伯彦の旅日記 孤独の旅路2025
§序章
一月某日
「来た」
そう、今年も山梨銘醸の蔵開きの日が近付いて来た。
今年の開催日程は三月の二十日から二十三日までの四日間。
「所長、三月二十一日は有給を取得する予定です」
「ああ、例のあれやね?」
「はい、今年は昨年発見した、別のお菓子も購入して来ますよ」
「楽しみにしてるで、決定したら申請書を出しといて」
「はい」
理解のある上司は得難い存在だ。
こうして今年の遠征に向けて、私は準備期間に突入した。
二月下旬
「あいつも誘うかな」
隣県に住む友人へ蔵開きの日程が記載されている公式ページを電子メールで飛ばす。
後は返信を待って有給休暇を正式に申請するだけだ。
「二月末までには返信あるかな?」
友人も大概は忙しいので日程が合うかは微妙なところである。
二月末
話は変わって私は現在、「信長の野望・出陣」を愉しんでいる。
「出陣」は全国各地の拠点を征圧しつつ、家臣を育成するアプリなのだが毎月のようにイベントが開催される。
三月初旬の催しは「日本の城フェス」と「高山本線にお出掛け」の二つ。
この前週は都内か横浜にお出掛けのイベントだったが、そちらはやり過ごすことにした。
催しはの内容としては現地へ赴いて、ゲーム画面に現れる特殊施設で訪問を申請することにより限定報酬を受け取る。
私の現住所である北陸から都内とその近郊は日帰り訪問が難しい。なので、高山本線であればギリギリ日帰り可能な距離である。
翌週の仕事の絡みで山奥に行く予定もあるので、それらの下見も兼ねて計画を立てる。
高山本線の高山駅、下呂駅、岐阜駅を訪問するのだが、「城フェス」会場は名古屋市内だ。
名古屋市内に昼頃に到着するよう逆算しながら予定を組み立てる。
「よし、パーペキざます」
おじさん、それとっくに死語ですよというツッコミはご遠慮願いたい。
§高山本線にお出掛けの巻
三月一日
日付が変わると同時に私は行動を開始した。
朝食は摂らない予定なので、夜中に軽く食事をする。
持ち物の確認と、経路の最終確認を終えて、出発だ。
二時に自宅を出た。
今年は大雪だったが、既に除雪も終わっていて路面状態はそれほど悪くない。
岐阜県境に近い道の駅が最初の目的地である。
「出陣」アプリでは起動中に委任を用いることで道中にある様々なものを拾得できる。
それと拠点の征圧も「遠征」を行うことで全国各地に部隊を派遣できるので、居住地から遠い土地も征圧可能だ。
それらの処理を行う目的も兼ねて、道の駅で休憩を取る。
四時
アプリ内の日付が変わった。
日替わりの再開配布を受け取り、「遠征」部隊の次の行き先を決める。
私自身が遠征を行う時は道中の拠点の登録数を稼ぐ為にも、部隊の「遠征」時間は長い方が楽である。
当初は考えなしに自動に設定していた為、頻繁に休憩という名の足止めを食らったものだ。
次の目的地は高山市内にある道の駅だ。ここへの到着予定時刻は約二時間後なので、それに合わせてやや長めの「遠征」を設定する。
道中、県境までの道路は工事車両の往来が多い為に、ひび割れや汚れが目立つ酷い有様だった。
岐阜県側に出る頃には私の自家用車はスッカリ汚れてしまった。
六時前、飛騨清見に到着する。
道の駅で拠点征圧を行い、今回の最初の目的地である高山駅に向かった。
高山市内は江戸時代に金森長近が入って街並みを整えたこともあって、碁盤の目のように整備されている。
道の駅から向かうと国道を越えて、踏切手前を曲がると行き易い。
駅前のロータリーに進入して路傍に停車する。アプリ画面には特殊施設が映し出されている。これは委任では拾得できないので委任を解除して、押下。
無事に登録が終わった。
次の目的地である下呂駅に向かう前に給油に向かう。
田舎あるあるなのだが、土日はガソリンスタンドが休業している場合もあるのだ。
国道沿いのガソリンスタンドへ立ち寄り、その単価を見て驚いた。
