制度との境界
冬の匂いが湿地を覆うころ、ドランとラヴランは再び顕微鏡の前に座っていた。
球体破裂の決定的瞬間から数週間。
時間経過後の蚊を使った観察は順調に進んでいた。
しかし、喜びは表向きには許されなかった。
ある朝、軍医局の連絡官がやってきた。
表情は厳格で、言葉の端々に警告が混じる。
「少佐、将官より再度の注意です。
研究の範囲を逸脱しています。
兵員の健康を危険に晒す恐れがある。
実験は中止、全ての記録は報告書として提出せよ」
ラヴランは封筒を手に取り、深く息をつく。
ドランは眉をひそめ、軽く握った拳を机の下で震わせた。
「私たちは命令に従っている。しかし、証拠は……」
「証拠があっても、制度は気にしない」
ラヴランの声は低く、冷静だ。
「命令と科学は、ここでは別物だ」
ドランは口を開いた。
「しかし、私たちはついに観察に成功しました!
血中の寄生体が、蚊の体内で次の段階へ移行することを——!」
連絡官は眉をしかめる。
「結果は重要かもしれない。
だが兵士の安全が最優先です。
私情で実験を続けるなら、職務違反として処分されます」
ドランの胸が締め付けられる。
成果を世界に伝えたい衝動と、軍規を守る責任の間で揺れる。
ラヴランは顕微鏡を見つめ、しばらく沈黙した後、静かに言った。
「我々は、記録を止めない。
だが、公式な形では報告しない。
制度の目を避け、観察は慎重に続ける」
ドランは頷く。
「偶然を装い、観察を残す。
証明は、いつか認められる」
ラヴランの目に、鋭い光が宿る。
その夜、二人は小さな実験室で作業を再開した。
ランプの光が標本に反射する。
球体の中の微小体は、静かに動き続ける。
「制度は我々の進歩を止められない」
ラヴランは言葉を小さく漏らす。
「だが、進めば進むほど、制裁も重くなる」
ドランは息をつき、再び顕微鏡を覗く。
「それでも、科学のためなら——」
羽音が遠く、窓の外をかすめる。
誰も見ていない。
しかし小さな翅の内側で、生命は確実に循環し、進化を続けている。
数日後、軍医局の監査が入った。
観察日誌、蚊の飼育記録、標本の数。
全てが対象だ。
ラヴランは表面を取り繕う。
「偶然の観察」と説明し、記録の重要性を隠す。
ドランは冷静に補足する。
しかし、監査官の目は鋭い。
彼らは異常を察知している。
成果の兆しを、確実に感じ取っている。
緊張は、部屋の空気を重くする。
夜、二人は小さく笑った。
「危なかったな」
ドランが言う。
「まだ始まったばかりだ」
ラヴランは応える。
科学の進歩は、制度との静かな戦いでもある。
目の前の球体が破裂した瞬間は、勝利の象徴だ。
だが、それを公にするには、さらに慎重な戦略が必要だ。
小瓶の中で、微小体は増え続ける。
時間経過とともに成熟し、次の世代の寄生体を生む準備をしている。
それを見守る二人の眼差しは、慎重さと確信が入り混じっていた。
真実は、制度を超えて存在する。
だが進めるには、知恵と忍耐が必要だ。
沈黙の中で、科学は確実に前に進んでいる。
外圧も、命令も、止められない進化の前では意味をなさない。
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