、ちょっとだけ心を開いてくれたようで少し嬉しく思う。


 さくり、と層の砕ける軽い音がして、ひとくち運んだ途端。

 フードの下で彼の背筋がぴんと伸びた。


「……中の梨の風味が独特ですね。煮るときに、何か香辛料を?」

「シナモンを、ほんの少しだけ」

「やっぱり!」


 相変わらずの熱量の感想である。ロゼッタも悪い気はしない。


「本当は林檎で作りたかったんですけど、今年はどこも高くて」


 ロゼッタはため息まじりに肩をすくめた。


「なんでも、どこも不作だったみたいで。うちの領も、年々作物の出来が悪くなってるって父がいつも頭を抱えてるんです」


 これは我が領の、結構深刻な悩みだった。

 領民からは、小作料を減らしてくれと言われるけれども、農業用の設備費もかさむ一方で家計は火の車である。


「それは……川の上流を、誰かが堰き止めていませんか?」

「えっ?」


 ロゼッタが首を傾げれば、ユーリはフォークを持った手をとめた。

 少しだけフードが捲れて、彼の隠していた綺麗な顔が露わになった。紫色の瞳がまっすぐにロゼッタを見つめている。


「不作が続くなら、天候だけのせいじゃない。たいてい、上流側の領が水を引きすぎて、下流に回らなくなっていることが多いです。男爵領は、川の下流側ですよね。なら、領主同士で取水の取り決めを結び直さないと、来年も再来年も――」


 そう言いかけて、ユーリは、はっと口をつぐんだ。

 慌ててフードを目深に下ろし、また背を丸めて小さくなる。


「す、すみません。出来損ないの僕なんかが、知った風なことを……」


 ロゼッタは目を丸くした。


(……今のって?)


 引きこもりだと言っていた人の口から、どうしてそんな領主のような言葉が出てくるのだろうと疑問に思ったけれど。


 ユーリはもう、すっかり縮こまってしまっていて、これ以上は訊いてくれるな、という顔でロゼッタを見つめていた。


(なんでユーリ様は、こんなに自信が無いんだろう)


 きっと、彼は自分で思っているよりもずっと優秀なはずなのに。

 ロゼッタは姿勢を正して、改まって切り出した。


「ユーリ様。この前は、ご自分がいかにダメか、ってことばかり熱心に教えてくださいましたけど」

「う……」

「そもそも、この婚約のお話は、どなたが決められたんですか?」


 ユーリはしばらく、もごもごと口の中で言葉を探したあと、ぽつぽつと話しはじめた。


「この婚約を決めたのは、僕の父です。家に居ても邪魔だからと……」

「お父様が……」


 格下の家では、婚約を受け入れるしかない。ユーリは体良く追い出されたということだ。


「は、はい。それで……婚約破棄の件は、その、兄上から、頼まれて」

「お兄様から?」


 ユーリはこくりとうなずいた。


 サルヴィア家の長男が優秀であることは、田舎の令嬢であるロゼッタの耳にも届いていた。


 なんでも、若くして領地経営まで完璧にこなす天才で、当主である父親も領地のことはすっかり長男任せなのだとか。


 そんな優秀な人が婚約破棄を提案したのだ。彼なりの考えがあるのかもしれないが。


「兄上の言うことは、もっともなんです。僕は人と話すのが苦手で。いくら厄介払いとはいえ、こんな僕を、他の家に出すわけにはいかないって。……ほんと、その通りで」


 ユーリは、まるで明日の天気でも告げるみたいに、淡々と「自分は出来損ないだ」と言う。それが当たり前のことだと、心の底から信じきっているみたいに。


「誰よりも僕自身が、この婚約は無しにした方がいいと思っています。キミは、こんなに優しくて、お菓子だって、こんなにおいしくて。だから、その、僕なんかじゃなくて、もっとちゃんとした人と――」


