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第一話「朝餉に賢者、否、雄山は目覚める」

40歳、独身、童貞――そんな肩書きを抱えながら、佐藤剛は誕生日の深夜も会社のデスクに座っていた。外見は普通の中年男性。地味な服装に、やや疲れ気味の顔。



ーーカチリっ

12時の針を指すとき聞こえたような気がした。



「お前は……賢者ではなく海◯雄山になる」






剛はその朝、いつもよりも少しだけ早く目を覚ました。


枕元のスマートフォンが知らせたのは「40歳」の誕生日の翌日。だからといって、特別な予定があるわけでもなく、いつも通りの平日である。職場に行って、黙々と仕事をして、帰ってきて、風呂に入って寝る。日々の繰り返しは、もう身体の奥に刻み込まれていた。


「……ふぁぁ……なんか、今日は……」


剛は起き上がり、鏡の前に立った。髪は相変わらずの寝癖で、寝起きの顔はどこにでもいるような中年男性。だが、ふとした瞬間、何かが脳の奥でパチンと弾けた。


「……なにか、違う……」


寝癖を直しながら、彼は階段を降りる。いつも通りの朝。いつも通りの食卓。母が台所で味噌汁を煮ている音が聞こえる。兄・孝弘は新聞を広げ、姪の梨々子は学校の準備をしながらパンをかじっていた。



「おはよう、剛。ごはんできてるよ」


「うん……ありがと」


今日も何のイベントもない、ただの冬の一日。

剛は椅子に座りながら、ふとテーブルの上の小鉢を見つめた。


「……卵焼き、甘い。いや、これはもうほとんどスイーツだよ。玉子プリンって名前に変えた方が……」


「はいはい。つまみ食いして文句言うなら自分で作りなさい」


母は笑ってそう言いながらも、手慣れた動きで茶碗にご飯をよそった。


(……確かに。文句ばっかり言ってるの、良くないよな。ちょっと反省)


そう思いながら、剛が箸を手にした瞬間、再び脳の奥が――いや、魂そのものが、ギィィィンと震えた。



その瞬間———



「これは……なんだ……?」


突如、体の奥から何かが突き上げる感覚。背筋がピンと伸びる。視界が冴えわたる。鼻腔をくすぐる出汁の香りが、異様なまでに立体的に感じられた。煮干しの削り方、昆布の火入れ具合、醤油の種類と分量、それらが瞬時に解析される。食卓に並んだ卵焼きにさえ、火入れの秒数が映像として脳裏に流れ込んでくる。




剛の目が見開かれた。口が勝手に動く。



「……母さん」



剛の声が低く、そして重くなっていた。


「なんだい?」


「この味噌……越後の白味噌ではないな。八丁味噌との中間、やや熟成の浅いものを使っているだろう。出汁は昆布と煮干しの併用。分量の加減、丁寧だ。焼き鮭は脂の乗りも申し分ない。……だが、全体の調和を崩さぬよう、焼きの火加減には、もっと繊細さが欲しいところだな」


キッチンに沈黙が落ちる。


梨々子がぴくりと反応し、「今の誰……?」と呟いた。

母は手を止めて振り向く。


「……剛?」


「……これは、家庭の味としては極めて高水準にある。だが、料理とは己を写す鏡だ。母さんが疲れているのだとしたら、この味はそれを表している」


「えっ……?」


「いや、母さんの苦労を貶すつもりはない。むしろ感謝している。料理がそれを物語っている。そういう意味で、これは素晴らしい」


——そして彼は深く一礼した。


「ごちそうさまでした」


「……お、おう」


母は目を丸くし、兄・孝弘は新聞をめくる手を止め、梨々子はパンを口に運ぶのを忘れている。



剛はふと我に返り、目をぱちぱちとさせた。


「……あれ? なんか、急に礼儀正しくなってた……?」


「いや、おまえ、誰だよってぐらい口調変わってたぞ」と兄の孝弘。


「さっきまで卵焼きに文句と言ってた人とは思えないから」と母も苦笑い。


剛は、自分が何を言ったのか思い出そうとするが、記憶があいまいだ。


(……でも、なんかすごい丁寧に料理を分析して、すっごい失礼にならないように褒めてた気がする)


心の中で「やばいなこれ……」と呟いた剛だったが不思議と心は晴れやかだった。


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