第二話:定食屋、戦慄す
昼休み。
剛は職場の同僚たちに誘われて、会社近くの定食屋「まる福」に向かっていた。
「いや〜、まる福はコスパ最強だよな。700円でメイン一品に小鉢と味噌汁ついてくるとか、今どきないよ」
営業の田村が嬉しそうに語る。剛は黙ってうなずいた。先日、目覚めた“異変”のことを誰にも話していない。言えるはずもなかった。
40歳、童貞――そしてなぜか、突然「雄山モードになる」謎のスイッチが発動するようになったのだ。
朝食では奇跡的に母の料理に何も言わずに済んだが、自分でも制御不能なスイッチに、内心では怯えていた。
「いらっしゃい〜、お好きな席どうぞ〜」
店主の声に迎えられ、剛たちは小上がりの席に着く。壁には手書きの「本日の日替わり:アジフライ定食 700円」の張り紙。
「俺それで」
「同じく!」
剛もつられてうなずき、注文が通る。
「剛くん、この前誕生日だったらしいじゃん。40歳? ついに大台だね〜」
「うん……まあ、なんとか」
斉藤の軽口に笑って返すが、内心では警戒していた。あの謎の“雄山モード”がまた出てこないよう、なるべく感情を平坦に保とうとしていた。
――だが、その努力は、10分後にあっけなく破られる。
アジフライ定食が運ばれてきた。
「お待たせしました〜」
配膳された瞬間、剛の目が皿に釘付けになった。アジの揚げ色、小鉢のきんぴら、味噌汁の湯気、添えられたキャベツ。……全てが見えてくる。
一瞬、呼吸が止まる。
いや、止まったのではない。意識の深層が、また覚醒したのだ。
剛は静かに、まるで儀式のように箸を取り、アジフライに一口かぶりついた。
次の瞬間だった。
「――これは……」
同僚たちの談笑が、ぴたりと止んだ。
剛が、何かを悟ったように顔を上げたのだ。
「おい剛、なんかあった?」
「……素材は良い」
「えっ?」
「アジの身質、脂の乗り、申し分ない。築地……いや、今は豊洲か。南ブロックの中規模仲卸からの仕入れと見た。たぶん“丸幸水産”。違うか?」
同僚たちは目を丸くした。誰もそんなことは聞いていない。
だが剛の眼差しは真剣そのものだ。
「……しかし、油が問題だ。今日の油は、一昨日から継ぎ足しているな?」
配膳係の店員が一歩引く。
「油の酸化臭はわずかだが、アジの香りを邪魔している。高温で揚げたのは良い。だが……揚げすぎだ。180度で揚げ時間10秒オーバー。中の水分がわずかに逃げている。サクではなくガリに寄ってしまったのは……実に惜しい」
斉藤が目を見開いた。
「お、おい剛……?」
剛は続ける。
「タルタルソース。マヨネーズの選定は良い。甘みを出すために玉ねぎを刻んでいるが、これは玉ねぎではなく、らっきょうの方が良い」
「らっきょう……!?」
「それと、味噌汁は出汁の取り方が甘い。昆布出汁は良いが、鰹節が薄い。煮干しを少し加えれば、香りが立つ。味噌は信州味噌だな。塩気と香りのバランスは及第点」
「……」
周囲の客も何事かと振り返り始めた。
「……だが」
剛はふっと顔を緩めた。
「この定食が、たったの700円であるということ。……この一点において、私は評価せざるを得ない」
「……お、おう」
「価格とのバランスを考慮すれば、現状でも十分に“許される味”である。むしろ、価格を抑えつつこの素材を使い、この一品を出せる貴様の努力。私は、それを見過ごしはしない」
「……」
配膳の店員は、口を半開きにしたまま、剛を見つめていた。
剛はふと、別皿のきんぴらに目を落とす。
「この小鉢……」
静かに口へ運ぶ。
「……素晴らしい。牛蒡の火入れと甘辛の煮詰め具合が絶妙。ここにこそ、この店の魂が宿っているのかもしれん」
そして、ようやく剛は箸を置いた。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
沈黙。
長い沈黙のあと、田村が小声でつぶやいた。
「な、なんだったんだ今の……」
「なんか……別人じゃね?」
「剛くん……お前、料理評論家だったっけ……?」
剛はうつむき、小さな声でつぶやいた。
「ち、違う……俺は、ただの……ただの……」
――サラリーマンです。
とは言えなかった。
謎の“雄山モード”の力は、剛の意思とは無関係に発動し、そして的確に料理を言い当て、叱咤し、称賛してしまう。
しかも、ものすごく説得力があるのがまた厄介だ。
昼休み、会社に戻る道すがら、剛はひとりつぶやいた。
「……今の俺は……一体、何なんだ……」
冬の光が、剛の背中にさみしく差し込んでいた。