屋上の女
廃病院に行こうと言い出したのは、拓也だった。
「出るらしいぜ。屋上から飛び降りた女の幽霊」
そう言って笑う拓也の横顔を、俺は助手席から見ていた。
時刻は夜の十一時を少し過ぎた頃だった。山道に入ってから、街灯はほとんどなくなっている。車のヘッドライトだけが、濡れたように黒い道路を白く照らしていた。
後部座席では、美咲がスマホを握りしめている。
「本当に行くの? もう十分怖いんだけど」
「出た、ビビり」
拓也が笑う。
「ビビりじゃないし。ただ、こういう場所って普通に危ないじゃん。床抜けたり、不審者いたり」
「幽霊より現実的だな」
俺が言うと、美咲はむっとした顔をした。
「悠真も笑ってるけど、あんただって怖いんでしょ」
「怖くない」
「嘘だ」
「ちょっと嫌なだけ」
「それ怖いって言うんだよ」
美咲はそう言って、窓の外へ目を向けた。
車内には妙な明るさがあった。怖いからこそ笑う、みたいな空気だ。大学のサークル仲間三人で、深夜に車を出して心霊スポットへ向かう。馬鹿みたいだと思う。でも、馬鹿みたいなことをするにはちょうどいい年齢でもあった。
廃病院は、山の中腹にあった。
昔は結核患者の療養施設だったとか、院長が患者を殺していたとか、子供が屋上から飛び降りたとか、噂はいくつもあった。どれが本当なのかは知らない。ネットで調べても、同じような話が少しずつ形を変えて載っているだけだった。
ただ一つ共通しているのは、そこに行くと変になる、という話だった。
殴り合いになったカップル。
友達を置いて逃げた大学生。
帰ってきてから自殺した男。
拓也はそれを面白がっていた。
「人が変になるってのがいいよな。幽霊に首絞められるとかより、リアルで」
「リアルだから嫌なんだけど」
美咲が呟く。
やがて道の先に、黒い建物が見えた。
木々の間に、灰色の壁が沈んでいる。窓ガラスはほとんど割れ、屋上の手すりは歯抜けみたいに欠けていた。病院というより、巨大な死骸に見えた。
拓也が車を止める。
「着いた」
エンジンが切れると、急に静かになった。
虫の声も、風の音もない。
ただ、耳の奥が詰まるような静けさだけがあった。
「……帰らない?」
美咲が言った。
「来たばっかだろ」
拓也は懐中電灯を二本取り出し、一本を俺に渡した。
「悠真、先頭な」
「なんで俺」
「一番冷静そうだから」
「そういうの、だいたい最初に死ぬやつだろ」
「じゃあ俺が先頭行くわ」
拓也は笑って歩き出した。
俺と美咲も車を降りる。
夜の空気は妙に冷たかった。五月の終わりにしては、肌に刺さるような寒さだった。
病院の入口には、錆びたチェーンが垂れていた。扉は片方だけ外れかけていて、人が通れる隙間がある。
拓也がそこをくぐろうとした時だった。
「…待って」
美咲が小さく言った。
俺たちは振り返る。
美咲は病院の右側、草の伸びた駐車場の奥を見ていた。
「今、誰かいた」
拓也の顔から、少しだけ笑みが消えた。
「人?」
「わかんない。でも、白っぽい服の…」
俺は懐中電灯を向けた。
光の輪が草むらをなぞる。
錆びた車止め。割れた看板。膝まで伸びた雑草。
その奥に、女の子が座っていた。
「…え」
美咲が俺の腕を掴む。
女の子は、膝を抱えてうずくまっていた。小学生ぐらいだろうか白いブラウスに、紺色のスカート。長い髪が顔にかかっていて、表情は見えない。
その姿は、あまりにも場違いだった。
生きている人間に見えなかった。
拓也が声を潜める。
「おい、あれ…」
誰もすぐには動かなかった。
幽霊なんて信じていない。そう思っていたはずなのに、目の前にそれらしいものがあると、足が動かなかった。
女の子が、ゆっくり顔を上げる。
「……たすけて」
掠れた声だった。
美咲が息を呑む。
「生きてる…?」
女の子は泣いていた。
顔は青ざめ、唇は震えている。目元は赤く腫れ、頬には涙の跡があった。
「友達に……置いていかれて……」
その言葉を聞いて、ようやく俺の足が動いた。
「大丈夫?」
