目覚めの使徒
第1話
「ねえ!!」
甲高い声が草の匂いごと空に引っかかった。ふわりとした薄明の端にいるような意識で目を開けると、そこは広い草原だった。草は淡い緑を重ね、遠くで小さな花々が瞬くように揺れている。風はほんのり冷たく、どこかバニラと土の混じった匂いが鼻をくすぐった。夢だと分かっている──それなのに、手の感覚も、呼吸も確かだった。
「やっと通じたわね」
黒のドレスを纏い、白いボブの髪を持つ女が腕を組んで立っていた。目は鋭く、無表情の縁に戯れがある。夢の住人らしく、輪郭は奇妙にくっきりしている。彼女の足元で草がほんの少し黒く光ったように見えた。
「あなたは……誰ですか?」
声は震えていない。夢でも、問いは問いだ。向こうはすぐに、それを当たり前のように受け止めた。
「アリア。マーキュリー所属よ。長い話は後で。まず聞きなさい、あなたは“変化”を求めているでしょ」
胸の奥に溜まった言葉を彼女に突かれ、息が止まりそうになる。変化──僕はそれを渇望していた。名前を持たない日々、何もない自分、未来の輪郭が霞む毎日。誰にも頼れず、自分の影に怯えていた。
「マーキュリー……って?」
女は肩をすくめた。「簡単に言えば、モンスター駆除と均衡維持の組織。あなたの世界では聞かれない名かもしれないわね。ここでは普通の仕事よ」
モンスターという言葉が空気を震わせる。人に似たもの、動物のようなもの、石や影に紛れた何か。想像は裂け目を広げるように広がった。
「で、僕に何の用が?」
僕は核心を突いた。疲れた問い方で、自分でも驚いたほど冷静だった。アリアの目が細くなる。
「勧誘よ。あなたは特異な素質を持っている。人生に絶望しているなら、私たちでそれを別の形に変えてあげられる」
言葉は柔らかく、冷たかった。僕は、そんな単刀直入な申し出を受け入れる理由を探した。残る理由がないのも事実だった。
「行くなら今よ」
手が差し伸べられた。僕はふとためらった。でも、そのためらいは小さく、すぐに消えた。手を取ると世界がすうっと引き裂かれ、白い空間に飲み込まれた。次に気づけば、白壁の広い部屋に立っている。子供部屋ほどの広さだが、光は均一で、どこか実験室のような冷たさがあった。
「ついてきて」
アリアの後ろを歩くと、廊下が伸びて校長室のような重厚な部屋に出た。壁には古い地図と記録が並び、中央には威厳のある椅子に腰掛けた女性がいた。赤い髪を後ろで束ね、琥珀の瞳が深く光る。日本語と英語の間を軽やかに渡るような口調で彼女は言った。
「ポール・スミス君ね?」
「は、はい……そうです」
「会えて嬉しいわ。私は姫野椿。あなたには話すべきことがある」
椿の声は柔らかく、同時に裁定を含んでいる。彼女が一枚の古文書をめくると、そこに書かれた文字がまるで頭の隅に落ちてくるように僕の理解力に馴染んだ。
「ある予言がある。世界が分裂し、均衡が崩れたとき、それを正す者が現れると。あなたの特徴がその記述と重なっている。だからここにいるのよ」
予言。映画や古書で聞いた言葉が、自分の胸の中で現実の重みを帯びる。選ばれた、という言い方は僕にとってあまりにも遠い。けれど椿の瞳に嘘はなかった。
「訓練を受けて、試験に合格すれば正式に迎え入れる。無理なら帰す」
椿の宣告は簡潔で、僕の鼓動は少しだけ早くなる。帰るという選択肢が用意されていることに、僕は安心しつつも、心のどこかでそれを望まなかった。
訓練は想像よりも厳しかった。マーキュリーでは魔術は科学に近い。火、水、雷、土、風──五つの元素が基礎で、それぞれの特性を理解し、組み合わせることで新たな力が生まれる。アリアはそれを色の混ざりと同じと説明したが、実際はもっと繊細だった。配分、精神の安定、呼吸のリズム、それらがほんの少し狂うだけで術は暴走する。
「スミス、基礎を疎かにするな。君の火と風の相性は良いが、粗さがある」
