星空と出会いに
久しぶりの更新になります。
いつも通りのほのぼのな田中と星見の話です。
田中翔太は走っていた。会社の廊下を、人の合間を縫って走っていた。
定時まで、後二分。廊下を歩く人たちは、見慣れた光景と流そうとしたが、ある違和感を抱く。今日はあの部署への書類の締め日だったかと。いや、むしろつい最近だったではないかと。そう疑問に思ったのも束の間、彼が走っているのはよくあることだと自己解決し、彼らは自分の仕事に戻っていく。人の日常を少し乱して、彼は走る。
急げ。急げ。あの人が帰る前に。きっとすでに退社準備を始めているだろう。急がないと。
走り慣れてしまった経路を駆る。後はエレベーターに乗ればいい。これを曲がった先。
しかし見えたのは、扉が無情にも閉まるところだった。
「ああー!」
思わず叫んだ。ついてない。もう一台も上へと向かい始めている。さらについてない。仕方なく階段に向かう。よりによって三階も上がらなければならない。外回りで疲れた足に鞭打って駆け上がる。
目的の場所に着いた時、いつもの席に、求めた姿は見当たらなかった。
「経理さんは!?」
経理はここにいる人全員に当てはまる呼称だが、彼がそう呼ぶのは一人しかいない。
「今エレベーターに乗ったところですよ」
近くにいた女性の答えに、慌ててエレベーターの方を振り返る。閉まりかけた扉の隙間に、その姿が見えた。
お礼もそこそこに、扉へ飛びつくがすでに閉まった後だった。もうっ、と悪態をついて再び階段に向かい、今度は駆け降りる。
「経理さん!」
会社を出ようとする背中が止まる。
「俺と、星を見に行きませんか!?」
ロビーに声が響き渡った。
星見学は思いっきり顔を顰めた。家に向かう足を止められたのもそうだが、周囲から注目を浴びる羽目になっていることが不快だった。それも目の前にいる男が原因だ。
流石に追いかけてまで書類を渡しに来たのではないだろうと振り返ったのだ。大声で話しかけなくてもよかったろうに。おそらく走ってきた勢いのまま声が出たのだろうが。
忌々しげに、目の前で膝に手を当てて盛大に咽せている男を見遣った。彼は顔を上げると、もう一度同じことを言う。
「なぜ私が君と星を観に行かねばならんのだ」
星見は不服な表情を隠しもせず話す。周りの状況とその顔を見た彼は、すみませんと謝罪してから、その理由を話し始めた。
その日の昼間。田中は新しい商品の資料を持って、取引先を渡り歩いていた。駅前の商店街に、個人経営のお店がある。商品の紹介と仕入れの日程などが終わり、少し世間話をしていた時だった。
「そうだ。田中くん、これいらないかい?」
そう言って、店主は近くの棚から二枚の小さな紙切れを取り出した。それはチケットのようだった。そこには、
「『日本一の星空と出会う旅』?」
と、書かれていた。
「どうしたんですか、それ」
「いやー、家内がね、興味本位で送った雑誌の懸賞で当たったんだけどね。まさか当たると思ってなくてねー。家内は足が悪いでしょう?僕も腰が悪いから行くのは難しいねって話になってね。せっかく当たったのにどうしようか困ってるんだよねー」
どっちかでも身体が元気だったら良かったんだけどね、と眉をハの字にしている。
その横で、奥さんが「懸賞ってほんとに当たるのねー」と楽しげに笑っている。
「いや、でもお客さんからいただくのは」
「何言ってんだよー。知り合いのおっさんからもらったことにしたっていいでしょう」
「もらってちょうだい。近所の人にも娘にも断られちゃって、もうあと田中くんだけなのよ」
困り顔の奥さんにも言われ、田中は悩んだ。
「ほら、ペアチケットなんだから、誰か一緒に行くいい人はいないのかい?」
立てられた小指を見て、田中は項垂れた。
