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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

屋上の女

作者: N
掲載日:2026/05/06

 廃病院に行こうと言い出したのは、拓也だった。


「出るらしいぜ。屋上から飛び降りた女の幽霊」


 そう言って笑う拓也の横顔を、俺は助手席から見ていた。


 時刻は夜の十一時を少し過ぎた頃だった。山道に入ってから、街灯はほとんどなくなっている。車のヘッドライトだけが、濡れたように黒い道路を白く照らしていた。


 後部座席では、美咲がスマホを握りしめている。


「本当に行くの? もう十分怖いんだけど」


「出た、ビビり」


拓也が笑う。


「ビビりじゃないし。ただ、こういう場所って普通に危ないじゃん。床抜けたり、不審者いたり」


「幽霊より現実的だな」


俺が言うと、美咲はむっとした顔をした。


「悠真も笑ってるけど、あんただって怖いんでしょ」


「怖くない」


「嘘だ」


「ちょっと嫌なだけ」


「それ怖いって言うんだよ」


美咲はそう言って、窓の外へ目を向けた。


 車内には妙な明るさがあった。怖いからこそ笑う、みたいな空気だ。大学のサークル仲間三人で、深夜に車を出して心霊スポットへ向かう。馬鹿みたいだと思う。でも、馬鹿みたいなことをするにはちょうどいい年齢でもあった。


 廃病院は、山の中腹にあった。


 昔は結核患者の療養施設だったとか、院長が患者を殺していたとか、子供が屋上から飛び降りたとか、噂はいくつもあった。どれが本当なのかは知らない。ネットで調べても、同じような話が少しずつ形を変えて載っているだけだった。


