第五話:魂の歌唱、夜を震わす
「剛さん、一曲どうっすかー? さっきの料理、もうみんな虜ですよ!」
酔いのまわった後輩が陽気にマイクを差し出す。スナック「ローズ」は今や完全に打ち解けた空気に包まれ、店内の誰もが笑顔だった。
だが、剛はそのマイクをじっと見つめ、静かに問うた。
「カラオケ……というのか、これは」
その声に、周囲がピタリと静まる。
「え? あ、はい……その、歌うやつです。知らないっすか?」
「いや、知識としてはある。が、私が……このような、電子機器の伴奏に合わせて歌うなど……」
剛は目を閉じた。
(これは俗か、芸術か――)
芸術家たる者、己の美学を貫かねばならぬ。
安易に乗るべきではない。
だが――
(挑まずして、“下賤”と決めつけるなど、あまりに浅ましい。己が口にするものに、真剣に向き合わずして、何が芸術家か)
ふ、と微笑みすらせずにマイクを取り上げると、リモコンを手にしたママに静かに告げた。
「……中◯みゆき、『化粧』を頼む」
「……け、けしょう? あの、失恋のやつ?」
一瞬空気が止まり、誰もが状況を読み違えたような表情を見せた。
だが、すぐに画面が切り替わり、イントロが流れる。
静寂の中、剛の声が落ちてくる。
低く、静かに――
「化粧なんてと思ってきたけれど……」
その瞬間、空気が変わった。
場末のスナックにいるはずの中年男の声が、突然、深淵を覗かせたのである。
無機質なカラオケの伴奏が、彼の声を受けて情念の舞台に昇華された。
深く、しみ入るような声色。
一言一言が、過去の誰かを悼むかのような情感を帯び、誰一人として笑う者はいなかった。
部長はビールを口に運ぶ手を止め、
ママは氷をグラスに落とすのを忘れ、
他の客たちは箸を止めて見入っていた。
「君の前では 化粧が流れる……」
サビでほんの少しだけ音量が上がる。だが、それは叫びではない。
抑制された激情が、まるで内に押し殺された愛情そのもののように、観る者の心をゆっくりと締めつけた。
やがて曲が終わると、剛はただ静かにマイクを置いた。
誰も動けない。
誰も言葉を発せられない。
その静寂を破ったのは、店の隅でひとり飲んでいた常連のお姉さんだった。
「……あんた……歌手かい?」
剛は首を横に振る。
「私は、芸術家ではない。ただ、己の矜持に従い、声を発しただけだ」
その言葉に、一拍の沈黙のあと、拍手が湧いた。
気づけば、店内の全員がスタンディングオベーションとは言わぬまでも、誰もが手を叩いていた。
後輩の加藤が小声で呟いた。
「……剛さん、マジで何者なんだ……」
しかし誰も、その疑問には答えなかった。
剛――いや、雄山モードの剛は、既に席に戻り、グラスの中のウイスキーを静かに傾けていた。
彼が何者か、もはやどうでもよかった。
そこにはただ、“本物”の芸があった。それだけで、充分だった。