「ひゃ、194円?」
この時期、私の地元では174円だったので、その単価は本当に驚いた。それでも給油しなければならない。
セルフで給油して、下呂駅に向けて出発した。
八時前
正直言って、高山から下呂までの道のりは単調で特筆することもない。
下呂駅でも無事に特殊施設を押下できた。ただ、早朝の時間帯でも人の行き交いが多く長居は出来そうにない。私はすぐに移動を再開する。
後は岐阜駅を訪問すれば「高山本線へお出掛け」イベントは終了だ。
しかし、岐阜駅の訪問は帰路に行う予定なので、「出陣」アプリのもう一つの機能である「名城訪問」を実行に移す。
「名城訪問」と「古戦場訪問」も現地へ足を運ぶ必要がある。
アプリでは岐阜県内にある名城は六城。今回はその一つである、美濃金山城への訪問を計画に組み込んでいた。
下呂駅から国道へ出る。
ここでどちらに曲がるか迷った末に、左折した。
取り敢えず、どこかに停車してナビの設定をしたかったのだが、適当な場所がなかったのである。
しばらく車を走らせて、待避所に停車する。
美濃金山城へは、先程迷った交差点を右に行けば良かったようだ。
だがナビの案内ではここからでも別の経路で最終的に合流して美濃金山城に到着するようなので、私はナビの案内に従って出発する。
交通量の少ない山道は信号もないので快適である。
順調に進行して、十時前には美濃金山城に到着した。
美濃金山城は斎藤道三の養子が築城し、織田信長が奪取して家臣の森三左衛門可成を城主に据えた。
ここは木曽川上流の要所で、東濃を支配する上で重要な役割を果たす。
可成が近江宇佐山城の合戦で討死すると、同じ戦で長男も討死していた為に次男の森勝蔵長可が城主となった。
長可は性向が激しく鬼武蔵と呼ばれる剛の者だった。
甲斐の武田氏が滅びると長可は信濃川中島に転封され、代わりに城主となったのは弟の成利。
森成利と言われても誰のことか分からないと思うが、森蘭丸と言えば即座に分かるだろう。
蘭丸は城主となったその年に本能寺の変で討死し、生前も信長の近習として生活していたので、美濃金山城に居た期間は極めて短かったと思われる。
本能寺の変の後、川中島に転封していた兄の長可は領地を捨てて逃亡し、美濃金山城に舞い戻っている。
長可は離反した諸将を攻撃し、秀吉が政権を確立する頃には東濃から中濃にかかる一帯を支配下に置いており、その中心的な役割として美濃金山城は機能した。
長可が城主であった頃は秀吉と家康が対立していた事情もあり、美濃金山城は南方に向けて防禦機能が考慮されている。
長可が小牧・長久手の合戦で討死すると、その弟である忠政が城主となり、慶長年間に忠政が川中島に転封となるまでの長期間、美濃金山城は森家の居城とされた。
森家が去った後は犬山城主が兼帯したが、関ヶ原の合戦後に美濃金山城は破却されてしまう。
本丸近くまで自家用車で登ったが、足首が痛くて無理が利かなかったので本丸跡は見ずに付近の施設を見学した。
ここから名古屋を目指す。
ナビに「城フェス」会場を設定して、その案内に従って走行する。
表示された到着予定時刻は十二時過ぎ。道中の混雑や不慮の事態で遅れることを加味すると十二時半ぐらいの到着になるだろうと予測した。
移動中、友人から電子メールが届く。山梨銘醸の蔵開きには折り悪く都合がつかないようだ。残念だが仕方ない。
私は渋滞に巻き込まれながらも、どうにか「城フェス」の会場近くに辿り着いた。
しかし、会場近くの駐車場が軒並み満車である。
「空」表示の駐車場に入るも、中は満車という想定外の事態に見舞われつつも、気持ちを切り替えて駐車場探しを継続。
足首が痛いながらも歩けないことはないので、会場から離れた駐車場に入庫した。
会場の位置を確認して徒歩で向かう。所要時間は十五分程度。
「城フェス」会場の特殊施設を押下して、アプリ内での催しは達成である。