 ただ一つ共通しているのは、そこに行くと変になる、という話だった。


 殴り合いになったカップル。


 友達を置いて逃げた大学生。


 帰ってきてから自殺した男。


 拓也はそれを面白がっていた。


「人が変になるってのがいいよな。幽霊に首絞められるとかより、リアルで」


「リアルだから嫌なんだけど」


 美咲が呟く。


 やがて道の先に、黒い建物が見えた。


 木々の間に、灰色の壁が沈んでいる。窓ガラスはほとんど割れ、屋上の手すりは歯抜けみたいに欠けていた。病院というより、巨大な死骸に見えた。


拓也が車を止める。


「着いた」


 エンジンが切れると、急に静かになった。


 虫の声も、風の音もない。


 ただ、耳の奥が詰まるような静けさだけがあった。


「……帰らない?」


美咲が言った。


「来たばっかだろ」


 拓也は懐中電灯を二本取り出し、一本を俺に渡した。


「悠真、先頭な」


「なんで俺」


「一番冷静そうだから」


「そういうの、だいたい最初に死ぬやつだろ」


「じゃあ俺が先頭行くわ」


 拓也は笑って歩き出した。


 俺と美咲も車を降りる。


 夜の空気は妙に冷たかった。五月の終わりにしては、肌に刺さるような寒さだった。


 病院の入口には、錆びたチェーンが垂れていた。扉は片方だけ外れかけていて、人が通れる隙間がある。


拓也がそこをくぐろうとした時だった。


「…待って」


美咲が小さく言った。

俺たちは振り返る。


 美咲は病院の右側、草の伸びた駐車場の奥を見ていた。


「今、誰かいた」


拓也の顔から、少しだけ笑みが消えた。


「人?」


「わかんない。でも、白っぽい服の…」


俺は懐中電灯を向けた。

光の輪が草むらをなぞる。


 錆びた車止め。割れた看板。膝まで伸びた雑草。


 その奥に、女の子が座っていた。


「…え」


美咲が俺の腕を掴む。


 女の子は、膝を抱えてうずくまっていた。小学生ぐらいだろうか白いブラウスに、紺色のスカート。長い髪が顔にかかっていて、表情は見えない。


その姿は、あまりにも場違いだった。

生きている人間に見えなかった。


拓也が声を潜める。


「おい、あれ…」


 誰もすぐには動かなかった。


 幽霊なんて信じていない。そう思っていたはずなのに、目の前にそれらしいものがあると、足が動かなかった。


 女の子が、ゆっくり顔を上げる。


「……たすけて」


掠れた声だった。

美咲が息を呑む。


「生きてる…?」


 女の子は泣いていた。


 顔は青ざめ、唇は震えている。目元は赤く腫れ、頬には涙の跡があった。


「友達に……置いていかれて……」


 その言葉を聞いて、ようやく俺の足が動いた。


「大丈夫?」


近づくと、女の子はびくっと肩を震わせた。


「ごめん。怖がらせるつもりはない」


俺は少し距離を置いてしゃがんだ。


「俺たちも肝試しに来ただけ。怪しい者じゃない。名前は?」


 女の子はしばらく黙っていたが、やがて小さく答えた。


「……綾乃」


「綾乃ちゃん?」


 頷く。


「友達は?」


「中に……入って……私、怖くて……そしたら、みんな走って置いてかれて……」


声が震えている。


「スマホは?」


「電池、切れて……」


拓也が小さく舌打ちした。


「ひでえ友達だな」


 美咲も近づいて、心配そうに声をかけた。


「怪我してない?」


「うん……」


「車あるから、警察呼ぼう。ね?」


 綾乃は何度も頷いた。


 俺は立ち上がり、拓也を見る。


「今日はやめよう」


「だな。さすがに」


 拓也も頷いた。


 その時、病院の中から音がした。


 がしゃん、と何かが落ちる音。


 俺たちは一斉に入口を見た。


「…友達かも」


 綾乃が言った。


 その声には、怯えと期待が混じっていた。

 

「え…、まだ中にだれかいるの?」


「でも、警察呼んだ方がいいだろ」


 俺が言うと、綾乃は首を横に振った。


「お願い…見てきて…。もし、怪我してたら…」


 拓也は面倒そうに髪をかいた。


「ちょっとだけ見てくるか」


「拓也」


「大丈夫だって。入口付近だけ。女の子置いて逃げた奴らなら、一発文句言ってやる」


 美咲は嫌そうな顔をした。


「私、綾乃ちゃんと車で待ってる」


 綾乃は俺の服の裾を掴んだ。


「…一緒にいて」


 その手は冷たかった。


「俺も拓也について行くから美咲といるんだ」


 諭すように言うが、綾乃は首を振って拒否する。


「お前は車で待ってるんだったよな?」

 

