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第八話:初春一筆(はつはるひとふで)


 正月の陽はやさしく、縁側の障子を透かして、部屋の中にうっすらと黄金色を投げかけていた。



 剛たちは家族でお節を囲み、徳利と盃を手に静かに新年を祝っていた。

母の丹精込めた重箱には、煮しめ、数の子、黒豆、田作り。いずれも過不足ない味で、素材の息遣いすら感じさせるほどだ。



 「……やっぱり、母さんの味だな」

 「お前が言うと、なんだか照れるよ」



 母が笑い、剛はそっと盃を差し出す。父も兄も静かに盃を傾け、互いに酌み交わす。



 そこに、元気な声が響いた。



 「わたし、書き初めやっていい?」



 姪の梨々子が、筆と半紙を抱えてやってきた。習字道具を広げて、墨を用意しはじめる。




 「いいじゃないか」と孝弘が笑った。「俺なんて、子供の頃もやった記憶がないぞ」



 梨々子は真剣な顔で、墨を含ませた筆を半紙に運んだ。


 サッ……ササッ……


 その筆致は拙い。だが、剛は見逃さなかった。

 その線にこもるまっすぐな心、筆の迷いなき気迫。


 「……」



 ふと、剛の中で何かが点火した。



 感情の波が、味覚ではなく――美の衝撃によって揺れ動く。

 冷たく澄んだ水が体内に流れ込み、空気が膨張する。意識が鋭利になり、視界の輪郭が変わる。



 雄山モード――発動。


 剛は静かに立ち上がった。


 「梨々子」


 声の調子が変わった。深く、凛とした響き。だがそこには、静かな敬意と温かさが宿っていた。


 「その一筆。見事だった」


 「……え? うまく書けなかったよ?」


 「否。拙いとか達者などという浅薄な尺度ではない。

 その線には、理屈では測れぬ『自由』があった。己の感情と筆が一体となっていた。……それこそが、書の本懐である」



 家族は少し驚いた顔で剛を見ていたが、剛はふっと笑みを浮かべた。



 「少し、私にも書かせてくれぬか」



 「う、うん……」


 梨々子が筆と半紙を差し出す。剛は静かに座り、墨をすり始めた。


 音が消えた。


 その所作は無駄がなく、まるで茶室の静けさの中にいるようだった。

 一呼吸。剛は筆を取り、半紙の前に正座する。



 「書とは、己の魂を一瞬に凝縮し、線として顕現させる行為である」



 スッ、と筆が走った。

 一画目、天を裂くかのように鋭く。

 二画目、大地に根を張るかのように揺るがず。

 三画目、空気を撫でるように軽やかに。


 筆が離れた瞬間、部屋の空気がふっと震えた。


 剛が掲げた一枚の半紙には、ただ一文字――


 「翔」


 「……!」


 母が小さく息を呑む。


 兄の孝弘は言葉を失い、父の目が鋭く開いたまま固まっていた。

 梨々子は見上げて、ぽつりと言った。


 「……かぜ、みたい……」


 剛は頷いた。



 「そう。これは“翔ぶ”という字だ。だが、翼で空を舞うだけではない。思いのままに筆を翔ばせる、心の自由をも含む。

 真の書とは、心の翔けるままに筆を運ぶことに他ならぬ」



 静寂が、居間を満たす。


 母はしみじみと呟いた。


 「剛……あなたは、すごいものを見せてくれたわ」


 「……お前が書で人を感動させる日が来るなんてなあ」


 孝弘が苦笑混じりに言うと、父は「ふっ」と一息だけ笑った。


 「でも……さっき、わたしのも褒めてくれたよね?」


 梨々子が尋ねると、剛はふわりと笑みを浮かべ、彼女の頭を優しく撫でた。


 「もちろんだ。あれは、おじさんには到底書けぬ一筆だった。……それが、なにより素晴らしい」



 その瞬間、雄山モードは静かに剛の中から退いていった。


 いつもの剛に戻った彼は、少し照れくさそうに頭をかいた。


 「……はは。またやっちゃたな」


 「いいえ」


 母が微笑んだ。


 「新年の始まりに、ぴったりの筆だったわよ」


 「ほんとに! すごくかっこよかった!」


 梨々子が嬉しそうに言った。


 剛は、再び筆を梨々子に返した。


 「じゃあ、次は君の番だ。何を書こうか?」


 「んー……もっと風みたいなやつ!」


 そう言って、彼女はまた半紙に向かって筆を構えた。



 冬の陽光が差し込む中、家族の新しい一年が、静かに始まっていた。

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