近づくと、女の子はびくっと肩を震わせた。
「ごめん。怖がらせるつもりはない」
俺は少し距離を置いてしゃがんだ。
「俺たちも肝試しに来ただけ。怪しい者じゃない。名前は?」
女の子はしばらく黙っていたが、やがて小さく答えた。
「……綾乃」
「綾乃ちゃん?」
頷く。
「友達は?」
「中に……入って……私、怖くて……そしたら、みんな走って置いてかれて……」
声が震えている。
「スマホは?」
「電池、切れて……」
拓也が小さく舌打ちした。
「ひでえ友達だな」
美咲も近づいて、心配そうに声をかけた。
「怪我してない?」
「うん……」
「車あるから、警察呼ぼう。ね?」
綾乃は何度も頷いた。
俺は立ち上がり、拓也を見る。
「今日はやめよう」
「だな。さすがに」
拓也も頷いた。
その時、病院の中から音がした。
がしゃん、と何かが落ちる音。
俺たちは一斉に入口を見た。
「…友達かも」
綾乃が言った。
その声には、怯えと期待が混じっていた。
「え…、まだ中にだれかいるの?」
「でも、警察呼んだ方がいいだろ」
俺が言うと、綾乃は首を横に振った。
「お願い…見てきて…。もし、怪我してたら…」
拓也は面倒そうに髪をかいた。
「ちょっとだけ見てくるか」
「拓也」
「大丈夫だって。入口付近だけ。女の子置いて逃げた奴らなら、一発文句言ってやる」
美咲は嫌そうな顔をした。
「私、綾乃ちゃんと車で待ってる」
綾乃は俺の服の裾を掴んだ。
「…一緒にいて」
その手は冷たかった。
「俺も拓也について行くから美咲といるんだ」
諭すように言うが、綾乃は首を振って拒否する。
「お前は車で待ってるんだったよな?」
拓也が美咲に半笑いで言う。
「ちょっと…!1人にしないでよ!」
「ああ、1人でいるのはよくない」
俺が言うと、拓也が笑った。
「急に映画の生存者みたいなこと言うなよ」
それでも、誰も一人で残るとは言わなかった。
病院の中は、外よりさらに寒かった。
懐中電灯の光が、剥がれた壁紙と散乱したカルテらしき紙を照らす。床には割れたガラスが落ちていて、歩くたびに小さく鳴った。
入ってすぐのロビーには、長椅子が倒れていた。受付の窓口は割れていて、奥は真っ暗だ。
「おーい、誰かいんのかー」
拓也が声を張る。
返事はない。
「やめなよ…」
美咲が震えた声で言う。
綾乃は俺の後ろに隠れていた。時々、小さく鼻をすする音がする。
「どっち行ったの?」
俺が聞くと、綾乃は奥の廊下を指差した。
「あっち…だったと思う」
廊下は長く、左右に病室が並んでいる。奥の方は闇に溶けて見えない。
拓也が先に進む。
その背中を見ながら、俺はなんとなく嫌な感じがした。
病院が怖いのではない。
拓也の足音が、妙に大きく聞こえるのが嫌だった。
まるで、この建物の中にいる何かに、俺たちの位置を知らせているみたいだった。
「ねえ」
突然、綾乃が言った。
声が少し変わっていた。
さっきまでの震えた声ではない。薄く笑うような声だった。
「先頭歩いてる人、怖いのかな」
拓也が振り返る。
「は?」
綾乃は俺の後ろに隠れたまま、拓也を見ていた。
涙で濡れた目元のまま、口元だけが笑っていた。
「怖いから、大きな声出してるの?」
空気が止まった。
美咲が「綾乃ちゃん?」と戸惑った声を出す。
拓也の眉がぴくりと動いた。
「…何?」
「強そうに見せないと、舐められちゃうもんね」
その言い方は、明らかに人を馬鹿にしていた。
俺は一瞬、聞き間違いかと思った。
「友達にもそうやって、偉そうにしてるの?」
「おい」
拓也の声が低くなる。
綾乃はびくっと肩を震わせた。
次の瞬間には、もう泣きそうな顔になっていた。
「ご、ごめんなさい…私、そんなつもりじゃ…」
「今、言ったよな」
「違うの…怖くて、変なこと言っちゃって…」
拓也が近づく。
俺は間に入ろうとした。
「拓也、やめろ」
「いや、こいつ今、完全に俺のこと馬鹿にしただろ」
「怯えてるんだよ」
「怯えてたら何言ってもいいのかよ」
拓也が綾乃の腕を掴んだ。