 拓也が美咲に半笑いで言う。


「ちょっと…!1人にしないでよ!」


「ああ、1人でいるのはよくない」


 俺が言うと、拓也が笑った。


「急に映画の生存者みたいなこと言うなよ」


 それでも、誰も一人で残るとは言わなかった。


 病院の中は、外よりさらに寒かった。


 懐中電灯の光が、剥がれた壁紙と散乱したカルテらしき紙を照らす。床には割れたガラスが落ちていて、歩くたびに小さく鳴った。


 入ってすぐのロビーには、長椅子が倒れていた。受付の窓口は割れていて、奥は真っ暗だ。


「おーい、誰かいんのかー」


 拓也が声を張る。


 返事はない。


「やめなよ…」


 美咲が震えた声で言う。


 綾乃は俺の後ろに隠れていた。時々、小さく鼻をすする音がする。


「どっち行ったの?」


 俺が聞くと、綾乃は奥の廊下を指差した。


「あっち…だったと思う」


 廊下は長く、左右に病室が並んでいる。奥の方は闇に溶けて見えない。


 拓也が先に進む。


 その背中を見ながら、俺はなんとなく嫌な感じがした。


 病院が怖いのではない。


 拓也の足音が、妙に大きく聞こえるのが嫌だった。


 まるで、この建物の中にいる何かに、俺たちの位置を知らせているみたいだった。


「ねえ」


 突然、綾乃が言った。

 声が少し変わっていた。


 さっきまでの震えた声ではない。薄く笑うような声だった。


「先頭歩いてる人、怖いのかな」


 拓也が振り返る。


「は?」


 綾乃は俺の後ろに隠れたまま、拓也を見ていた。


 涙で濡れた目元のまま、口元だけが笑っていた。


「怖いから、大きな声出してるの?」


 空気が止まった。


 美咲が「綾乃ちゃん?」と戸惑った声を出す。


 拓也の眉がぴくりと動いた。


「…何?」


「強そうに見せないと、舐められちゃうもんね」


 その言い方は、明らかに人を馬鹿にしていた。


 俺は一瞬、聞き間違いかと思った。


「友達にもそうやって、偉そうにしてるの?」


「おい」


 拓也の声が低くなる。


 綾乃はびくっと肩を震わせた。


 次の瞬間には、もう泣きそうな顔になっていた。


「ご、ごめんなさい…私、そんなつもりじゃ…」


「今、言ったよな」


「違うの…怖くて、変なこと言っちゃって…」


 拓也が近づく。


 俺は間に入ろうとした。


「拓也、やめろ」


「いや、こいつ今、完全に俺のこと馬鹿にしただろ」


「怯えてるんだよ」


「怯えてたら何言ってもいいのかよ」


 拓也が綾乃の腕を掴んだ。


 その瞬間、綾乃は悲鳴を上げた。


「痛い! やめて!」


 大げさなほど怯えた声だった。


 拓也の顔がさらに歪む。


「そんな強く掴んでねえだろ」


「やだ…叩かないで…!」


「叩いてねえよ!」


 綾乃は震えながら、拓也を見上げた。

 その目には、涙が浮かんでいた。


 でも、俺には見えた。


 ほんの一瞬、笑ったのを。


「そういう顔、怖い……」


 綾乃が言った。


「殴りたいんでしょ……? 私みたいなのなら、言い返さないから……」


 拓也の手に力が入る。


「お前さあ…」


「拓也!」


 俺が腕を掴むと、拓也は乱暴に振り払った。


「なんなんだよ、こいつ!」


 美咲が叫ぶ。


「やめなよ! 相手女の子だよ!」


「うるせえな!」


 拓也が振り返る。


 その顔を見て、美咲が一歩下がった。

拓也自身も、自分の声に驚いたようだった。


「…悪い」


 拓也は綾乃の腕を離した。


 綾乃はその場にへたり込む。


「ごめんなさい…ごめんなさい……」


 泣きながら謝る姿は、本当に痛々しかった。


 だけど、さっきの笑顔が頭から離れなかった。


 その時、奥の病室から、また音がした。


 今度は、何かを引きずるような音。


 拓也が舌打ちした。


「もう帰ろうぜ」


「うん、帰ろ」


 美咲が即答する。


 俺も頷いた。


 だが、ロビーへ戻ろうとした時、入ってきたはずの扉が閉まっていた。


 拓也が駆け寄る。


「は? なんで」


