第六話:帰路と余韻と、少しの反省
忘年会の熱気が冷めやらぬまま、スナックの扉を押し開けた剛は、冷たい夜風に顔を撫でられた。
「ふぅ……」
ネクタイを緩め、深く息を吐く。顔には、酔いの紅潮と、どこか抜けきらない“気配”が残っていた。
駅までの帰り道。会社の同僚たちは、それぞれタクシーや終電へと散り、剛は一人、肩を丸めて歩く。
──雄山モード。
四十歳の誕生日を境に、彼の内から突如現れる“別人格”とも言えるあの状態。
今夜もその異常な感覚が現れた。
鍋の取り分けから始まり、雑炊を完璧に仕上げ、スナックでは冷凍枝豆とポテトサラダを即席の一品に昇華。
極めつけは、カラオケ。
見よう見まねの「化粧」が、なぜあそこまで抑揚と情念に満ちていたのか、自分でもわからない。
だが、誰もが静まり返った。酒の入った社会人たちの、あの反応は演技ではなかった。
「……なんなんだよ、俺」
ぽつりと呟く。誰もいない夜道。自分にしか聞こえない声。
雄山モード。それは理屈では説明できない、“知と芸と感性”の塊だ。
怒りを含んだ威圧、確固たる審美眼、妥協を許さぬ職人魂――。
だが、それはあくまで“剛”ではない。
ただの四十歳、童貞、地味なIT会社職員の佐藤剛だ。
今日も鍋の具材と火加減に異常にうるさく、スナックでは厨房でもないのに一品を仕上げ、最後には歌で場を支配した。
あの場の誰かに、こう思われていないだろうか?
「……こいつ、面倒くせえな」
ほんの少し、そんな不安が胸をよぎる。
雄山モードの時はあれほど強気だったくせに、通常モードの自分は途端に自信がなくなる。
どこか、恥ずかしさすらある。
(けど……)
と、思い出す。
雑炊を口にした同僚の三浦が「うまっ……!」と漏らした声。
スナックのママが、作り方を教えてくれという目。
カラオケの後、拍手を躊躇した同僚たちが、最後にはひとり、またひとりと手を叩いた場面。
あれらは、決して無駄ではなかった。
「まぁ……良かったんじゃねえの」
ようやく剛は、ポケットから家の鍵を取り出す。
玄関の灯りはもう落ちている。家族はすでに眠っているのだろう。
誰にも聞かれることなく、ひとりつぶやく。
「もしかしたら……良いことしてるのかもな、俺」
玄関を静かに開け、靴を脱ぐ。
ふと、居間のテーブルに目をやると、そこには梨々子の描いた絵が置かれていた。
“おじさん、かっこいい!”
そう書かれたメモとともに、剛が鍋を持って笑っているイラスト。
「……なに描いてんだよ、ったく」
その頬が緩んだのは、誰にも見られていないからこそだった。
佐藤剛、四十歳。
童貞だが、ただのIT会社職員ではない。
時折、世界で最も料理に厳しく、そして深く愛する“雄山モード”を持つ男。
その夜、彼はこっそり冷蔵庫の中を見て、明日の朝食を考え始めた。
その表情は、少しだけ“あの男”に似ていた――。