その瞬間、綾乃は悲鳴を上げた。
「痛い! やめて!」
大げさなほど怯えた声だった。
拓也の顔がさらに歪む。
「そんな強く掴んでねえだろ」
「やだ…叩かないで…!」
「叩いてねえよ!」
綾乃は震えながら、拓也を見上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
でも、俺には見えた。
ほんの一瞬、笑ったのを。
「そういう顔、怖い……」
綾乃が言った。
「殴りたいんでしょ……? 私みたいなのなら、言い返さないから……」
拓也の手に力が入る。
「お前さあ…」
「拓也!」
俺が腕を掴むと、拓也は乱暴に振り払った。
「なんなんだよ、こいつ!」
美咲が叫ぶ。
「やめなよ! 相手女の子だよ!」
「うるせえな!」
拓也が振り返る。
その顔を見て、美咲が一歩下がった。
拓也自身も、自分の声に驚いたようだった。
「…悪い」
拓也は綾乃の腕を離した。
綾乃はその場にへたり込む。
「ごめんなさい…ごめんなさい……」
泣きながら謝る姿は、本当に痛々しかった。
だけど、さっきの笑顔が頭から離れなかった。
その時、奥の病室から、また音がした。
今度は、何かを引きずるような音。
拓也が舌打ちした。
「もう帰ろうぜ」
「うん、帰ろ」
美咲が即答する。
俺も頷いた。
だが、ロビーへ戻ろうとした時、入ってきたはずの扉が閉まっていた。
拓也が駆け寄る。
「は? なんで」
扉は鍵がかかってないはずなのに、びくともしなかった。
拓也が体当たりする。
鈍い音が廊下に響く。
「開かねえ!」
窓も力強く開けようとするがびくともしない、コンクリートの破片をぶつけても割れない。
すでに割れている窓には鋭いガラス片が残っている。
美咲の顔が青ざめる。
「嘘でしょ……」
俺はスマホを取り出した。圏外だった。
さっきまでは電波が一本立っていたはずなのに。
「裏口探そう」
俺が言うと、拓也が苛立ったように頷いた。
俺たちは奥へ進むしかなかった。
病院の中は、歩くほどに空気が重くなった。
誰も喋らない。
綾乃はずっと俺の近くにいた。さっきのことが嘘のように、怯えきった顔で俺を見上げてくる。
「ごめんなさい…私のせいで……」
「綾乃ちゃんのせいじゃない」
俺が言うと、彼女は小さく頷いた。
その手が俺の袖を掴む。
守らなきゃ、と思った。
こんな場所で、こんなに怯えている子を置いていけない。
その感情は自然なもののはずだった。
なのに、胸の奥で別の何かも動いていた。
自分だけを頼っている。
俺だけを見ている。
そんな考えが一瞬浮かんで、俺は自分で気持ち悪くなった。
「階段がある」
美咲が言った。
廊下の奥に、上へ続く階段があった。裏口を探すなら一階を回るべきだが、廊下の先は崩れた棚で塞がれている。
「二階から別の階段に出られるかもな」
拓也が言った。
階段を上がる途中、電灯が一つ、天井からぶら下がっていた。
もちろん電気など通っていないはずなのに、その蛍光灯が一瞬だけ点滅した。
ぱち。
白い光が病院を照らす。
その一瞬、階段の踊り場に人影が見えた気がした。
美咲が悲鳴を上げる。
「今いた!」
「見間違いだ!」
拓也の声は怒鳴り声に近かった。
「でも!」
「うるせえ!」
美咲が黙る。
拓也は明らかに苛立っていた。怖がっているのを隠すために怒っている。そう見えた。
そして、それを綾乃も見ていた。
「怒鳴るんだ」
彼女が小さく呟いた。
拓也の足が止まる。
俺は反射的に振り返った。
綾乃は美咲を見ていた。
「女の子が怖がってるだけなのに」
「…お前、黙れよ」
拓也が言う。
綾乃は俺の背中に隠れながら、続けた。
「怖いね。美咲さん」
美咲が戸惑った顔をする。
「え…」
「こういう人って、彼女にも怒鳴るんだろうね」
「おい!」
拓也が階段を下りてくる。
綾乃は震えた。
「ごめんなさい…」
けれど、その声は笑うのを堪えていた。
「ごめんなさい、怒らせるつもりじゃなかったの……本当のこと言っただけで……」
拓也の顔が変わった。