 扉は鍵がかかってないはずなのに、びくともしなかった。


 拓也が体当たりする。


 鈍い音が廊下に響く。


「開かねえ!」


 窓も力強く開けようとするがびくともしない、コンクリートの破片をぶつけても割れない。


 すでに割れている窓には鋭いガラス片が残っている。


 美咲の顔が青ざめる。


「嘘でしょ……」


 俺はスマホを取り出した。圏外だった。


 さっきまでは電波が一本立っていたはずなのに。


「裏口探そう」


 俺が言うと、拓也が苛立ったように頷いた。


 俺たちは奥へ進むしかなかった。


 病院の中は、歩くほどに空気が重くなった。


 誰も喋らない。


 綾乃はずっと俺の近くにいた。さっきのことが嘘のように、怯えきった顔で俺を見上げてくる。


「ごめんなさい…私のせいで……」


「綾乃ちゃんのせいじゃない」


 俺が言うと、彼女は小さく頷いた。


 その手が俺の袖を掴む。


 守らなきゃ、と思った。


 こんな場所で、こんなに怯えている子を置いていけない。


 その感情は自然なもののはずだった。


 なのに、胸の奥で別の何かも動いていた。


 自分だけを頼っている。


 俺だけを見ている。


 そんな考えが一瞬浮かんで、俺は自分で気持ち悪くなった。


「階段がある」


 美咲が言った。


 廊下の奥に、上へ続く階段があった。裏口を探すなら一階を回るべきだが、廊下の先は崩れた棚で塞がれている。


「二階から別の階段に出られるかもな」


 拓也が言った。


 階段を上がる途中、電灯が一つ、天井からぶら下がっていた。


 もちろん電気など通っていないはずなのに、その蛍光灯が一瞬だけ点滅した。


 ぱち。


 白い光が病院を照らす。


 その一瞬、階段の踊り場に人影が見えた気がした。


 美咲が悲鳴を上げる。


「今いた!」


「見間違いだ!」


 拓也の声は怒鳴り声に近かった。


「でも!」


「うるせえ!」


美咲が黙る。


 拓也は明らかに苛立っていた。怖がっているのを隠すために怒っている。そう見えた。


 そして、それを綾乃も見ていた。


「怒鳴るんだ」


 彼女が小さく呟いた。


 拓也の足が止まる。


 俺は反射的に振り返った。


 綾乃は美咲を見ていた。


「女の子が怖がってるだけなのに」


「…お前、黙れよ」


 拓也が言う。


 綾乃は俺の背中に隠れながら、続けた。


「怖いね。美咲さん」


 美咲が戸惑った顔をする。


「え…」


「こういう人って、彼女にも怒鳴るんだろうね」


「おい!」


 拓也が階段を下りてくる。


 綾乃は震えた。


「ごめんなさい…」


 けれど、その声は笑うのを堪えていた。


「ごめんなさい、怒らせるつもりじゃなかったの……本当のこと言っただけで……」


 拓也の顔が変わった。


 怒りが、恐怖を塗りつぶしていく。


 俺は拓也を止めようとした。


 だが、それより先に美咲が前に出た。


「拓也、やめてって!」


「お前もさっきからうるせえんだよ!」


 拓也が美咲を突き飛ばした。


 ほんの少しの力だったのかもしれない。


 でも、階段の途中だった。


 美咲の体が後ろに傾く。


 俺は手を伸ばした。


 届かなかった。


 美咲は短い悲鳴を上げて、階段を転げ落ちた。


 鈍い音が何度も響いた。


 最後に、ぐしゃり、という嫌な音がした。


「美咲!」


 俺は駆け下りた。


 美咲は階段の下で動かなかった。首が不自然な角度に曲がっている。目は開いていたが、焦点が合っていない。


「嘘だろ…」


 拓也が呟く。


「俺、そんな強く……」


 綾乃の泣き声がした。


「いや……いやぁ……」


 彼女はしゃがみ込み、両手で顔を覆っていた。


「死んじゃった……美咲さん、死んじゃった……」


 その声は悲痛だった。


 でも、指の隙間から覗く口元が、笑っているように見えた。


 俺は見なかったことにした。


 そうしないと、何かが壊れそうだった。


 拓也は美咲のそばに膝をついたまま、震えていた。