後はこの達成画面を会場にいるゲーム会社のスタッフさんに確認してもらえば、記念品の受け取りができるはずなのだが、どうやら「城フェス」会場に入場しないとスタッフさんには会えない様子。
入場料を支払って、会場内へ。
東海各地の城跡を持つ自治体関係者が出展しており、信長や家康関連の事物が多い。
軽く見学して、ゲーム会社さんのブースに行くと、私と同じように記念品を受け取る方がいらっしゃった。
無事に記念品を受け取り、隣の書籍ブースへ。
最近は書店にも行けていないので、目に付いた城関連の書籍を二冊購入。
現在執筆を進めている物語の参考資料としても有り難い出会いだった。
それから会場内をゆっくりと見学して、必要と思われる展示品に関しては撮影して情報を集める。
もう少しゆっくりしていたかったが帰りの時間を考えると、早めに出るのが幸いである。
私は駐車場に戻るべく、来た道を引き返した。
二十分後、私は自家用車を停めた駐車場を探して歩いていた。
携帯の地図アプリを開く。どうやら一本早く曲がってしまったらしい。正しい道順で自家用車を停めた駐車場に戻って来れた。それにしても、我ながら汚い車だ。冬場は道路の汚れが直撃するのだが、雪で洗い落とせている間は良くても、晴れ間の続く太平洋側に出て来ると汚れが目立ってしまう。
気持ちを切り替えて料金を精算しようとするも、新札を受け付けてくれない。
やむなく近くの自販機で飲み物を購入して小銭を作り、駐車場を後にする。
ここから岐阜駅に向かうには、国道を走れば楽である。
かつて名古屋に遊びに来ていた頃を思い出し、かなりの速さで移動できると目論んでいたが、現実は甘くなかった。
二時間後、私は未だに木曽川を渡れずにいた。
名古屋から岐阜までは一時間もあれば到達できるはずなのだが、倍の時間を使っても木曽川すら渡れないのは想定外である。
木曽川を渡れば、岐阜駅までは目と鼻の先である。十五分程度で駅前の駐車場に到着する。
一時的に駐車する分には無料で利用できるので、アプリの特殊施設に押下して「高山本線へお出掛け」イベントは完全達成となった。
帰り道は一昨年に開通した道路にしようとナビの設定を試みるが、そこへ至る道路が土砂崩れで通行止めとなっていた。
やむなく岐阜駅より北上して山県市から美濃市経由で帰る経路に切り替える。
東海環状線が全線で開通すれば更に便利になると思うが、一宮付近の渋滞が解消されなければ変化は小さいかもしれない。
東海北陸自動車道を北上して、私は帰宅した。
§出陣の準備
三月中旬
月初めの遠征より二週間、私は山奥にいた。
インドの山奥で修行すれば提婆達多の魂が宿るかもしれないが、日本国内ではその希望も薄い。
片道一時間の通勤時間なので朝早く出発して、夕方遅くに帰宅する生活は私の執筆時間を奪う。
更に九日には同僚と共に富山へ。
その途中で寄った大衆食堂で大盛りの洗礼を浴びて、同僚は撃沈。
夜遅くに帰宅する運びとなった。
この期間で私は有給休暇を正式に申請して、山梨遠征の日程を詰めていた。
「やはり、名城訪問は外せない」
単独での移動なので、かなり無理をしても大丈夫だ。
岐阜県、愛知県、静岡県内の名城と古戦場を抜き書きして、取捨選択を行う。
三重県の長島一向一揆の古戦場も候補に挙げるか迷ったが、大垣から遠回りして名古屋市内に入る経路は、流石に厳しい。
最終的に岐阜県内では大垣城と墨俣城の二箇所に絞り込む。
愛知県内は、名古屋城、桶狭間、岡崎城、吉田城、古宮城、野田城、長篠城と古戦場の欲張りセット。
更に静岡県内は、浜松城、三方原、高天神城、掛川城、諏訪原城、駿府城を候補とした。
それぞれの移動時間を考慮して、余裕がなければ予定変更も辞さない構えだ。
十六日は日曜だが出勤して、代休を木曜日に設定。
金曜日は山梨遠征なので、夜の早い時間に出発を設定する。
十九日
仕事を終えて事務所に戻ると、山越えの国道が土砂崩れで通行止めになったと聞かされる。