怒りが、恐怖を塗りつぶしていく。
俺は拓也を止めようとした。
だが、それより先に美咲が前に出た。
「拓也、やめてって!」
「お前もさっきからうるせえんだよ!」
拓也が美咲を突き飛ばした。
ほんの少しの力だったのかもしれない。
でも、階段の途中だった。
美咲の体が後ろに傾く。
俺は手を伸ばした。
届かなかった。
美咲は短い悲鳴を上げて、階段を転げ落ちた。
鈍い音が何度も響いた。
最後に、ぐしゃり、という嫌な音がした。
「美咲!」
俺は駆け下りた。
美咲は階段の下で動かなかった。首が不自然な角度に曲がっている。目は開いていたが、焦点が合っていない。
「嘘だろ…」
拓也が呟く。
「俺、そんな強く……」
綾乃の泣き声がした。
「いや……いやぁ……」
彼女はしゃがみ込み、両手で顔を覆っていた。
「死んじゃった……美咲さん、死んじゃった……」
その声は悲痛だった。
でも、指の隙間から覗く口元が、笑っているように見えた。
俺は見なかったことにした。
そうしないと、何かが壊れそうだった。
拓也は美咲のそばに膝をついたまま、震えていた。
「俺じゃない…事故だ……」
「拓也」
「事故だろ! こいつが変なこと言うから…!」
拓也が綾乃を睨む。
綾乃はびくりと震え、俺の後ろに隠れた。
「ごめんなさい…私が悪いの…」
「そうだよ!」
拓也が叫ぶ。
「お前が変なこと言うから!」
その声に、綾乃はまた泣いた。
泣きながら、か細く言った。
「でも、押したのはあなたですよね……?」
拓也が固まった。
俺の背筋が冷える。
「違う…違う違う違う!」
拓也は立ち上がり、髪をかきむしった。
「ふざけんな…ふざけんなよ…!」
「警察に言ったら、信じてもらえるかな」
綾乃が言った。
今度ははっきり笑っていた。
「女の子を階段から突き落としました、って」
拓也が走り出した。
綾乃に向かって。
俺は止めようとしたが、拓也の肩が俺を弾き飛ばした。
綾乃は逃げた。
怯えていたはずなのに、妙に足取りが軽かった。廊下の角を曲がり、暗闇の中へ消える。
「待て!」
拓也が追う。
「拓也、やめろ!」
俺も追った。
美咲を置いていくことに、胸が潰れそうだった。
でも、今拓也を止めなければ、もっと悪いことになる。
そう思った。
廊下の奥には手術室があった。
扉は半開きで、中からかすかな音が聞こえる。
鼻歌だった。
子供のような、明るい鼻歌。
拓也が扉を蹴り開けた。
中は懐中電灯の光が届かないほど暗かった。
「出てこい!」
返事はない。
俺が追いついた時、拓也は手術台の近くまで進んでいた。
「拓也、もうやめよう。美咲を――」
「うるせえ!」
振り返った拓也の顔は、別人みたいだった。
涙と汗でぐちゃぐちゃになっている。
「俺は悪くない…俺は悪くないんだよ…!」
「わかってる。だから落ち着け」
「わかってねえだろ!」
その時、手術室の奥から綾乃の声がした。
「かわいそう」
拓也が振り返る。
綾乃は棚の影に立っていた。
涙の跡が残った顔で、にっこり笑っている。
「臆病な人って、大変だね」
「黙れ」
「怒鳴って、押して、殺して、それでも自分は悪くないって言わなきゃいけないんだもん」
「黙れ!」
「本当はわかってるんでしょ」
綾乃は一歩近づいた。
「美咲さんの首が変な方向に曲がった時、ちょっとすっきりしたんじゃない?」
拓也が吠えるように叫んだ。
彼は近くにあった金属の器具を掴み、綾乃へ向かって振り上げた。
だが、綾乃は逃げなかった。
むしろ、ほんの少し前に出た。
拓也の足元で、何かが動いた。
床に散らばっていたコードだった。
拓也の足が絡まる。
体勢を崩した拓也の手から、金属器具が滑り落ちる。
次の瞬間、拓也は手術台の角に喉を打ちつけた。
嫌な音がした。
拓也は床に倒れ、口をぱくぱくさせた。
血の泡が唇に浮かぶ。
「拓也!」
俺は駆け寄った。
彼は俺を見ていた。
助けを求めるように。
だが、声は出なかった。
喉の奥から、ひゅうひゅうと空気の漏れる音だけがした。
