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血の中の宇宙  作者: 普通


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沈黙の顕微鏡

1883年、アルジェ。


報告書は戻ってきた。


封蝋は乱暴に割られた痕がある。

紙は折り目のところで白く擦れていた。


「観察は興味深いが、病因と断定するには証拠不十分」


「寄生体というより、血液の退行変化の可能性が高い」


署名は、敬意を払う形式を保ちながらも、冷たい。


ラヴランは机に手を置いたまま、しばらく動かなかった。


興味深い。


それは、肯定でも否定でもない。

だが実際には、どちらよりも遠い言葉だ。


病院では、今日も発作が繰り返される。


若い伍長が、午後四時きっかりに震え始める。

歯が鳴り、毛布が揺れる。


ラヴランは時計を見る。


寄生体の成熟時間と一致する。


彼は採血し、顕微鏡へ向かう。


輪状体。

色素顆粒。

そして分裂直前の球体。


規則的だ。

あまりに規則的だ。


だが規則性は、信仰にはならない。


科学は、再現と承認によってのみ成立する。


彼には前者しかない。


食堂で、同僚たちの声が聞こえる。


「また血の中の怪物の話か?」


「彼は寄生虫学者にでもなればいい」


笑い声。


悪意はない。

ただ、距離がある。


ラヴランはスープに視線を落とす。


自分は間違っているのか。


顕微鏡の揺らぎを、生命と見誤っているのではないか。


夜、彼は一人で標本を見続ける。


焦点を外し、合わせ直す。

光量を変え、角度を変える。


それでも、像は現れる。


赤血球の内部に、異物。


そして時折、あの運動。


静かな、しかし明確な意志のような動き。


ある夜、嵐が来た。


窓が鳴る。

ランプの火が揺れる。


その揺れが、顕微鏡像にも影を落とす。


視野がぶれる。


ラヴランは思う。


自分の信念も、これと同じではないか。


外部の風が吹けば、揺らぐ。


パリの懐疑。

同僚の嘲笑。

証拠の不足。


それでも。


風が止むと、像は戻る。


顆粒はそこにある。


生命はそこにある。


翌週、若い軍医が転任してきた。


名をドランという。


「あなたが、血液寄生体を主張しているラヴラン先生ですか」


声に皮肉はない。

ただ、好奇心がある。


ラヴランは無言で顕微鏡を示す。


ドランは覗き込む。


沈黙。


「……確かに、何かがいますね」


その言葉は、小さかった。


だがラヴランにとって、それは久しく聞かなかった音だった。


肯定。


完全ではない。

だが拒絶でもない。


数日後、ドランは言う。


「もし寄生体が原因なら、なぜ全員が死なないのでしょう」


鋭い問いだった。


ラヴランは答える。


「宿主との均衡だ。

 生物は常に、絶滅より共存を選ぶ」


口にしながら、自分でも驚く。


寄生体を、生物として語っている。


それはもう仮説ではない。


彼の中では、確信に近づいている。


だが確信は、孤独を深める。


パリからの新たな書簡。


「仮説は斬新だが、証明には至らず」


「他の研究者による確認を待つ」


待つ。


それは事実上の保留。


時間が経てば、忘れられる。


ラヴランは夜の病棟を歩く。


発作の後、静かに眠る兵士たち。


彼らは議論を待たない。

承認も待たない。


寄生体は、今この瞬間も血中で増殖している。


真実が認められなくとも、病は進行する。


彼は日記に書く。


私は孤立しているのではない。


私は、顕微鏡と向き合っているだけだ。


他者が見ないものを見ることは、

しばしば孤独を伴う。


インクが滲む。


窓の外で、夜風が止む。


顕微鏡の視野は静かだ。


赤血球の海の中で、

黒い顆粒が、ゆっくりと動く。


世界はまだ信じない。


だが生命は、否定を待たない。


ラヴランは再び椅子に座る。


承認は遠い。


だが彼は知っている。


この孤独は、

真実の前触れだ。


ありがとうございました。

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