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血の中の宇宙  作者: 普通


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待つという実験

湿地に冷たい風が吹きはじめていた。


ドランは、いつものように吸血直後の蚊を解剖しようとして、手を止めた。


小瓶の中には、三日前に捕らえた蚊がいる。


吸血させたのは、発熱期の兵士だった。


本来なら、その日のうちに腹部を開く。

血が新鮮なうちに観察するのが常だった。


だがその朝、別の患者の急変で実験は中断された。


蚊は、そのまま生かしてあった。


「……三日」


彼は小瓶を持ち上げる。


腹部は赤黒さを失い、やや暗褐色に変わっている。


腐敗しているかもしれない。


観察価値は低い。


そう判断しかけて、彼はふと立ち止まる。


なぜ私は、吸血直後ばかりを見ているのだろう。


もし何かが起こるなら、

“直後”とは限らない。


その思考に、胸の奥がわずかに熱くなる。


危険だ、と彼は自分に言う。


「起こるはずだ」という期待は、観察を歪める。


彼は深く息を吸い、記録帳を開いた。


吸血後三日経過個体。

腐敗の影響を排除できず。

予断を持たず観察すべし。


言葉を、あえて硬くする。


解剖。


腹部を慎重に開く。


組織はやや変性している。


消化管壁が薄い。


焦点を合わせる。


黒色の粒子が散在している。


だが前回とは違う。


粒子の一部が、丸く、はっきりと縁取られている。


単なる残渣にしては、整いすぎている。


彼は倍率を上げる。


視野の中、透明な球体。


内部に、さらに微小な粒が見える。


血液中の輪状体とは形が違う。


だが無関係とも思えない。


「……成長?」


その言葉が浮かび、彼はすぐに打ち消す。


証拠はない。


球体は動かない。


ただ、存在している。


彼は視野を横へずらす。


別の部位。


また同じ球体。


偶然の配置にしては、数が揃いすぎている。


胸の鼓動が早まる。


答えに近づいている。


その感覚が、逆に怖い。


彼は手を止める。


ランプの火を少し弱める。


そして目を閉じる。


「観察者であれ」


ラヴランの言葉が蘇る。


“見たいものを見るな。

 見えるものを記せ。”


ドランは再び視野を覗く。


球体は、ただの構造物かもしれない。


消化過程で生じた変性産物。


寄生体とは無関係。


証明できない以上、そう扱うべきだ。


彼はスケッチを始める。


形、大きさ、位置。


感情を排除するため、線を均質に引く。


そのとき。


球体の一つの内部で、

微細な粒子がわずかに震えた。


ほんの一瞬。


確信できない程度。


彼は呼吸を止める。


もう一度。


動かない。


沈黙。


もしこれが生物学的変化なら。


血中で見た寄生体が、

昆虫体内で別の段階へ移行していることになる。


それは——


理論を根底から変える。


だからこそ、彼は首を振る。


「再現」


それだけを口にする。


再現できなければ、幻だ。


翌日。


彼はさらに数匹を“時間経過後”まで生かした。


一日目。


変化なし。


二日目。


球体様構造、わずか。


三日目。


数が増える。


四日目。


明らかに壁面に付着する円形構造。


彼はあえて、ラヴランにすぐには告げなかった。


興奮は伝染する。


仮説が強すぎると、師の慎重さを損なう。


証拠が整うまで、語るべきではない。


五日目。


彼は再び顕微鏡を覗く。


球体の一つが、内部に多数の細い構造を形成しているように見える。


まるで、何かが分裂しようとしている。


だが焦点が甘い。


組織は崩れやすい。


彼は標本を固定し直す。


その過程で、構造は崩れた。


視野は濁る。


証拠は、消える。


ドランは静かに椅子にもたれた。


近づいたと思った瞬間、

答えは霧に戻る。


夜。


彼はラヴランに報告する。


「吸血直後ではなく、時間経過後の個体を観察しました」


ラヴランはじっと聞く。


「結果は」


「腹部壁面に、円形構造が出現します。

 日数とともに増加する傾向があります」


ラヴランの沈黙は長い。


「それが寄生体だと断言できるか」


「できません」


即答。


その慎重さに、ラヴランはわずかに目を細める。


「ならば、仮説として扱え」


ドランは頷く。


「はい。

 証明するまでは、偶然の産物として記録します」


ラヴランはゆっくりと言う。


「答えに近づくとき、人は急ぐ。

 急いだ瞬間に、誤る」


ドランは静かに応じる。


「ですから、待ちます」


窓の外で、蚊が夜気を漂う。


彼らはまだ知らない。


その円形構造が、やがて破裂し、

無数の細い体を放つ日が来ることを。


今はまだ、壁に貼りついた静かな球体。


沈黙の中で成熟している。


ドランは記録帳を閉じる。


時間は変数である。

観察者は、時間を待たねばならない。


彼は灯りを消す。


答えは、すぐそこにある。


だが彼らは、手を伸ばさない。


慎重であることを選ぶ。


それが、科学者の勇気だった。

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