 慣れない外に出て、こんな田舎にある男爵家の戸を叩いて、しどろもどろになりながら、それでも、相手のためを思って婚約破棄を願い出る。


 それがこの人なりの精一杯の誠実さなのだと、ロゼッタには分かってしまった。


「……ユーリ様って」

「は、はい」

「お優しいんですね」


 その瞬間、ユーリが大きく息を呑む気配がした。


「な、なっ、ぼ、僕が、優しい? いやいやいや、そんなことは、ぜ、全然なくて、僕はただの、引きこもりで、優しいなんてそんな、生まれてこのかた言われたことが――」


 また早口の発作が始まって、ロゼッタはこらえきれずに頬をゆるめた。

 梨のパイを、彼の皿にもう一切れ、そっと足してやりながら告げる。


「……ごめんなさい、もう少しだけ、婚約破棄は考えさせてください」


 ロゼッタがそう言えば、ユーリが遠慮がちに顔を上げる。


「で、では、またお返事を聞きに来てもいいでしょうか――その、またキミのお菓子も食べたくて……」


 そう言ったあと、ユーリは「ハッ」と声を出したかと思うと、雷に打たれたかのようにテーブルに頭を打ち付け始めた。


「……ご、ごめんなさい気持ち悪いですよね!」

「いいえ!」


 ロゼッタの声が大きく響いた。


 気持ち悪くなんかない。

 貴方は、自分で思ってるよりずっとずっと素敵なのにと言いたかったけれど、きっと今の彼に告げたところで、否定されるだけだから。


 だから代わりに、精一杯の声で告げた。


「ぜひ、また来てください!」



 ◇



 それから、ユーリは何度も男爵家を訪れるようになった。


 バターたっぷりのマドレーヌに、カスタードを詰め込んだシュークリーム、木の実がぎっしりのタルト。

 どれも、ユーリは美味しそうに食べながら、少しずつ心を開いてくれた。


 相変わらず自分を卑下してばかりだけれど、実家のことなんかをぽつりぽつりと話してくれるようになって、ロゼッタもまた彼の話を聞くのが楽しみになっていった。



 そして、次にユーリが訪ねてくる日、ロゼッタは両親にも家にいてもらうことにした。


「あなたが心待ちにしている人を、一度ちゃんと紹介してちょうだい」と母に言われたときは、少し顔が熱くなったけれど。


 その日の夕方、約束の時刻きっかりに、ユーリはやって来た。


「は、はじめまして。ユーリ・サルヴィアと、申します」


 両親を前にして、ユーリはがちがちに緊張していた。

 さすがにフードこそ被っていないものの、長い前髪で顔を半ば隠し、視線はずっと足元をさまよっている。


「いやあ、よく来てくれたね! 狭い家だが、料理だけはうまいんだ。うちのママは料理の天才なんだよ」

「やだわ、パパったら!」


 ロゼッタの両親は、初対面のユーリにも昔からの知り合いのように気さくに話しかけた。母は「たくさん召し上がってね」とユーリの取り皿に料理を盛っていく。


「ユーリ様。どうぞ、遠慮なさらず」


 ロゼッタが促すと、彼はようやく、おずおずとスプーンを手に取った。

 まるで、誰かに許しを請うみたいな顔である。


「い、いただきます……」


 ごろりと大きな根菜が入った母の田舎風シチューをひとくち食べるなり、ユーリの目の色が変わる。「パンを浸すと、もっとおいしいですよ」とロゼッタが囁けば、ユーリは言われるがまま千切ったパンを浸し、そのまま夢中で頬張りはじめた。


「お、おいしい……! ハーブがきいてるのに、どこか素朴で、こ、これはきっと、家庭でずっと受け継がれてきた味だと思――」


 ユーリは、はっと我に返って、耳まで真っ赤にしてうつむいたけれど。


「良い食べっぷりじゃないか」

「そんなに褒められたら、照れるわぁ」


 この食卓では、誰も彼を馬鹿にしない。

 両親は大げさなくらいの相槌で話を聞いて、ユーリも戸惑いながら、少しずつ肩の力を抜いていくようだった。


(この人は、きっと)


 家庭の温かさを、知らずに生きてきたのだろうとロゼッタは思った。


 誰かと一緒にごはんを食べて、笑って、他愛ない話をする団らんは素敵なんだと知ってもらえたら、こんなに嬉しいことはない。


 胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛い。この婚約をどうするか――答えなら、とっくに出ていた。


