明日もこのベンチで
芝を駆け回る子どもの声が、青空に吸い込まれていく。
等間隔に並んだ黒いポールのガス灯。
幅の広い白い石畳。
花壇に整然と植えられた季節の花は、風に揃って揺れていた。
その石畳を、彼のブーツがゆったりと打つ。
仕事の合間。
彼はいつもこの王立自然公園へと足を運ぶ。
決まった時間。
決まった道のり。
そして、決まったベンチ。
だが、今日だけは、すでに先客がいた。
ベンチの端には、落ち着いたスモークブルーのドレスの女性。
昼下がりのこの時間、他のベンチも既に人で埋まっている。
彼は仕方無しに、女性とは反対側の端に腰掛けた。
暖かい風。
彼はほっと息をつく。
だが――気になった。
どうしても、視線がそちらへ向いてしまう。
スモークブルーの女性が、先程からそわそわと落ち着きがない。
彼は、ちらと隣を見た。
きっちりとまとめられた墨色の髪の女性。その灰の瞳は、石畳を忙しくなぞっている。落ち着いた見た目なのに、瞳も指先も、じっとしていない。
ふと、目が合う。
彼女の灰の瞳に、焦げ茶の髪の彼が映り込んだ。
「あ……」
女性は小さく声を上げた。
彼は、その榛色の瞳を細めて、小さく頷く。
「その……指輪を落としてしまって……」
彼女は苦く笑いながら俯いた。
「さっきまではあったんです。少し外してみようと思ったら、うっかり弾いてしまって……」
「え……それは大変だ」
彼はベンチを立ち、その下を覗き込む。
「あ……そんな……申し訳ない」
彼女も椅子から腰を浮かせるが、彼は首を振った。
「大切なものなのでしょう?
二人で探したほうが、きっと見つかりやすい」
女性は唇を噛むと、やがて頷く。
席を立ち、広い石畳に視線を巡らせた。
しばらく二人で探していたが、
――結局指輪は見つからなかった。
二人は静かに隣り合ってベンチに座った。
「……あなたの手までお借りしたのに……。申し訳ないわ」
「いえ……それはお気になさらず」
女性は細く息を吐いた。
華奢な肩が、より細く見える。
彼は慌てて公園を見渡した。
「ほ……ほら、鳩です」
彼女が顔を上げる。
白い鳩が、ぽっぽっと鳴きながら歩いていた。
「……そうですね。鳩ですね」
「白いですね」
「え? ……はい。白いですね」
「えぇっと……」
彼はまた、視線を巡らせる。
「ほら……花壇の花、綺麗ですね。青い花……」
「デルフィニウムですか?」
「あ……そういう名前なのですか?」
「涼しげで美しいですね」
「はい。その奥の紫の花はラベンダーですよね」
「そうですね」
「あれは、僕でも名前を知ってます」
彼が少しだけ胸を張ると、女性はそれをきょとんと見つめた。
少し遅れて、口に手を添えて笑い出す。
「ふふ……。うふふふ」
彼は、それを不思議そうに見た。そして、頬を指先でかく。
「……慰めようとしてくださっているのですね。
ありがとうございます。お優しい方」
「とんでもない………。
不器用で……うまくできず」
女性はひとしきり笑った後、まっすぐに彼の瞳を見た。
灰の瞳はやわらかく陽射しを受けて、水晶のように輝いている。
「いいえ。大成功ですわ。とても元気になれましたもの」
彼はその瞳を見つめ、ふっと力を抜くように視線を外した。
「それは……良かった」
彼はポケットから時計を取り出すと、その時間を確認した。
「……そろそろ戻らなくては」
「そうですね。私も戻らないといけませんわ」
揃って立ち上がったとき、
――コトッと小さな音。
彼女の服の裾から、小さな金色が転がり落ち、彼の足元へ。
彼は、腰を屈めて、指輪を拾い上げた。
金に、小さなアメジストが埋め込まれた指輪。
彼は女性に向き直ると、そっと手を取って指輪をのせた。
「……見つかって良かった」
彼女は、榛色の瞳を見上げる。
「……大切な方から貰ったものなのでしょう?
もう、なくされませんように」
彼の瞳が、少しだけ寂しげに細められた。
彼の手が、彼女の手から離れる。
「祖母の……形見なのです」
彼女は両手で大切に指輪を包み込んだ。
彼の瞳が、わずかに見開かれる。
「……あ……そ、そうなのですか」
彼女は、少しだけいたずらっ子のように口角を上げた。
「男性からいただいたことは、ありませんわ」
日傘を差したご婦人たちが、彼らの後ろをゆっくりと通り過ぎていく。
柔らかい風が、彼女の後れ毛をかすかに揺らした。
彼女がやわらかく笑むと、彼も、つられるように笑った。
「……またお会いできますか?」
「……このベンチで明日も休憩しますわ」
時を告げる鐘楼の音。
二人して、ハッと顔をあげた。
「本当に戻らなくては」
「私もです」
頭を下げあい、踵を返す。
別々の方向へ、早足で歩き出した。
女性は、振り返った。
フロックコートの裾を揺らして去る紳士の後ろ姿。
彼女の頬が緩む。
また前を向いて、急ぎ足で仕事場に戻る。
いつもの王立自然公園。
いつも揺れている季節の花。
いつもの広い白い石畳。
いつもの、決まったベンチ。
だけど、明日は、少しだけ違うかもしれない。




