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血の中の宇宙  作者: 普通


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退けられた羽音

1886年、秋。


熱はやや和らいだが、湿地はまだ静かに息をしている。


ドランは回復し、再び実験室に立っていた。

顔色は戻ったが、以前より慎重になっている。


刺咬と発症の記録は続いている。


数字は、曖昧な傾向を示していた。


刺された者の発症率は高い。

だが刺されない者も発症する。


決定打にはならない。


その日、一通の報告が届いた。


内陸の駐屯地からだ。


そこは湿地から遠く、蚊も少ない。


それでも、複数のマラリア症例が発生したという。


ラヴランは紙を何度も読み返す。


「蚊が少ない?」


ドランが尋ねる。


「そう記してある」


もしそれが事実なら。


昆虫仮説は、弱まる。


さらに追い打ちをかけるように、

閉鎖された病室で発症した兵士の例が報告される。


窓は常に閉じられていた。


刺咬の痕も確認できない。


それでも、血中には輪状体。


ラヴランは顕微鏡を覗きながら考える。


寄生体は確かにいる。


だが、その入口が一つとは限らない。


もしかすると。


昆虫は偶然、環境の指標にすぎないのではないか。


湿地が生む「何か」が、空気に含まれているのかもしれない。


瘴気説は、完全には死んでいない。


夜。


ドランが言う。


「先生、昆虫説を強めるには証拠が足りません」


ラヴランは静かに頷く。


「推測は、推測のままだ」


彼は自分の記録帳を閉じる。


刺咬の欄に引かれた無数の線。


その一部を、薄く消す。


「我々は、生物を見つけた。

 それだけで十分だ」


言葉は冷静だ。


だがその奥には、疲労がある。


何年も追い続けた橋。


だが橋は、霧の中に消えかけている。


数日後、ラヴランは講義で語る。


「感染経路は未確定である。

 昆虫媒介の可能性は否定できないが、証明には至らない」


慎重な表現。


後退ではない。

だが前進でもない。


聴衆の一部は安堵したように頷く。


極端な仮説は、安心を奪う。


未確定という言葉は、均衡を保つ。


その夜、ラヴランは一人で標本を見ていた。


ドランは帰宅している。


視野の中で、成熟体が静かに色素を集めている。


ふと、窓の外で羽音がする。


彼は立ち上がり、窓を閉める。


音は止む。


静寂。


もし媒介が昆虫なら、

この窓一枚で世界は変わるはずだ。


だが、閉めても病は消えない。


それが彼を躊躇させる。


単純すぎる仮説は、危うい。


自然はもっと複雑だ。


日記に記す。


私は一度、羽音を追いかけた。


だが羽音は、証拠にならない。


寄生体は血中で完結しているようにも見える。

外界は、ただの舞台装置かもしれない。


早すぎる結論は、真実を歪める。


ペン先が止まる。


本当にそうか。


それとも、自分は恐れているのか。


もし昆虫が媒介なら、

病は制御可能になる。


だが同時に、

その証明は新たな戦いを呼ぶ。


彼はまだ確信できない。


翌日、ドランが静かに言う。


「先生、私は記録を続けます」


ラヴランは顔を上げる。


「なぜだ」


「可能性を捨てるには、まだ早い」


その言葉は、かつてラヴラン自身が抱いていたものだ。


彼は微かに笑う。


「ならば続けよう。

 だが結論は急ぐな」


昆虫は、仮説の一つに戻った。


特別でもなく、排除もされない。


霧の中へ、再び溶ける。


夜。


顕微鏡の視野は静かだ。


血の中の宇宙は、変わらずそこにある。


橋は見えない。


羽音は遠い。


ラヴランは、焦らないことを選ぶ。


真実は急がない。


そして時に、

正解は一度、退けられる。


それでも観察は続く。


沈黙の中で、

微小な生命が、規則正しく脈打っている。

ありがとうございました

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