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血の中の宇宙  作者: 普通


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翅の内側

夜半。


灯油ランプの炎が細く揺れている。


ドランは一人、作業台に向かっていた。


刺咬記録は続けているが、数字は決め手をくれない。

それでも彼は、別の方向から探ろうとしていた。


「もし、昆虫が関与しているなら——」


関与している“なら”。


断言はしない。

ラヴランの慎重さが、彼の中にも根づいている。


机の上には、小瓶が並ぶ。

捕らえた蚊が数匹、まだ生きている。


湿地で採集したものだ。


羽音は弱い。

腹部は、うっすらと赤黒い。


ドランは一匹を取り出す。


微細な針で固定し、解剖用の顕微鏡下へ。


細い腹部に切れ目を入れる。


体液が滲む。


彼は息を止める。


何を期待しているのか、自分でもわからない。


顕微鏡の視野。


半透明の組織。


気管の管状構造。


消化管。


そこに、かすかな粒子が見える。


黒褐色の点。


彼は眉をひそめる。


「……色素?」


マラリア原虫が分解した血色素の残滓——

それに似ている。


だが蚊は、血を吸う。


血を吸えば、色素があるのは当然だ。


彼は焦点を合わせ直す。


粒子の一部が、静かに位置を変えた気がした。


気のせいか。


もう一度。


微動。


確かに、形が均質ではない。


円形に近いもの。


細長いもの。


血液の残渣とは、少し違う。


「動いている……?」


いや。


光の屈折だ。


組織が乾きつつある。


彼は自分に言い聞かせる。


ランプの火が揺れる。


視野がぶれる。


その瞬間。


一つの細長い影が、ゆっくりと伸びる。


まるで、血中で見た鞭毛形成体のように。


ドランの喉が鳴る。


彼は瞬きを忘れる。


影は、わずかに震え——


そして、消えた。


ただの色素塊に戻る。


動きはない。


静止。


沈黙。


「錯覚だ」


声に出す。


夜は、観察者を裏切る。


疲労は、動かぬものを動かす。


彼は深く息を吐き、標本を外す。


別の蚊を解剖する。


同じように腹部を開く。


だが今度は、何もない。


血の残滓だけ。


規則性は見えない。


翌朝。


ドランはラヴランに報告する。


「蚊の体内を調べました」


ラヴランは顔を上げる。


「結果は」


「血液由来の色素らしき粒子を確認しました。

 しかし、それ以上は……」


彼は言葉を選ぶ。


“動いた気がする”。


それは報告にならない。


ラヴランは静かに言う。


「吸血後の昆虫には、血の成分がある。

 それは当然だ」


「はい」


沈黙。


ドランは続ける。


「ただ——形態が、血中で見たものに似ているようにも思えました」


ラヴランの目が、わずかに細まる。


「似ている、か」


断定ではない。


それで十分だ。


「再現できるか」


「まだ、できません」


「ならば保留だ」


その言葉は、拒絶ではない。


だが前進でもない。


夜。


ドランは再び標本を覗く。


だがあの“伸びる影”は現れない。


何度解剖しても、ただの血の痕跡。


彼は記録帳に書く。


昆虫腹部内に黒色粒子を認む。

運動性を示した可能性あるも、確証なし。

再現不能。


ペンが止まる。


もし、あれが本物だったら。


もし、あれが原虫の変化だったら。


血の中だけで完結していると思われた生命が、

別の体内で姿を変えるとしたら。


それは。


世界の構造を書き換える。


窓の外。


蚊が一匹、灯りの周囲を旋回する。


小さな影。


脆く、頼りない。


だがもし、その翅の内側で

別の宇宙が開いているのだとしたら。


ドランは目を閉じる。


確信はない。


ただ、違和感だけが残る。


彼はまだ、証明していない。


ただ、見かけただけだ。


見かけた“かもしれない”。


翌日、ラヴランはふと尋ねる。


「昨日の観察、気になっているのか」


ドランは少し笑う。


「ええ。

 見た気がするのです」


ラヴランは頷く。


「科学は、“見た気がする”から始まる。

 だが、それだけでは終われない」


ドランは深く息を吸う。


「ならば、もう一度やります」


羽音は、まだ仮説だ。


だが確かに、

翅の内側で何かが起きている。


彼らはまだ知らない。


その小さな変化が、

やがて熱帯医学の歴史を動かすことを。


今はただ、

再現不能の影だけが、記録帳に残っている。

ありがとうございました

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