私は別の経路を使う予定だったので、問題はない。
帰宅後、道路情報センターのホームページで情報収集。
私が使う予定の経路には何も不具合はない。安心して就寝。
§強行軍
二十日、木曜日
午前中に洗濯を済ませ、夜に備えて就寝。
夕方には起床してシャワーを浴びる。
夕飯を摂り、計画の最終調整を済ませる。
保冷袋に保冷剤を入れれば準備万端だ。
二十一時、出発。
一昨年に開通したトンネルを利用して岐阜県側へ抜ければ時間を大きく節約できるし、大垣城までは目と鼻の先である。
しかも昨年にはもう一本のトンネルも開通して、かなり便利になった。
時間的余裕を得ながら山道を駆け上がる。
道中「通行止め」の表示が目に入るが、地名では正確な位置が不明である。
そもそも、これから向かうトンネルは冬期間の通行止めを解消する目的で開通した経緯がある。その道路が通行止めになるなど本末転倒も甚だしい。
そのような事を考えながら走行していると、目の前に通行止めの看板が現れた。
「夜間通行止め」
無情な文字である。だが迷っている時間も惜しい。すぐさま転回して、来た道を戻る。
かくなる上は高速道路を利用して滋賀経由で岐阜に向かうしかない。
二十二時に高速道路に上がると、慌てず騒がず冷静に計画を練り直す。
二十一日、零時
伊吹PAで休憩して、大垣城と墨俣を諦めた。
「名古屋城と桶狭間か」
走行しつつ考える。どう考えても時間が足りない。そもそもの計画が欲張りセットだったのだ。
私は名古屋までなら日帰りも苦ではないので、名古屋城と桶狭間も諦めて、岡崎城に直行することにした。
二時前
岡崎城に到着するが、周囲は真っ暗で城の様子は分からない。
アプリの画面から岡崎城の訪問を登録する。
燃料が心許ないので近くのスタンドへ移動。給油を終えてから次の予定地である古宮城や長篠周辺の道路を確認するが、通行可能か判然としない。
私は高速道路から遠くなる名城や古戦場を諦める作戦に変更した。
よって次の目的地は浜松城である。
三時過ぎ
浜松市内を南下して、浜松城に到着。アプリの訪問登録を行う。
三方原を検索してナビの案内に従って移動する。
三方原は古戦場なので、これと言った目印も無い。アプリ内の地図と照合して古戦場の登録可能地点まで来たが、それらしい施設もない。
私は道路の脇に車を停めて、少し考え込む。
以前も移動して来て、訪問登録ができなかった事例があった。そのことを思い出して、アプリの再起動を実行する。
「やっぱりか」
再起動してデータの読み込みを行うと、登録可能になった。
ここで手間取ってしまい時刻は四時。
三方原PAから高速道路に上がると、私は静岡目指して走行した。
六時
夜が明けて街が目を覚ます頃、私は駿府城付近にいた。
訪問登録を終えて、近くのコンビニに立ち寄る。軽い朝食の調達と、トイレの時間だ。
朝食を済ませながら、この先の経路を確認する。
私の車載ナビには静岡から山梨へ抜ける新しい道路の情報がない。
新清水ジャンクションから北上して南部町へ抜ける道路が開通したのは二年前のはずだ。
念入りに清水インターの位置を確認して出発する。
国道へ右折しようと交差点内に進入するが、私が思っていた場所に道路がない。
気付いた時には右折に失敗して交差点を通り過ぎていた。
早朝の時間帯で交通量が少なかったので、少し先で転回する。
初見殺しの交差点は久々である。
通常、ほとんどの道路は高架橋の真下は通れない場合が多く、両脇を通行可能にしている。
しかし静岡のここは高架橋の真下を通して、両脇が通行不可なのだ。
私は初めて見る道路形態に驚きつつも国道を進む。
しばらく進むと左側車線が混雑して来た。私は比較的交通量の少ない右車線を進む。
工事中なのか、車線区分で規制が行われ、左右に離れる。次の交差点で合流したが、交差点先がインター入り口である。
ありのまま、今起こったことを話すぜ!