「俺じゃない…事故だ……」


「拓也」


「事故だろ! こいつが変なこと言うから…!」


 拓也が綾乃を睨む。


 綾乃はびくりと震え、俺の後ろに隠れた。


「ごめんなさい…私が悪いの…」


「そうだよ!」


 拓也が叫ぶ。


「お前が変なこと言うから!」


 その声に、綾乃はまた泣いた。


 泣きながら、か細く言った。


「でも、押したのはあなたですよね……?」


 拓也が固まった。


 俺の背筋が冷える。


「違う…違う違う違う!」


 拓也は立ち上がり、髪をかきむしった。


「ふざけんな…ふざけんなよ…!」


「警察に言ったら、信じてもらえるかな」


 綾乃が言った。


 今度ははっきり笑っていた。


「女の子を階段から突き落としました、って」


 拓也が走り出した。


 綾乃に向かって。


 俺は止めようとしたが、拓也の肩が俺を弾き飛ばした。


 綾乃は逃げた。


 怯えていたはずなのに、妙に足取りが軽かった。廊下の角を曲がり、暗闇の中へ消える。


「待て!」


 拓也が追う。


「拓也、やめろ!」


 俺も追った。


 美咲を置いていくことに、胸が潰れそうだった。


 でも、今拓也を止めなければ、もっと悪いことになる。


 そう思った。


 廊下の奥には手術室があった。


 扉は半開きで、中からかすかな音が聞こえる。


 鼻歌だった。


 子供のような、明るい鼻歌。


 拓也が扉を蹴り開けた。


 中は懐中電灯の光が届かないほど暗かった。


「出てこい!」


 返事はない。


 俺が追いついた時、拓也は手術台の近くまで進んでいた。


「拓也、もうやめよう。美咲を――」


「うるせえ!」


 振り返った拓也の顔は、別人みたいだった。


 涙と汗でぐちゃぐちゃになっている。


「俺は悪くない…俺は悪くないんだよ…!」


「わかってる。だから落ち着け」


「わかってねえだろ!」


 その時、手術室の奥から綾乃の声がした。


「かわいそう」


 拓也が振り返る。


 綾乃は棚の影に立っていた。


 涙の跡が残った顔で、にっこり笑っている。


「臆病な人って、大変だね」


「黙れ」


「怒鳴って、押して、殺して、それでも自分は悪くないって言わなきゃいけないんだもん」


「黙れ!」


「本当はわかってるんでしょ」


 綾乃は一歩近づいた。


「美咲さんの首が変な方向に曲がった時、ちょっとすっきりしたんじゃない?」


 拓也が吠えるように叫んだ。


 彼は近くにあった金属の器具を掴み、綾乃へ向かって振り上げた。


 だが、綾乃は逃げなかった。


 むしろ、ほんの少し前に出た。


 拓也の足元で、何かが動いた。


 床に散らばっていたコードだった。


 拓也の足が絡まる。


 体勢を崩した拓也の手から、金属器具が滑り落ちる。


 次の瞬間、拓也は手術台の角に喉を打ちつけた。


 嫌な音がした。


 拓也は床に倒れ、口をぱくぱくさせた。


 血の泡が唇に浮かぶ。


「拓也!」


 俺は駆け寄った。


 彼は俺を見ていた。


 助けを求めるように。


 だが、声は出なかった。


 喉の奥から、ひゅうひゅうと空気の漏れる音だけがした。


 数秒後、拓也の体から力が抜けた。


 静かになった。


 俺はしばらく動けなかった。


 美咲が死んだ。


 拓也も死んだ。


 数分前まで、車の中で笑っていた二人が。


「いや…」


 背後で、綾乃が泣き出した。


「いや…怖い…怖いよ…」


 俺は振り返った。


 綾乃はその場に座り込んでいた。両手で口を押さえ、涙を流している。


 その姿を見た瞬間、俺の中で何かが鈍く軋んだ。


 この子のせいだ。


 そう思った。


 でも同時に、違うとも思った。


 押したのは拓也だ。


 追いかけたのも拓也だ。


 死んだのは事故だ。


 綾乃はただ、そこにいただけだ。


 ただ、少し変なことを言っただけ。


 俺は自分にそう言い聞かせた。


「行こう」


 俺は綾乃に手を差し出した。


「ここを出よう」


