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血の中の宇宙  作者: 普通


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二つの視野

1884年、アルジェ。


朝の光が実験室のガラスを透過し、顕微鏡の金属部分を鈍く光らせていた。


ラヴランは標本を準備している。


背後で、紙をめくる音がした。


ドランが前夜の記録を整理している。


「発作の三時間前に成熟型が増える傾向があります」


淡々とした声だが、そこには以前のような距離はない。


ラヴランは頷く。


「分裂は発作直後に多い。熱は結果だ」


言葉に出すたび、理論が形を持つ。


二人の机の上には、同じ構図のスケッチが並んでいた。


輪状体。

色素顆粒。

成熟体。

分裂像。


それぞれが、わずかに異なる筆致で描かれている。


だが構造は同じだ。


二つの目が、同じものを見ている。


「先生」


ドランが顕微鏡から顔を上げる。


「今日は、違います」


ラヴランは近づく。


視野の中央に、赤血球を押し広げるような形の成熟体。


そして。


ゆっくりと、外縁が震え始める。


内部の色素が渦を巻く。


次の瞬間、球体が崩れ、微小な小体が周囲へ放たれる。


ラヴランは時計を見る。


午後四時七分。


病棟では、伍長が悪寒を訴え始めている頃だ。


ドランが囁く。


「一致しています」


それは確認の言葉だった。


疑いではない。


観察の共有。


ラヴランは静かに息を吐く。


「繰り返そう。偶然ではないことを示す」


二人は記録方法を統一した。


採血時間。

体温曲線。

脈拍。

寄生体の形態変化。


ドランは提案する。


「患者ごとに、周期の違いを分類できるかもしれません」


三日熱。四日熱。


発作の間隔と寄生体の成長段階。


ラヴランは頷く。


「ならば、これは単一の現象ではない。

 種が異なる可能性がある」


“種”という言葉を、彼ははっきりと口にした。


血の中に、複数の生物がいる。


その発想は大胆だった。


だが顕微鏡の中では、すでに差異が見えている。


夜。


二人は並んで標本を覗く。


ランプの光が、視野を円く照らす。


「先生は、最初に見たとき怖くなりませんでしたか」


ドランが尋ねる。


ラヴランは少し考える。


「怖かったのは、間違っている可能性の方だ」


沈黙。


顕微鏡の下で、輪状体が静かに浮かぶ。


「今は?」


「今は——」


彼は言葉を探す。


「責任を感じている」


ドランは顔を上げる。


「責任?」


「もし正しければ、

 この知識は兵士を救える。

 だが証明できなければ、

 誰も耳を貸さない」


真実は、存在するだけでは足りない。


共有されなければ、無力だ。


数週間後、二人は合同報告をまとめた。


図表を添え、観察回数を明示し、反論への備えを書き加える。


ドランの名が、ラヴランの横に並ぶ。


それは小さな変化だった。


だが孤独な署名ではない。


提出前夜、ドランが言う。


「先生。もし否定されたら?」


ラヴランはランプを消しかけて、止めた。


「ならば、さらに観察する」


「終わりは?」


「終わりは、寄生体が消えたときだ」


病棟の向こうで、兵士が咳き込む。


マラリアは、議論を待たない。


だから彼らも止まらない。


翌朝。


二人は病棟を巡回する。


発作後、静かに眠る若い兵士の額に汗が光る。


ドランが小声で言う。


「私たちは、血の中を航海しているのですね」


ラヴランは微かに笑う。


「そうだ。まだ地図のない海だ」


顕微鏡は羅針盤に過ぎない。


だが二人いれば、視野は広がる。


孤独だった観察は、共有された瞬間に強度を増す。


赤血球の海の中で、

黒い顆粒が静かに脈打つ。


世界はまだ信じていない。


だが今、

少なくとも二人は、同じ宇宙を見ている。

ありがとうございました。

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