私は第二通行帯を進行していると思っていた。だが、赤信号で停車すると第三通行帯になっていた。
何を言っているか分からないかもしれないが、私も何をされたのか分からない。
超魔術とか超スピードとか、そんなちゃちなもんじゃねぇ。
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。
簡単に説明すると、清水インターの入り口は私の車線から二車線を跨ぐ必要がある。
冗談は道路構造だけにして欲しい。何なら案内板すらなかった。とても不親切な状況なので、私は清水インターを素通りした。
即座に気持ちを切り替え、清水いはらインターを目指す。
道中は中央線もないほどに幅員が狭いので、私は道交法に従って左側端を通行するが、対向車は中央付近を堂々と迫って来る。私に回避する余地はなく、相手側には五十センチメートル以上の余地がある。何とかギリギリですれ違った。恐らくは日常生活や仕事でも他人を気遣えない方なのだろう。
自動車の運転には性格が出るので、下手な運転やマナーの悪い運転は仕事や日常生活に直結していると考えて差し支えない。
この話は別稿で取り上げる予定である。
清水いはらインターへは案内板に従って無事に到達した。
だが、ここもミカン畑のど真ん中。案内板がなければインターチェンジの存在を疑問に感じるぐらいの場所である。
静岡市内で起こる出来事に私は「どうしてこんな目に、に、に」の思いだ。
さて初めて通る道路では私は左側通行を遵守する。ゆっくりと行き先を確認しながら走行するので、急いでいる後続車に進路を譲る気遣いだ。
清水いはらインターから山梨県へ向けて順調に走行する。
後はこのまま進行すれば何も問題はない。
無事に道の駅なんぶへ到着した。
ここへ来るまでにアプリへ登録した拠点を征圧する。
そうしながら瞼を閉じて目を休ませた。ここまで十時間近くも運転の連続だったので、少し疲労が蓄積している。帰路の行程を考慮すると休める時に休まなければ身体がもたない。
道の駅の施設が開店するまでの一時間近くを休息に充てた。
九時
道の駅の施設が営業を始めた。
私の目当ては茶プリンである。店内を一周しても見当たらない。
来客数はそれほど多くないので混雑はないが、目当ての商品が見当たらないのは焦りを生む。
キョロキョロと店内を見回しながら進むと、保冷器に「茶プリン品切れ、次の入荷は22日」と書かれた紙が貼られていた。
ここまで来てそれは凹む。
私はキャンプアニメのキャラクターとコラボしたお茶と、朝食用の小さな弁当を購入して施設を後にする。
こんなことならば、先に進めば良かった。
弁当を胃袋に納めて、出発する。
次の目的地は南アルプス市である。ロールケーキで有名な店が目的地だ。
一時間もせずに到着。
早速、店内を物色して、季節限定のロールケーキとレーズンサンドを購入した。
自家用車に戻ると、後部座席に安置していた保冷袋を開く。
ここへ購入したロールケーキや菓子類を入れた。保冷剤があるので帰宅するまでの冷蔵は心配ない。
次はいよいよ本来の目的地である山梨銘醸だ。
南アルプス市からは、のどかな田園風景を眺望しつつ進める道がある。
河岸段丘に近いこの道は、月末にマラソンコースになるらしく、当日の通行止めを予告する看板が設置されている。春先のマラソン大会は花粉症を持つ選手には過酷な状況だろう。
そのような考えを巡らせながら、目当ての山梨銘醸に到着した。
十一時
連休中日の平日なので、山梨銘醸の駐車場はガラガラだ。
無人の第二駐車場に自家用車を駐車して、構内へ向かう。
構内の来客もまばらで、快適に移動できた。
売店は流石にそこそこ混雑していたが、短い所要時間で目当ての蔵出しとお土産を購入する。
それらを自家用車に片付け、次は金精軒だ。
ここの酒粕てらは定番のお土産である。
翌日の職長会で食べるおやつとして、冷凍どら焼きも購入した。
自家用車に戻り、保冷袋へそれぞれを収め、保冷剤を配分する。
更に保冷袋の上に毛布や膝掛けを被せて直射日光を遮った。
これで帰宅するまでの冷蔵は時間との闘いである。燃料の残量から考えて、諏訪で給油するのが最適と判断し、私は山梨銘醸を後にした。
§お城巡り、再び
諏訪湖畔には高島城という城郭があるらしい。