 綾乃は怯えた目で俺を見た。


「私…私のせいで…」


「違う」


「でも…」


「違うって言ってるだろ」


 自分でも驚くほど強い声だった。


 綾乃が肩を震わせる。


 俺はすぐに後悔した。


「ごめん。怖がらせるつもりじゃなかった」


 綾乃は小さく首を横に振った。


「悠真さんは、優しいね」


 その言葉に、胸が少しだけ温かくなった。


 こんな状況で、そんな感情を抱いた自分が嫌だった。


 俺たちは手術室を出た。


 どこかに出口があるはずだった。


 病院の中はさっきよりも暗くなっている気がした。懐中電灯の光が弱くなっている。電池が切れかけているのかもしれない。


 廊下を歩く間、綾乃はずっと俺の腕にしがみついていた。


 柔らかい重み。


 震える呼吸。


 俺だけが頼りなのだと伝わってくる。


 美咲の死体が頭をよぎった。


 拓也の血の泡が浮かんだ口も。


 それなのに、俺は綾乃のことを考えていた。


 この子を守らなきゃ。


 この子を外に出さなきゃ。


 この子は俺がいないと駄目なんだ。


 そんな考えが、頭の中を何度も回った。


 二階の奥に、非常階段があった。


 扉を開けると、外気が流れ込んできた。


 けれど階段は途中で崩れていて、下へは降りられなかった。


「上に行ける」


 綾乃が言った。


 非常階段は屋上へ続いていた。


 屋上から別の階段に出られるかもしれない。そう思って、俺たちは上がった。


 屋上は広かった。


 夜空には月が出ていない。遠くに街の明かりが見える。こんなに近くに人の生活があるのに、ここだけ世界から切り離されているようだった。


 屋上の端には、欠けた手すりがあった。


 噂にあった場所だ。


 屋上で女が飛び降りたという。


 綾乃は俺の腕を離し、ふらふらと歩いた。


「危ない」


 俺が言うと、彼女は振り返った。

その顔に浮かんでいたのは、見覚えのある笑みだった。


「悠真さん」


 声も変わっていた。


 甘く、薄く、人を小馬鹿にするような声。


「本当は、嬉しかった?」


「何が」


「二人がいなくなって」


 俺は息を止めた。


「やめろ」


「だって、私と二人きりになれたもんね」


 綾乃はゆっくり近づいてくる。


「最初から、私のこと見てたでしょ。かわいそうな子だなって。守ってあげたいなって。自分だけが助けてあげられるって」


「違う」


「そう思うの、気持ちよかった?」


 頭の奥が熱くなる。


 否定したいのに、言葉が出てこない。


 綾乃は俺の目を覗き込んだ。


「臆病だから、私みたいな大人しそうなの狙ってるんでしょ?」


 胸の奥を、何かで引っ掻かれたようだった。


「……黙れ」


「美咲さんみたいに言い返してくる女の子は怖いもんね」


「黙れ」


「拓也さんみたいな人には勝てないもんね」


「黙れって」


「だから、私みたいなのがいいんでしょ。泣いて、震えて、あなたにしがみつくような女の子が」


 気づくと、俺は綾乃の肩を掴んでいた。


 綾乃はびくっと震えた。


 さっきまでの笑みが消える。


「ご、ごめんなさい…」


 涙が目に浮かぶ。


「ごめんなさい、怒らせるつもりじゃ…」


 その変わり身の早さに、吐き気がした。


「なんなんだよ、お前」


「怖い…ゆるして…」


「答えろ」


「ごめんなさい…」


 綾乃は泣きながら、俺を見上げた。


 その顔はひどく弱々しかった。


 守りたくなる顔だった。


 壊したくなる顔だった。


 その二つの感情が、同時に湧いた。


 俺は自分が何を考えているのかわからなくなった。


「悠真さん…助けて…」


 綾乃が言った。


 その声は本気で震えていた。


 でも、次の一言ではまた笑っていた。


「ほら、そういう顔してる」


 気づいた時には、俺の両手は綾乃の首にかかっていた。


 細い首だった。


 力を込めると、綾乃の目が見開かれた。


「っ……!」


 彼女は俺の手を掴んだ。


 爪が皮膚に食い込む。


「や、め……」