「あのね、ユーリ様」

「は、はい」

「わたし、婚約は破棄したくありません」


 ユーリの動きが止まった。

 スプーンを持ったまま、信じられないものを聞いたという顔で、ロゼッタを見つめる。


「な……っ、で、でも、僕は、その、こんな、出来損ないで!」

「出来損ないなんかじゃありません。わたしは、ユーリ様と一緒にいたいんです。これからも」


 ロゼッタがまっすぐ言い切ると、ユーリの目が、みるみる潤んでいった。


「ユーリくん」


 そこへ、父が穏やかに声をかけた。


「うちは見ての通りの貧乏男爵家だ。立派なものは何もない。だがね、家庭は温かいのが取り柄でね」


 父は、にっと笑った。


「よかったら、私たちと暮らさないか。君を歓迎するよ」


 ユーリの唇がわなないて声にならない。前髪の奥から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「ぼ、僕、なんかを……いいん、ですか」

「もちろん。あなたみたいないい子、大歓迎よ」


 ユーリは、両手で顔を覆って肩を震わせた。

 温かくて幸せな食卓を知って欲しい。ずっと、こうしていられたらと思った。


 なのに。その団らんを、引き裂くように。

 玄関の戸が乱暴に蹴り開けられた。




「――ここにいたのか、ユーリ」




 冷たい声が、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。


 ユーリの顔から、たった今こぼれたばかりの涙が一気に引いていった。震える声で、彼は口を開く。


「……兄上、どうして、ここに」


(この人が、サルヴィア家の長男……)