田中の反応を見て察したのか、店主は笑い、奥さんは柔らかい笑顔を浮かべた。
「別にいい人でなくても、日頃お世話になっている人にあげてもいいわ。誰かに使ってもらえるなら、それがいいもの」
そう言われると断れるはずもなく、田中はチケットを受け取った。
次の取引先に向かいながら、田中は誰と行くか考えていた。お世話になっている人と言われて浮かぶのは上司だが、共に行っても自分が星空どころではないだろう。気を遣いすぎて疲れるのは目に見えている。では、懐いている後輩とはどうか。いや、なんだか賑やかしになりそうだ。幼馴染と行くのも楽しいだろうが、それだけで終わってしまいそうでもったいない。両親にあげることも考えたが、やはり自分が行って感想を二人に伝えたい。お世話になっている人で、落ち着いて過ごせて、星空を満喫できそうな人と言えば、一人しかいなかった。
「と、いうわけで、声をおかけしたんですけど」
場所を考えるべきでしたね。すみません。
そう申し訳なさそうに田中は縮こまった。
会社から場所を変え、今は喫茶店に移動している。
「声の大きさもな」
星見に追撃され、さらに頭を下げた。
星見はテーブルに置かれたチケットを見た。
『日本一の星空』が見える長野県阿智村。長野県の南端に位置し、恵那山、富士見台高原および大川入山から、深い谷間をぬって大小の河川が流れ、阿智川および和知野川となって天竜川に注いでいる。平成十八年に環境省が「星が最も輝いて見える場所」第一位に認定した村だ。そこの温泉宿の宿泊と星空ナイトツアーがセットになったチケットだった。
「経理さんには、日頃お世話になっているというか、ご迷惑をおかけしているので、この機会にお礼ができたらと思って…」
星見が天体観測に魅力を感じた場所だった。大人になり、天文学の知識を身につけた今、いつかもう一度行きたい場所だった。
「あ、もしかして彼女さんとかいます?いるならその方と」
「そんなものはいない」
特に共に行きたい相手がいるわけでもない。田中が同行するのも百歩譲って良いだろう。それなのに、星見は答えを出し渋った。
「あーやっぱり、逆に迷惑…ですよね」
落ち込む田中を見て、星見はようやく口を開いた。
「人が…いるだろう。たくさん」
そこなのだ。『星が最も輝いて見れる場所』として認定され、それを基に町おこしをし、メディアに取り上げられると、たくさんの観光客で賑わう場所となったのだ。この前、テレビで特集されていたツアーの様子では、人でごった返していて、思わず引いてしまった。
村にとっては、良いことなのだと思う。しかし、人のいない静寂の中で、澄んだ空気を吸い込んで見たあの空の感動を、人のざわめきで上書きしたくない。
「ツアーには、参加しなくていいんじゃないですか?」
言葉に顔を上げた。
「ほら、ツアーって書いてますけど、ほとんど宿代でしょうし。宿には泊まって、ツアーじゃなくて他の場所で見ればいいんですよ」
「いや、それではツアーの感想を伝えられないだろう」
田中は少し口角を上げて言った。
「きっと、俺がお世話になっている人とここに行って、その人が星に詳しくて、なんなら穴場も知ってて。そこで見た星空はとても綺麗だった。相手の人も喜んでくれた。そんな感想が聞きたいんじゃないかと思うんです」
勝手な想像ですけどね。よく見せる困り顔で言う。
「それに、経理さんなら知ってるでしょ?良い場所」
図々しく星について聞いてくるあの態度だ。
ひとつ息を吐いて答えを出した。
「仕方ないな」
12月某日。天候は快晴。辺りにはうっすらと雪が降り、空気の冴えたそんな日。田中と星見は長野県にいた。