 本当に苦しそうだった。


 演技には見えなかった。


 口が開き、空気を求めて喘ぐ。足が屋上の床を蹴る。涙が次々とこぼれる。


「たす、け…て……」


 俺は止めようと思った。


 止めなきゃと思った。


 なのに、指に力が入る。


 頭の中で、美咲の首が折れる音がした。


 拓也の喉から漏れる空気の音がした。


 綾乃の笑い声がした。


「やめ…ごめ、なさ…」


 その声が、さらに何かを煽った。


 かわいそうだと思った。


 同時に、もっと苦しめたいと思った。


 そう思った瞬間、自分が完全に壊れたのがわかった。


 綾乃の抵抗が弱くなる。


 指先から力が抜けていく。


 目の焦点が合わなくなる。


 やがて、彼女は動かなくなった。


 俺は手を離した。


 綾乃の体が屋上に崩れ落ちる。


 白いブラウスが、闇の中でぼんやり浮かんでいた。


「……あ」


 声が出た。


 俺は自分の手を見た。


 赤くなった指。


 爪の跡。


 俺が殺した。


 俺が、首を絞めて殺した。


「違う…」


 誰に言ったのかわからなかった。


「違う、違う、違う……」


 膝から崩れ落ちる。


 吐き気が込み上げた。


 俺は優しい人間のつもりだった。


 拓也とは違うと思っていた。


 人を傷つけたりしないと思っていた。


 でも、違った。


 俺も同じだった。


 少し言葉を向けられただけで、弱い相手を掴んで、泣いて謝る相手の首を絞めた。


 俺は綾乃の死体を見た。


 助けて、と言っていた顔が頭から離れない。


 俺が殺した。


 もう戻れない。


 遠くでサイレンの音がした気がした。


 幻聴かもしれない。


 どちらでもよかった。


 俺は立ち上がった。


 屋上の端へ向かう。


 手すりが欠けている場所。


 下を覗くと、暗くて地面は見えなかった。


 怖かった。


 死にたくないと思った。


 でも、生きていることの方がもっと怖かった。


 後ろを振り返る。


 綾乃は動かない。


 当たり前だ。


 俺が殺したのだから。


「ごめん」


 誰に向けた謝罪なのか、自分でもわからなかった。


 俺は一歩踏み出した。


 体が宙に投げ出される。


 落ちている間は、思ったより長かった。


 風が耳元で鳴る。


 病院の壁が流れていく。


 次の瞬間、全身に凄まじい衝撃が走った。


 音が消えた。


 痛い。


 痛い。


 痛い。


 息ができない。


 体がどこを向いているのかわからない。手足の感覚も曖昧だった。ただ、痛みだけがあった。


 死ねなかった。


 即死できなかった。


 俺は地面に叩きつけられ、壊れた体のまま、まだ生きていた。


 視界の端に、病院の入口が見えた。


 扉が開いて誰かが歩いてくる。


 白いブラウス。


 紺色のスカート。


 長い髪。


 綾乃だった。


 首には、俺が絞めた跡などなかった。


 彼女は軽い足取りで俺のそばまで来ると、しゃがみ込んだ。


 俺は声を出そうとした。


 出なかった。


 綾乃は俺の顔を覗き込む。


 その表情は、今までで一番楽しそうだった。


「私、暴力的な人きらーい」


 明るい声だった。


 友達に冗談を言うみたいな声。


 綾乃はくすくす笑った。


 それから立ち上がり、鼻歌を歌いながら歩き出した。


 病院の駐車場を抜け、俺たちが乗ってきた車の横を通り過ぎる。


 その足取りは軽やかで、楽しげだった。


 俺は薄れていく意識の中で、その背中を見ていた。


 何か言わなければと思った。


 誰かに知らせなければと思った。


 でも、口から漏れたのは、血の泡だけだった。


 綾乃の鼻歌が遠ざかる。


 夜の闇に溶けていく。


 最後に、彼女が一度だけ振り返った。


 そして、手を振った。


 まるで肝試しを終えた帰り道みたいに。


 俺の意識は、そこで途切れた。

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