 仕立てのいい外套。

 ぴっちりと整えられた髪。

 ユーリとよく似た顔立ちのはずなのに、そこに浮かぶ表情は、氷のように冷たかった。


「婚約破棄の話をつけてこいと言っただけだろう。一体いつまで時間がかかっているんだ」


 兄の視線が、部屋を一巡した。


 古びた家具。繕った跡のあるテーブルクロス。質素な料理の並んだ食卓。

 その一つひとつを値踏みするように眺めて――鼻で笑った。


「これはこれは。ずいぶんと……慎ましい暮らしだ」


 ロゼッタの両親が、すっと表情を硬くする。

 それでも兄は構わず続けた。


「爵位だけは一応あるんだな。しかし、これはひどい。我がサルヴィア家の人間が、こんなあばら家の食卓につくとは。みっともないな」

「……っ」


 父は何か言い返そうとしたけれど、母が止めた。相手は伯爵家の次期当主なのだから。


 にやりと笑った彼は、ロゼッタを一瞥する。


「お前がユーリの婚約者か。なるほど、こんな貧乏くさい娘なら、出来損ないのお前にはぴったりだ」


 ロゼッタは唇を噛んだ。


 自分が何を言われても構わない。貧乏なのは本当のことだ。けれど、優しい両親まで、そしてユーリまで馬鹿にされるのは、どうしても許せなかった。


 ロゼッタが口を開きかけた、その時だった。


「――やめてください」


 ユーリが、椅子から立ち上がっていた。

 いつも俯けていた顔を上げて前髪を掻き分ける。露わになったアメジストの瞳には、強い意志が宿っていた。


「ユー、リ……?」


 先程まで、大声を上げていた兄が初めてたじろいだ。


「彼らを侮辱するのはやめてください。撤回を」

「な……っ、なんだと? お前、誰に向かって口を!」

「この方たちは、僕に生まれて初めて優しさをくれた人たちです。兄上たちが、一度もくれなかったものだ!」


 ユーリは、ロゼッタと両親をゆっくりと見たあと、まっすぐに兄へ向き直る。




「僕は、婚約破棄はしません。家にも、もう戻りません。――兄上の代わりに領地を回すことも、二度としません」




 その瞬間、兄の顔色がさっと変わった。


「は……っ、はあ? お前、何を言って!」

「兄上が僕に押し付けた仕事のことです。兄上は、今年の収穫がどれだけか、借り入れの返済がいつ来るのか、答えられますか」


 そこでようやく、ロゼッタはすべてを理解した。


 優秀なのは、ユーリのほうだったのだと。


 ユーリの兄は、ずっと弟に仕事を押し付けて、自分の手柄にしてきたのだ。だから、ユーリの父が決めたこの婚約も、兄にとっては都合が悪かった。


 ユーリが婿入りして家を出てしまえば、領地を回す者がいなくなり、いずれ無能が露呈する。


 だから、兄は弟に「婚約破棄してこい」と命じたのだろう。体のいい働き手を、屋敷に縛りつけておくために。


「……っ、ふ、ふざけるな! お前なんかいなくたって、領地は回る!」


 兄の額に、脂汗が滲んでいた。

 彼は追い詰められてなお、認めることができなかった。


「優秀な長男」でいるために。出来損ないの弟に、家が支えられていたなどと――そんな真実、口が裂けても言えない。プライドがそれを許さない。


「……そうですか」


 ユーリは目を伏せた。


「なら、どうぞ。ご自分で仕事を回してください」


 兄がぐっと言葉に詰まる。

 顔を真っ赤にして、わなわなと震えたあと、ぱっと踵を返した。


「……っ、勝手にしろ! 二度と、サルヴィアの家には帰ってくるな!」


 捨て台詞を残して、来たときと同じように乱暴に戸を叩きつけて去っていく。


 呆気にとられてロゼッタが振り返ると、


「慣れないことはするもんじゃないですね」


 口から魂が抜けたような顔で、ユーリが情けない笑みを浮かべていた。


 ロゼッタは笑った。



 ◇



 それから、数ヶ月が過ぎた。

 サルヴィア伯爵家は、ずいぶんと荒れているらしい。


 領地経営が上手くいかず、借金の催促状ばかりが届くのだという。優秀なはずの長男は、何ひとつ満足にさばけず、当主である父親に、こっぴどく叱責されているのだとか。


 いったい、誰が仕事をしていたのか。


 今ごろになって、ようやく思い知っているのだろう。けれど――もう、遅い。




 いっぽう、男爵家の厨房は、今日も賑やかだった。


「ロゼッタさん、これ、混ぜ方はこれで合ってますか」

「力を入れすぎです。もっと、優しく、さっくりと」

「さ、さっくり……。むずかしいな」


 粉だらけのエプロンをつけたユーリが、ボウルを抱えて真剣な顔で生地と格闘している。


 男爵家で暮らすようになってから、ユーリはこうして、ロゼッタと並んで厨房に立つのが日課になっていた。食べる専門だったはずの彼は、今では、自分で作るほうにすっかり夢中だ。


「焼き上がりはまだかな。あ、いや、急かしてるわけじゃなくて、その、楽しみで」

「ふふ。もうすぐですよ」


 オーブンの前にしゃがみこんで、中をじっと見つめるユーリの横顔は、出会った頃とはまるで別人のようだった。


 もう顔を隠すこともない。前髪の奥のまっすぐな目は、いつもキラキラと輝いている。


「そういえば、お父様が言ってました。ユーリ様が、うちの領の水路を見直してくれたおかげで、今年の作付けはずいぶん楽になりそうだって」

「あ……。お、お役に立てたなら、よかったです」


 ユーリは、照れたように頭をかいた。


 父は彼を頼りにし、母は彼を可愛がり、領民たちも新しくやって来た聡明な青年を慕いはじめていた。


「あっ、焼けた!」


 ふわりと、甘い香りが厨房いっぱいに広がった。

 ユーリが、いそいそと天板を取り出す。少しいびつだけれど、こんがりときつね色に焼けたクッキーだ。


「ど、どうぞ。ロゼッタさんに、いちばん最初に食べてほしくて」


 差し出されたそれを、ロゼッタはひとつつまんだ。


「……あ。おいしい」


 それは、初めて彼に振る舞ったクッキーの味によく似ていた。きっと、何度も思い出しながら練習したのだろう。


「ほんとですか! やった……っ」


 ユーリが、ぱあっと顔を輝かせる。その表情を見たロゼッタは、溢れてくる気持ちが抑えられなくなった。


「ユーリ様」

「は、はい?」

「好きです」


 ロゼッタの言葉に、ユーリは一瞬きょとんとして。

 それから、口をいっぱいに開けて笑顔を浮かべるのだ。



「……僕も、ロゼッタさんのことが大好きです!」



 窓の外から春の日差しがやわらかく差し込んでいた。


 まるで、ふたりのこれからを祝福するみたいに。




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この先も異世界恋愛のお話を届けてまいりますので、作者リンクから「♡お気に入り」を押して登録いただけるとうれしいです!


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― 新着の感想 ―
久しぶりにケーキが焼きたくなりました。 パイナップルとキュウイはそのまま食べてしまうから、買い物に行かなければ❗️ 仕事も出来て料理にも興味を持てる男性、ステキ。
ほっこり心が温まる、素敵なお話をありがとうございます(*˘︶˘人)
ヒロインの家からしたらホント良い婚約 面白かったです
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