数秒後、拓也の体から力が抜けた。
静かになった。
俺はしばらく動けなかった。
美咲が死んだ。
拓也も死んだ。
数分前まで、車の中で笑っていた二人が。
「いや…」
背後で、綾乃が泣き出した。
「いや…怖い…怖いよ…」
俺は振り返った。
綾乃はその場に座り込んでいた。両手で口を押さえ、涙を流している。
その姿を見た瞬間、俺の中で何かが鈍く軋んだ。
この子のせいだ。
そう思った。
でも同時に、違うとも思った。
押したのは拓也だ。
追いかけたのも拓也だ。
死んだのは事故だ。
綾乃はただ、そこにいただけだ。
ただ、少し変なことを言っただけ。
俺は自分にそう言い聞かせた。
「行こう」
俺は綾乃に手を差し出した。
「ここを出よう」
綾乃は怯えた目で俺を見た。
「私…私のせいで…」
「違う」
「でも…」
「違うって言ってるだろ」
自分でも驚くほど強い声だった。
綾乃が肩を震わせる。
俺はすぐに後悔した。
「ごめん。怖がらせるつもりじゃなかった」
綾乃は小さく首を横に振った。
「悠真さんは、優しいね」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなった。
こんな状況で、そんな感情を抱いた自分が嫌だった。
俺たちは手術室を出た。
どこかに出口があるはずだった。
病院の中はさっきよりも暗くなっている気がした。懐中電灯の光が弱くなっている。電池が切れかけているのかもしれない。
廊下を歩く間、綾乃はずっと俺の腕にしがみついていた。
柔らかい重み。
震える呼吸。
俺だけが頼りなのだと伝わってくる。
美咲の死体が頭をよぎった。
拓也の血の泡が浮かんだ口も。
それなのに、俺は綾乃のことを考えていた。
この子を守らなきゃ。
この子を外に出さなきゃ。
この子は俺がいないと駄目なんだ。
そんな考えが、頭の中を何度も回った。
二階の奥に、非常階段があった。
扉を開けると、外気が流れ込んできた。
けれど階段は途中で崩れていて、下へは降りられなかった。
「上に行ける」
綾乃が言った。
非常階段は屋上へ続いていた。
屋上から別の階段に出られるかもしれない。そう思って、俺たちは上がった。
屋上は広かった。
夜空には月が出ていない。遠くに街の明かりが見える。こんなに近くに人の生活があるのに、ここだけ世界から切り離されているようだった。
屋上の端には、欠けた手すりがあった。
噂にあった場所だ。
屋上で女が飛び降りたという。
綾乃は俺の腕を離し、ふらふらと歩いた。
「危ない」
俺が言うと、彼女は振り返った。
その顔に浮かんでいたのは、見覚えのある笑みだった。
「悠真さん」
声も変わっていた。
甘く、薄く、人を小馬鹿にするような声。
「本当は、嬉しかった?」
「何が」
「二人がいなくなって」
俺は息を止めた。
「やめろ」
「だって、私と二人きりになれたもんね」
綾乃はゆっくり近づいてくる。
「最初から、私のこと見てたでしょ。かわいそうな子だなって。守ってあげたいなって。自分だけが助けてあげられるって」
「違う」
「そう思うの、気持ちよかった?」
頭の奥が熱くなる。
否定したいのに、言葉が出てこない。
綾乃は俺の目を覗き込んだ。
「臆病だから、私みたいな大人しそうなの狙ってるんでしょ?」
胸の奥を、何かで引っ掻かれたようだった。
「……黙れ」
「美咲さんみたいに言い返してくる女の子は怖いもんね」
「黙れ」
「拓也さんみたいな人には勝てないもんね」
「黙れって」
「だから、私みたいなのがいいんでしょ。泣いて、震えて、あなたにしがみつくような女の子が」
気づくと、俺は綾乃の肩を掴んでいた。
綾乃はびくっと震えた。
さっきまでの笑みが消える。
「ご、ごめんなさい…」
涙が目に浮かぶ。
「ごめんなさい、怒らせるつもりじゃ…」
その変わり身の早さに、吐き気がした。
「なんなんだよ、お前」
「怖い…ゆるして…」
「答えろ」
「ごめんなさい…」
綾乃は泣きながら、俺を見上げた。
その顔はひどく弱々しかった。