早朝から車を飛ばし、旅館に荷物を置いた二人は、昼神という温泉郷に来ている。足湯に浸かり、長時間の運転疲れを癒していた。顔や身体は冷えた空気の中にあるのに、足が熱いくらいの湯に浸かっているだけで全身が温もっていくのは、なぜこうも気が休まるのか。
「あ〜…極楽極楽…」
あ、今のおっさんっぽい。
星見からの応答はない。ぼんやりと湯気の上がる足元を見ている。
「今日はどうしますか?」
本来なら車中で話し合うつもりだったが、昨日も残業をしていた田中に、星見が気を回して寝かせてくれたのだ。代わりに後半は田中が運転し、その間に星見に寝てもらった。
このまま温泉を満喫するのもいい。行きたい観光地もあるが、正直今日は、ゆっくりまったり過ごしたい。
「夜は、やっぱりツアーには参加しよう」
一人思考に頷いていた田中は驚いた。星見は人混みが苦手で、流行りに乗っかった集団の中には入りたくない人だと思っていた。今回の誘いを渋った理由でもあるのにだ。
目を丸くして星見を見やる。
「もったいないからな」
確かに。星見の解説が聞けないのは残念だが、せっかく無料で行けるのだから使わない手はない。
田中もそう思って、そのまま返事をした。
「じゃあそれまで何します?どこか行きたいとこありますか?」
星見は、数秒言い淀む様子を見せた後、言葉を返した。
「…一箇所だけ」
それならばと、心地のいい湯に別れを告げた。
訪れたのは神社だった。
昼神温泉から車で五分。道の脇に鳥居があり、木々の屋根を潜る。自分たちが地面を踏みしめる音と枝の揺れる音がこだまする。道路を走る車の音も、人混みの音も、どこからか漏れる誰かの生活音も、何もない。
心の洗濯とは、このことを言うのだろう。
狭い参道を、星見の後を歩きながら考える。
「着いたぞ」
前を見れば、広い境内にこぢんまりとした社殿がそこにあった。最近、建て替えられたものだろう。綺麗な木の色をしている。それでも、そこは神聖なものだと感じた。
賽銭を入れ、手を合わせる。
こんにちは、神様。
参拝を済ませると、脇にある椅子に腰掛けて一息つく。
「なんだか、いろんな疲れが浄化されてく気がします」
「…そうだな」
「ここはどんな神社なんですか?」
「阿智神社の、ここは奥宮にあたる。社伝によれば孝元天皇の時、天八意思兼命が御児天手力男神と天表春神を引き連れて信濃国阿智の里に降り、そしてお宮を建て静まったところらしい」
「へえー。ここに来たかったのは、何か理由があるんですか?あ、星空が見えるように願掛けとか」
「いいや…」
では、なぜだろう。理由を言ってくれるだろうか。
答えを待って、星見の顔を見つめる。
「あいさつをな…」
「あいさつ?」
「ああ…」
「こんにちは、おじゃましますって?」
「…そうだ」
「あっはは!」
思わず笑ってしまった。星見から鋭い視線を感じるが、なかなか治らない。
そうだろう。まさか、
「いっしょですね」
同じことをしていたとは思わなかった。
参拝後は昼神温泉で過ごした。
12の温泉施設が無料になる手形を購入し、温泉を渡り歩いた。体の芯から温まり、夜の冷え込みも越えられそうだ。
昼食には蕎麦を選んだ。長野といえば蕎麦だろうという田中の考えだ。同じ温泉に浸かる地元の者から、おすすめの店を聞き出した田中のコミュニケーション能力を見ると、なぜ営業にいるのかわかる。お勧めされた店の蕎麦は、大層美味しかった。
街並みを見て、温泉にも入り、今は旅館に戻るところだ。
入り口で田中が足を止めた。
「なんか、どの旅館も同じ顔の置物がありますね」
田中の視線の先には、藁で作られた“顔“があった。
「あれは『湯屋守様』だ」
「『湯屋守様』?」
湯屋守様は、霜月祭りから帰った湯の神「湯屋権現」が春まで休む間、代わりにこの地を災いから守るとされている。
「昼神の冬の守神だそうだ」
