- 通貨は牙の味 〜黄泉で学ぶ売買と生存のルール〜
夜が低く垂れこめる都市の谷間、ネオンが雨のように降る。マーキュリー本部の外壁には古い文字が刻まれていて、そこを通る者は皆、何かしらの「選択」を背負っているように見える。スミスはその一人だ。賞味期限すれすれの希望と、半分諦めた誇りを胸に、合格通知を握り締めていた。
彼がこの場所に辿り着いたのは、守るべき誰かがいたからではない。守るべき“何か”――自分自身の尊厳と、過去に失った小さな誓いのためだ。だが、誓いだけでは戦えない。力と信頼を得るために、彼はここに身を投じた。
扉を抜けると、薄い光の中で一人の女性が待っていた。アリアだ。笑みは浮かべているが、眼差しは冷たい。合格者の群れの中で、彼女だけがスミスの名を呼んだ。
「スミス、来て」
声は軽いが指示は厳しい。アリアは短く任務の紙片を差し出す。そこには「初任務:チーム編成」とだけ書かれていた。
「自分で仲間を見つけて討伐をこなせ。給料は後だ。まずは信頼を作ること」
言葉は簡潔だが重い。スミスは答えに詰まる。人との関わり方を忘れていた彼は、どう人を選べば良いか分からなかった。アリアは半分呆れ、半分期待した顔で去っていく。
「逃げるなよ。期待してるわ、見習い」
残されたのは薄い紙と、新しい責務だけだった。
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スミスはビル内を歩き回り、人の群れから声をかける。しかし返ってくるのは表面だけの笑顔か、冷たい無視だった。彼は気づく。これまでの自分は「守る」つもりでいたが、本当の信頼は自ら構築するしかない。教科書の言葉はもう効かない。必要なのは、体と声と、時には犠牲だ。
ふと、薄暗い通路の端で明かりが揺れた。そこにいたのは、カタリナという女性だった。彼女はprotectの一員で、新人を保護するボランティア的な役割を担っていると名乗る。やわらかな表情と落ち着いた振る舞いに、スミスはほっとする。
「一緒に来ませんか?うちの小隊は腕はまだだが、心は真っ直ぐよ」
カタリナの言葉は肌に馴染む布のように温かい。だが、スミスは直感的に何かが違うと感じる。彼女の言葉は優しいが、優しさだけでは深い傷は治らない。信頼は両刃だと彼は学んでいる。
それでも、選択を先延ばしにする余裕はない。スミスはカタリナに従うことを選んだ。外の世界で一人で死ぬよりは、誰かと失敗する方が学びになる、と彼は自分に言い聞かせた。
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カタリナが導いた地下区画は、表通りの煌びやかさとは別の現実を露わにしていた。そこには古い手術室のような場所があり、抵抗のある電流が空気を震わせている。カタリナはここで新人たちに基礎を教えると説明するが、スミスの直感は警鐘を鳴らす。
「本当にここでいいのか?」
問いに対してカタリナは微笑むだけだった。だがその目の奥に、一瞬だけ影が差すのをスミスは見逃さなかった。
扉が閉まり、薄い麻酔の霧が部屋を満たす。目が溶けるように閉じて、スミスは深い闇へと落ちていった。
次に気づいたのは、鋭い風と熱い砂の感触だった。視界に広がるのは無限に続く砂丘、その上に二つの月が薄く浮かんでいる。右腕に違和感を覚え、見ると皮膚が変化していた。鱗のような模様が走り、指先が細長く、まるで爬虫類の手に変わっている。
「なぜ……?」
思考は千切れるが、腹が空く感覚は生々しい。スミスは火魔法で小さな光を作り、暗闇を切り裂く。目の前を滑る生物を撃ち、焼き、食べると、変化は一時的に収まることに気づく。身体は代償を求めている。彼はこの世界が単純な訓練場ではないことを理解し始める。
夜は冷酷だ。火は尽きかけ、風は刃のように肌を裂く。スミスは風で気配を探り、寝場所を求めて歩く。やがて一頭の獣が現れた。ハイエナを思わせるその生き物は、鱗に覆われており、通常の攻撃を吸収する特性を持っている。相対した瞬間、状況は一変する。
咬まれ、痛みに耐えられずに手が出る。外側が効かないなら内側を突け――そう直感した彼は相手の目を刺し、最後の力で自らの腕を爆発させる。爆炎の中、獣は消え去り、スミスの右腕は跡形もなくなった。痛みは想像を超え、血の熱で意識が揺らぐ。
生き延びるために剥いだ獣の皮を毛布代わりにくるまりながら、スミスはある確信を得る。マーキュリーは、彼らが言う「実践」の名の下に人間の境界を試している。だが彼が本当に欲しいのは――単なる力ではなく、選べる仲間、信頼できる絆だ。
「裏切りは許さない」
薄暗い砂の上、スミスは小さな誓いを立てる。右腕を失った痛みは、彼にとって新しい世界の扉を開ける鍵になるかもしれない。彼はまだ何も知らない。だが知るべきことがある。誰を守るべきか、何を守るべきか。そして、自分がどこまで“人間”でいられるのかを。
夜明けの気配が水平線を白くする。スミスは立ち上がる。信頼を手に入れるため、仲間を見つけるため、そしてマーキュリーの真実を暴くために、彼の旅が始まる。