守りたくなる顔だった。
壊したくなる顔だった。
その二つの感情が、同時に湧いた。
俺は自分が何を考えているのかわからなくなった。
「悠真さん…助けて…」
綾乃が言った。
その声は本気で震えていた。
でも、次の一言ではまた笑っていた。
「ほら、そういう顔してる」
気づいた時には、俺の両手は綾乃の首にかかっていた。
細い首だった。
力を込めると、綾乃の目が見開かれた。
「っ……!」
彼女は俺の手を掴んだ。
爪が皮膚に食い込む。
「や、め……」
本当に苦しそうだった。
演技には見えなかった。
口が開き、空気を求めて喘ぐ。足が屋上の床を蹴る。涙が次々とこぼれる。
「たす、け…て……」
俺は止めようと思った。
止めなきゃと思った。
なのに、指に力が入る。
頭の中で、美咲の首が折れる音がした。
拓也の喉から漏れる空気の音がした。
綾乃の笑い声がした。
「やめ…ごめ、なさ…」
その声が、さらに何かを煽った。
かわいそうだと思った。
同時に、もっと苦しめたいと思った。
そう思った瞬間、自分が完全に壊れたのがわかった。
綾乃の抵抗が弱くなる。
指先から力が抜けていく。
目の焦点が合わなくなる。
やがて、彼女は動かなくなった。
俺は手を離した。
綾乃の体が屋上に崩れ落ちる。
白いブラウスが、闇の中でぼんやり浮かんでいた。
「……あ」
声が出た。
俺は自分の手を見た。
赤くなった指。
爪の跡。
俺が殺した。
俺が、首を絞めて殺した。
「違う…」
誰に言ったのかわからなかった。
「違う、違う、違う……」
膝から崩れ落ちる。
吐き気が込み上げた。
俺は優しい人間のつもりだった。
拓也とは違うと思っていた。
人を傷つけたりしないと思っていた。
でも、違った。
俺も同じだった。
少し言葉を向けられただけで、弱い相手を掴んで、泣いて謝る相手の首を絞めた。
俺は綾乃の死体を見た。
助けて、と言っていた顔が頭から離れない。
俺が殺した。
もう戻れない。
遠くでサイレンの音がした気がした。
幻聴かもしれない。
どちらでもよかった。
俺は立ち上がった。
屋上の端へ向かう。
手すりが欠けている場所。
下を覗くと、暗くて地面は見えなかった。
怖かった。
死にたくないと思った。
でも、生きていることの方がもっと怖かった。
後ろを振り返る。
綾乃は動かない。
当たり前だ。
俺が殺したのだから。
「ごめん」
誰に向けた謝罪なのか、自分でもわからなかった。
俺は一歩踏み出した。
体が宙に投げ出される。
落ちている間は、思ったより長かった。
風が耳元で鳴る。
病院の壁が流れていく。
次の瞬間、全身に凄まじい衝撃が走った。
音が消えた。
痛い。
痛い。
痛い。
息ができない。
体がどこを向いているのかわからない。手足の感覚も曖昧だった。ただ、痛みだけがあった。
死ねなかった。
即死できなかった。
俺は地面に叩きつけられ、壊れた体のまま、まだ生きていた。
視界の端に、病院の入口が見えた。
扉が開いて誰かが歩いてくる。
白いブラウス。
紺色のスカート。
長い髪。
綾乃だった。
首には、俺が絞めた跡などなかった。
彼女は軽い足取りで俺のそばまで来ると、しゃがみ込んだ。
俺は声を出そうとした。
出なかった。
綾乃は俺の顔を覗き込む。
その表情は、今までで一番楽しそうだった。
「私、暴力的な人きらーい」
明るい声だった。
友達に冗談を言うみたいな声。
綾乃はくすくす笑った。
それから立ち上がり、鼻歌を歌いながら歩き出した。
病院の駐車場を抜け、俺たちが乗ってきた車の横を通り過ぎる。
その足取りは軽やかで、楽しげだった。
俺は薄れていく意識の中で、その背中を見ていた。
何か言わなければと思った。
誰かに知らせなければと思った。
でも、口から漏れたのは、血の泡だけだった。
綾乃の鼻歌が遠ざかる。
夜の闇に溶けていく。
最後に、彼女が一度だけ振り返った。
そして、手を振った。
まるで肝試しを終えた帰り道みたいに。
俺の意識は、そこで途切れた。