「へぇー。なんかシーサーみたいな顔ですね」
「目的はあまり変わらない。この守神が睨みを利かす期間を『昼神の御湯』というが、この期間中に入浴した者には。神様と同じ湯に入ったとして『入湯の証』が配られる。それが私たちも貰ったこのお札だ」
「え?!これそうだったんですか?!」
変わった形の紙を取り出した。
きちんと見れば『入湯の証』と書かれている上に。形も湯屋守を象っていると気づけるはずだが。感心ばかりで気付く気配はなさそうだ。
「神と同じ湯に入ったなんて、なんか畏れ多いですね」
「君は意外と神を信じるんだな」
「人並みに験は担ぐ方です!」
神と験はあまり関係ない。
旅館で豪華な夕食に舌鼓を打った。そして今は、星空ツアーの開催施設にいる。
多くの人で賑わい、ツアー開始を今か今かと待ち望んでいる。田中もその中の一人だった。その一方で、星見はすでにげんなりしていた。
「大丈夫ですか?」
「…ああ」
参加すると言ったのは星見だが、辞めておくべきだっただろうか。喧噪を煩わしくしている星見を見るとそう思う。
せめて気を紛らわせればと話題を探すが、そういう時に限って出てこない。手をこまねいている間に、入場案内が始まった。
入場ゲートを潜ると、そこは宇宙船だった。コンテナで造られた通路や壁に、宇宙船の内部を彷彿とさせる映像が映し出されている。他の来場者を見れば、星の映像が映されたコンテナを触った。触れたところから花火が打ち上がる効果に変わるようだ。どうやら映像投影技術を利用しているらしい。そのコンテナ内がそれぞれさまざまなスペースになっている。今いるのはメイン広場のようで、ここからどこにでも行けるようだ。
会場とはいえ、天体観測所なのでほぼ屋外だ。温泉で温まった体も冷えてきた。他の人も同じようで、背を縮こませながら、皆一様に一箇所を目指している。その先にはカフェがあった。
自分達もどうかと、白い息を吐く星見に提案しようとしたその時、映像の流れが変わる。
ガコンガコンと音を立てて宇宙船が動き出す。映像は森になり山になり、地球になっていく。太陽系の星々を見下ろし、見知らぬ宇宙を旅していた。そしてカウントダウンが始まる。
5、4、3、2、1…
0になった途端、全ての照明が落ちた。辺りは暗闇に包まれる。
「えっ、えっなに?」
周囲が感嘆の声をあげる中、田中は一人困惑する。
「上だ」
落ち着いた声音に誘われるまま顔を空へ。
無数の小さな光が広がっていた。
「うわー…」
気の抜けた声が漏れ出る。今まで見てきた空は、一体何だったのか。星々の織りなす景色がこんな姿だったとは。先ほどの映像も相まって、宇宙船からこの空を見ているように感じる。
しばらくして元の映像が戻ってきた。ため息が溢れる。
「すごかったですねー」
物足りない気もするが、演出も合わせると十分かもしれない。
「せっかくだし、いろいろ見ていきません?」
「ああ」
まず身近にあったコンテナに入ってみる。そこは、太陽系の惑星が壁面に映し出されていた。試しに触れてみる。触れた惑星の情報が、その惑星を中心に広がった。
「おおー!すごいすごい!」
他の惑星にも触れてみる。同じたくさんの情報が広がる。
最先端技術すごい。
パシャリ
背後からシャッター音。
なんと星見が携帯のカメラを向けていた。
田中は我に返る。
「何撮ってるんすか!」
「テクノロジーにはしゃぐ30代男性」
「まだ20代です!」
年甲斐もなくはしゃいでしまった。顔が熱い。
「経理さんもやってみてくださいよ」
星見の腕を取り、壁の前に連れてきて触れさせる。
おお、と彼が声を漏らすのを、田中は聞き逃さなかった。
笑う田中に、星見はバツが悪そうにする。誤魔化すように他の惑星にも触れている。