アリアは静かに言った。彼女の目はいつも冷静で、しかし指導の間には時折いたずらっぽい笑みが差し込む。僕は教えを必死で吸収し、手のひらから小さな火球を生み出すことに成功した。火球は風の操作で制御され、的の中心に吸い込まれるように飛んでいったとき、初めて誇りが胸を満たした。
訓練の合間、僕は何度も自分のことを問い直した。学校はどうなっているのか、家族は?アリアはそうした問いに素っ気なく答えた。
「こっちで何とかしている。今は試験に集中しなさい。教えるのはそれからよ」
逃げ道は塞がれていないのに、僕は逃げられないような気がした。誰かが僕の代わりに決めた運命に従うのではなく、自分で掴みたいという欲望が芽生え始めていた。
ある日、訓練場に警報が鳴った。赤い光が回り、無機質な声が流れる。
「モンスター発生。戦闘区域一、全員至急展開」
僕の胸が跳ねる。実戦だ──訓練生である僕が出撃を命じられるとは思っていなかった。だが椿からの電話で、僕は現場に行くことになった。
「スミス、君は才能がある。頼むわ」
椿の声が電話越しに響いた。アリアはすぐに僕の隣に立ち、二人で現場に向かった。
一階のホールに到着すると、そこにいたのはマグマのような皮膚を持つ人形じみた怪物だった。鎧のように固まった溶岩が繰り返し動き、周囲の床を蒸気が包む。攻撃は効かない。僕らは何度も術を繰り出したが、効果は薄い。
「秘技を教える必要があるかもしれないわ」
アリアが低く囁く。耳が冷たくなるほどの静けさの後、彼女は説明を始めた。
「これは一発で怪物を屠る術よ。ただし代償がある。使った者は命を落とす可能性が高い。選ぶのはあなたの自由」
言葉は刃のように冷たい。恩と責任の間で僕の心は引き裂かれた。アリアは過去に何度も僕を助けるような態度をとってくれた。訓練の日々、彼女は僕に厳しく、時折無邪気な言葉をかけた。彼女が笑えば僕は頑張れた。今、彼女が危ない──僕にできることは一つしかないのか。
僕は決めた。生きて戻る自信はなかったが、目の前の人が消えることは選べなかった。詠唱を始めると、言葉が体の芯から湧き上がった。呼吸は一定、手の形は完璧ではない。それでも術は生まれた。アリアの周りに薄い光の輪が立ち上り、彼女が振るうと衝撃が走った。怪物は粉々に砕け、火と石の破片が舞い散った。
一瞬、世界が乱反射するように光った。けれど、気づけば僕は地面に倒れていた。胸が痛い。息が乱れる。手を握れば温もりがあった。アリアが無事に立っていて、顔にいつものいたずらな笑みを浮かべている。
「ふふ、やっぱり君は使ったのね」
彼女の言葉に、肩の力が抜ける。同時に、全てが演出であったことが示された。怪物は実際には人形で、破片を集めれば機械部品が見つかる。演習だったのだ。だが詠唱の代償は本物に思わせるに十分だった。僕の中に残ったのは、安心と、そして不思議な達成感だった。
「合格よ。これまでの一連の“襲撃”は試験だった。あなたは選ばれた」
椿が静かに告げた。周囲で訓練員たちがほほえみ、アリアは軽く肩を叩いた。僕は言葉を失い、次に来たのは高い歓喜だった。歓声を上げたい気持ちと、あの日常に戻れないことを思い知る重さが混ざる。
その日から僕はマーキュリーの一員になった。名札はまだ薄いが、朝の点呼に加わり、訓練場で朝夕を過ごす。任務は、予想していたよりずっと現実的で、時に残酷だった。だが仲間がいるという事実は、何よりも変化を与えた。僕は少しずつ自分の輪郭を取り戻し、火と風を操る感覚が身体の一部になるのを感じる。
夜、寝台に横たわりながら考える。これから先、何が待っているのか。予言が示す“均衡”とは何か。僕は本当にその重荷を背負えるのか。恐れと期待が同居する中で、僕の胸には新しい言葉が芽生えていた──ここで、自分は何かになるのだ、と。
窓の外で風が草を撫でる音がする。遠くで、異なる世界の影がうごめいている。僕は目を閉じ、翌朝来るであろう訓練の鐘の音を待った。誰かに求められることの重さと暖かさを、まだぎこちなく抱きしめながら。




