第七話:夕餉の蕎麦
大晦日とはいえ、どこか普段と変わらぬ空気が家の中に流れていた。
こたつに座ってテレビをぼんやり眺める梨々子の背中。父は無言で新聞をめくり、母は台所で小さく咳き込んだ。剛はその音を聞いて、そっと立ち上がる。
「母さん、今日の蕎麦は俺が作るよ」
母は振り返り、少し困ったように笑った。
「いいのよ、大晦日なんだし。お蕎麦ぐらい、私が……」
「いや、そういうときこそ、俺に任せて。……少し、座っててくれないか」
母は一瞬、剛の顔を見た。何かを感じ取ったように、深くは言わず、頷いて椅子に腰かけた。
冷蔵庫の中には、ちょうど打ちたての蕎麦があった。母が近所の蕎麦打ち教室で分けてもらったものらしい。だが、そのままでは芸術にはならない。粉の魂に火を通す儀式が必要だ。
剛は、鍋を出し、湯を沸かし始めた。
その瞬間、音がした。頭の奥で、「ピィィィン……」と、鋭い音が。
視界の輪郭が研ぎ澄まされ、肌に当たる湯気すら重さを持ち始める。
指先に力が宿り、感覚が研ぎ澄まされる。
雄山モード――発動。
剛の瞳が静かに光を帯びた。
湯が沸いた。だが、すぐには蕎麦を入れない。湯の対流、鍋底の気泡、空気中の湿度――全てが正しい瞬間を待っている。
「……今だ」
短く呟き、そっと蕎麦を手に取り、湯へ滑らせる。
「湯に沈めるのではない。蕎麦を湯の懐に抱かせるのだ……」
麺が一本一本、微細な動きを見せる。表面のぬめりを逃がさぬように、しかし芯まで熱を通すように、剛は五感を駆使しながら時間を計る。
湯の音が変わった。
「――刹那」
鍋から上げ、冷水で〆る。だが、今日の蕎麦は温かい蕎麦だ。〆た後、すぐに温かいつゆに潜らせる。
「熱と冷が交わる。これは対話であり、調和の儀式だ」
つゆは母の作り置きの出汁に、剛が手を加えた。昆布の旨味を足し、醤油を一滴、ほんの一滴引く。その僅かな変化で、味に奥行きと陰影が生まれる。
器に蕎麦を盛る。薬味は葱と柚子皮、そして少量の揚げ玉。
「余計な華美は不要。必要なのは、静謐な品格だ」
「できたぞ」
居間の家族たちに、剛がそう声をかける。
配膳された器の中から、芳醇な香りが立ちのぼる。
「わぁ……いい匂い……!」
梨々子が目を輝かせた。
「じゃあ、いただきます」
母が言い、皆が箸を取った。
――そして、静寂。
音が消えた。
啜る音、咀嚼の音、呼吸の音、全てが薄れていく。
「……これは……」
父が珍しく、箸を止めた。目を細め、まるで遥か昔の何かを思い出すように。
母は目を潤ませながら、そっと言った。
「この味……どこか、懐かしいわね……」
そして、兄――孝弘が、ぽつりと呟いた。
「……あいつの、蕎麦に似てる」
誰も言葉を返さなかった。
ただ、しんとした空気の中で、湯気だけが静かに揺れていた。
兄の妻――梨々子の母。
二年前、病に倒れ、帰らぬ人となった。
その後、しばらくして剛は実家に戻ってきた。
家の空気が変わった。少しだけ、静かで、少しだけ、優しくなった。
「おじちゃんの……おそば、あったかいね」
梨々子の言葉が、まっすぐに響いた。
「そうか。なら、よかった」
剛はそう言いながら、静かに微笑んだ。
雄山モードの面影が、すっと消えていく。
夜は更けていく。
食後、父は一言も言わずに洗い物を手伝った。母は微笑みながらお茶を淹れ、兄は小さく「ありがとう」と呟いた。
梨々子は剛の隣で、こたつに潜りながら、するすると絵を描いていた。
蕎麦の丼と、家族の顔が並んでいた。
「おじちゃん、また作ってね」
剛はその小さな頭を、そっと撫でた。
「いつでも、作ってやる」