第九話:金沢カレーの昼
新年最初の出社日。
午前中の業務を終えると、社内はふっと緊張が緩み、昼休みの和やかな空気が戻った。
「今日はカレーでも食うか?」
同僚の田村の一声で、自然と数人がうなずく。剛も席を立ち、向かったのは近くの金沢カレーの店だった。
「俺はロースカツカレーにしよう」
「僕はチキンカツで!」
「剛さんは?」
「じゃあ、俺もロースカツカレーを。せっかくだしな」
そう言って席につくと、すぐに湯気の立つカレー皿が目の前に置かれた。
ステンレスの皿に盛られた黒褐色のルー。その光沢は、まるで油彩画のように濃密だ。金色に輝く衣をまとったカツと千切りキャベツの清冽な白が、その深い色に浮かぶ雪のように見えた。
「金沢カレーは何度食べても飽きないですね」
金沢出身の加藤がにこにこと笑う。
「俺はやっぱりマヨネーズかけて食うのが好きっす」
迷わずマヨネーズをかける加藤。太い白い線が、熱々のルーに滑らかに溶けていく。
剛はそれを見つめ、静かにスプーンを手に取った。
その目は鋭く、まるで審美家のような光を帯びている。
周囲が息を呑む。
その瞬間――雄山モードが発動した。
「……加藤。見事な選択だ」
声は低く、威厳を帯びていた。
「この金沢カレー――確かに高級な繊細さはない。だが、その力強い濃厚さ、荒々しい衣の香ばしさ……庶民の飽くなき探求の結晶だ」
剛はゆっくりとカレーを口に運ぶ。
「甘みとほろ苦さが口の中で重なり、千切りキャベツがその奔流を清める。そして……お前のマヨネーズ。俗なる調味料に見えて、実はこの味を引き裂き、再び結び合わせる清冽なる剣だ」
鋭い視線を柳沢に向ける。
「加藤、お前は己の土地の誇りを正しく体現している。金沢の叡智を尊べ。誇るがよい」
加藤は目を丸くして、やがて笑みを漏らす。
「そ、そんな……剛さん、そこまで褒めてくれるとは……!」
周りの同僚たちも感嘆と笑いが入り混じった表情を見せた。
「ほんと、剛くんの話聞くと、このカレーがすごい料理に思えてくるな」
「加藤、いい仕事してるじゃん!」
剛は頷き、再びスプーンを口に運ぶ。
庶民のB級グルメとしての矜持。スパイスと衣の香ばしさが、舌の上で濃密に咲く。
その味の確かさに、剛は心の底から敬意を払った。
「……うむ。やはり、これは庶民の叡智の極致だ」
雄山モードの声は、尊大でありながら揺るぎない称賛を帯びていた。
しばしの静寂ののち、剛の表情が和らぎ、目元に柔らかい光が戻る。
雄山モードが、静かに消えていった。
「……あ、いや……」
剛は顔を少し赤らめ、視線を逸らした。
「ちょっと熱くなっちまったな。すまん、なんか大げさに語りすぎたかも」
いつもの穏やかな口調に戻りながらも、頬にわずかな恥じらいを残す。
「でも……うまいな、このカレー。マヨもいいアクセントだ」
その言葉に、同僚たちはまた笑顔を返す。
「いやいや、剛さんに褒められたら誇らしいだろ、加藤!」
「確かに。マヨネーズ、試してみるわ」
「そうそう。なんか、ちょっと特別な昼メシに思えてきたな」
剛は苦笑いをしながらスプーンを置き、加藤に目を向けた。
「……ほんと、ありがとうな。加藤。お前のやり方も、ちゃんと美味いって思えた」
加藤は誇らしげに笑った。
「いえいえ! なんだか、おれも地元を認めてもらえた気がします!」
剛は再びスプーンを口に運ぶ。
庶民の祝祭、その温かさが舌に沁みる。
そして、仲間たちの笑い声に囲まれながら、ほんのり赤らめた頬を隠すように、そっと視線を落とした。