地図で調べると諏訪市役所の近くである。
どこの地域でもほとんどの平城跡は、役所の近くに存在する。
これは明治維新で発足した新政府が、旧支配者である幕藩体制から交替した新しい支配者であることを誇示する為に、城を支配するような場所に役所を設置したことに由来する。
なお城内でも二の丸や三の丸に役所を設置した都道府県や市町村は多くあるが、本丸に県庁を設置したのは福井県だけだ。
名古屋城のように広大な面積があった城跡では、県庁と市役所が三の丸に設置されるのが仕方ないとしても、戦災で焼けた福井城の本丸へ県庁を建設するなんて、他の都道府県では真似できない。
そこに痺れるか憧れるかは、個人差があるだろう。
国道を北上して、諏訪市へ。
高島城の周辺は一方通行路を含むさほど広くない道路で囲まれている。
天守直下に近い場所に駐車場を発見し、出て行く車両と入れ替わるようにして駐車。
天守に近付くと石垣が道路に接していた。通常の城であれば防禦面から考えて、外郭に堀を巡らして敵の侵入を阻むと共に、天守の周囲は櫓や壁で囲って直接には攻撃できないようになっている。現在の高島城の構造では防御力に劣る構造なのだが、築城当時には本丸周辺まで諏訪湖が迫っていたそうで、当時は「諏訪の浮城」の異名もあったようだ。
高島城を築城したのは秀吉配下の日根野半左衛門高吉。彼は日根野頭形兜という兜を開発した日根野五郎左衛門弘就の長男で、父と共に信長に仕えていたが本能寺の変の後は秀吉に仕えていた。
1592年に高島城の築城に着手し、1598年までの短期間で完成させた上、税率は七公三民という重税で領民からは苛政と恨みを買う。
半左衛門高吉は関ヶ原の戦いに際して東軍に味方するが、合戦の直前に病死。父の五郎左衛門弘就が去就を明らかにしなかった上に西軍への内通を疑われ、半左衛門高吉の子である吉明は石高を半減されて下野国壬生へ転封されてしまった。
日根野氏の後に高島城主となったのは在来の武士である諏訪氏である。私見ではあるが、諏訪大社の大祝である諏訪氏を故地へ戻す為に、徳川方は日根野氏の改易を狙ったのではないかと勘繰りたくなる。
故地に戻った諏訪氏は、明治維新を迎えるまで高島城を居城とした。
諏訪湖に囲まれ、城内へ続く道は一本のみという構造は攻め難く、また内から外へも脱出が難しい。
その構造を幕府は幽閉場所として利用したようだ。
改易された松平忠輝の身柄を預かったのを皮切りに、吉良義周も幕府の要請に応じて幽閉されている。
吉良義周は赤穂浪士事件で討ち取られた上野介義央の養子(実際は孫)で、討ち入り事件の後に高島藩へ預けられ、その地で没した。故に墓所が諏訪大社上社の近隣にある寺院となっている。
高島城の構造を見ると、難攻不落の忍城を参考にして築城されたように思う。
秀吉が築城した大坂城も淀川の水運を活用した城の一つで、近代城郭としては明智光秀が築城した坂本城が雛形の一つになるようだ。
高島城趾は公園として整備されているので、短時間ではあるが散策した。
アプリの訪問登録も無事に終えて、帰路に就く。時間的にも厳しいので天守閣の内覧は次の機会にした。
諏訪で給油し、諏訪インターから中央道へ。岡谷ジャンクションで長野自動車道に乗り換えて松本インターで降りる。
余裕があれば松本城も見学したかったが、既に十五時に近付いていたため、このまま岐阜に向けて国道を走行する。
前日からの長時間運転で疲労が蓄積しているので、大型トラック二台の後ろを進む。
長距離移動のトラックはペース配分が良いので、ゆっくり走る時には後続を走行するのが楽だ。
ほぼ一定の速度で進行するので付かず離れずの車間距離を保って走行する。
しかし、私の後続車両がとんでもない下手くそである。
大型トラックでは大きな減速が必要な箇所があるので、私は先んじて減速し、また大型トラックの加速性能が我々乗用車のそれを上回ることもないので控え目に加速していたのだが、後続車両は急に車間距離を詰めて来て追突スレスレになったり、かと思うと大きく車間距離を開けて追走したりと、適正な車間距離を保てない様子。
通常、車の運転では追突しないように前走車両の動向に集中するのだが、今回に限っては私が後続車両に追突されないように気遣う羽目になった。
具体的には大型トラックとの車間距離を普段よりも広く取り、余裕を持たせる。後続車両が車間距離を詰めて追突の可能性がある時には、その余裕を持たせた車間距離を詰めて少しでも追突の危険性を回避する。
それでも危ないことに変わりはない。繰り返しになるが自動車の運転が下手な人は、日常生活や仕事面でも粗忽な振る舞いが多いと思う。
そのような疲れる運転を強いられたまま、県境を越えて岐阜県側に到達した。
料金所を抜けてすぐ、左手にある駐車場に車を入れる。トイレ休憩を兼ねた休息だ。
ここから山道を下って、富山市内へ向かう。
時刻は十六時。
神岡を抜けて富山市内に入る。
普段であれば西へ進んで石川県に向かうのだが、今回は富山市の北東部にある店舗に用事がある。
富山県内で美味しい回転寿司として名前が挙がっていた店舗の支店だ。本店と共に挙がっていたので問題ないだろうと思い、夕飯をこの店舗で摂る予定を立てていた。
十七時過ぎ、無事に到着するが、駐車場がガラガラである。
一抹の不安を抱えながら入店。
結論から言えば、悪くはない。悪くはないが、特筆するほどに美味しい店でもない。
ネタの大きさや、値段などを加味しても、私がこれまでに訪れた店舗と比較して勝る部分がないのだ。
本店に期待しよう。
私は今度こそ本当に帰路に就いた。
富山市内を南下して高速道路に向かうが、曲がる交差点を間違えてしまった。
仕方なく、混雑を避けて砺波まで一般道で進む。
そう言えば砺波市内にも名城があったと思い出して信号待ちで場所を確認すると、既に通り過ぎていた上に、かなりの山の中だ。諦めて砺波インターに向かう。
砺波市内も暫く来ない間に新しい道路が完成していて、記憶頼りでは最適化した経路を辿れなくなっていた。
気が付くと砺波インターから離れるように走行している。ナビの地図を確認しながら経路を修正し、北陸自動車道に上がる。
金沢ぐらいまでは記憶もあるのだが、小松を過ぎて安宅で休憩して以降は、記憶が曖昧である。
疲労が蓄積した状態では判断力も鈍るし、効率も落ちる。ブラック企業が業績を上向かせられない原因は、社員を酷使して作業効率を下げているからだろう。我が身を以て実感した。
二十一時三十分、帰宅。実に丸一日も外出していた。
購入したお土産を冷蔵庫と冷凍庫に振り分け、一息入れる。
外出中に放置していた他のアプリの日替わり依頼を達成すべく気力を振り絞った。
§終章
気が付くと朝の四時だった。
慌ててウマの育成を行い、日替わり依頼を消化する。
この日は職長会議があるので、朝食を摂り、お土産を改めて保冷袋に詰める。職長会の開始時刻は九時だったかなと考えていたのが七時二十分。だが、開始時刻は八時だと思い出す。
大急ぎで出発の準備を整え、家を出た。
最初の信号機で停車したところで会社に電話し、少し遅れるかもしれない旨を伝達。
高速道路をひた走り、会議五分前に会社へ飛び込んだ。
良い子のみんなは真似しないように。
所長へのお土産と、頼まれていたお土産の手渡しをしていると、一人だけ蚊帳の外になる同僚がいる。
「こうやってお土産を配っていて、一人だけ何もないと寂しいよな?」
「いや~、それはそうですけど…」
彼は遠慮がちに言葉を濁す。
「だから、君の分もキチンと用意してあるよ」
「わ、ありがとうございます」
私は抜かりのないよう、彼へのお土産も用意していた。仲間外れは良くない。
会議を終えて、一服する時間が訪れる。
「今回は、みなさんにおやつを用意しました」
私は到着と同時に冷凍庫へ入れていたどら焼きを取り出し、それと共にレーズンサンドを配る。
その時、同僚の携帯電話の呼び出し音が鳴った。
「嫁からや」
「早くも感づかれたか?」
などと笑っていると、彼は外に出て行った。
「ビックリしました。電話に出たら、嫁がそこまで来ていたんで」
「マジか」
戻って来た彼も苦笑いだ。女の勘を侮ると痛い目に遭う。今回は大丈夫だったようだが、私が詳細を公開した場合、巡り巡って暴露大会になる恐れもあるので詳細は省く。
毎度のことながら、私の旅路はムチャクチャである。
昨年も取材を兼ねてあちらこちらへ出掛けていたので、次回はあなたの街に行くかも。
もし怪しいオッサンを見掛けたら、生暖かく見守ってくれたまえ。