そんな星見に、田中はカメラを向けた。
カシャッ
隣には小さなドームがあった。立て看板には、プラネタリウムの文字が。
「プラネタリウムもあるんだ」
「悪天候でも楽しめるようにだろう」
「じゃあ、今日は快晴ですし、ここは見なくても大丈夫かな」
「だがこのMEAGASTARは次世代のプラネタリウムと言われかつこのMEAGASTARⅡは1等星から12.5等星までと肉眼ではみることのできない約1000万個の星を映し出すことができる。小さな星の一粒一粒の存在も忠実に映し出すことによって本物の星空が持つ奥行きと広がりの再現を可能にした。プラネタリウムの中でも双眼鏡を使うと天の川を小さな星の集まりとして観察することが」
「とにかくすごいプラネタリウムなんですね。わかりました入りましょう」
質問もしていないのに星見が話し出したのは初めてではないだろうか。怒涛の情報量に理解は追いつかなかったが、これもまた最先端の機械が導入されているようだ。
プラネタリウムなんていつぶりだろう。小学生以来なのではないだろうか。
質の良い椅子に座る。見上げる角度になるため、ほぼ寝る姿勢だ。眠気が襲ってくる。
しかし閉じかけた瞼は、天体ショーが始まるとほとんど開いたままだった。先ほど見た空に劣らない。むしろ町の明かりや天候が関係ない分、きれいに見える。宇宙の始まりから、星座など、星空の物語が語られていた。
星見が力説する訳である。
次のコンテナは、通路になっていた。抜けた先で、望遠鏡を使った天体観測をしていた。空いている望遠鏡もいくつかあるようだ。置かれているのは初心者でも扱いやすく、上級者にも愛用されるメーカーだ。スタッフに操作を教わった田中は、少し操作しては覗き込み、感嘆の声をあげるのを繰り返している。
そんな彼の姿が珍しく、またカメラを構えてみた。気付いた田中はまたハッとして照れ笑いを浮かべるのである。
他にお土産を売るコンテナもあり、それぞれ部署へのお土産を買った。最後はカフェで温かい飲み物を購入し、ツアーを後にした。当初はいくつもりもなかったのに、存分に満喫してしまった。
「なんだかんだ長居しちゃいましたねー」
「そうだな」
思っていた旅とは違っていたが、これはこれで良かったと言える。熱いコーヒーを飲んで息を吐いた。
「行くぞ」
星見が言った。
どこへ。
彼は含みのある笑みを浮かべている。
「星空と出会いに」
車を走らせること1時間。山道を慎重に進んでいく。車一台がようやく通れる道幅。車の明かり以外に照らすものもない。雪の積もり方も変わってきた。道が封鎖される一歩手前なのではなかろうか。
いつも以上に寡黙になっている星見を見遣る。運転に集中してもらうために、安易に話しかけることはできない。
一体どこへ連れてかれるのだろう。
星空に出会いにいくとはどういうことだろう。
二重の意味で心臓が音を立てる。
まさかこの機会に葬られるのではなかろうか。いつも帰宅するのを邪魔しているから。そういうサスペンスドラマあるよな。
一人悶々としていると、車が停まった。少し開けた場所に出た。駐車場のようだが、他に車は見当たらない。
「降りるぞ」
促されるまま車を降りる。星見は荷台からランタンを取り出して灯を点けた。他に鞄を背負う。
「少し歩くぞ」
車の明かりが消され、ランタンの頼りない灯りのみとなった。
「足元に気をつけろ」
完全に雪道だった。靴の底が埋まるほどの厚みがある。昼に誰か来たのか、数人が通った足跡が残っていた。
ざく、ざく、ざく
二人が雪を踏みしめる音だけが続く。
星見を見失ってはいけない。帰れなくなりそうだ。気づくと左右に木々もない場所まで来ていた。それがまた余計に田中を不安にさせ、視線を星見の足元に縛り付けた。
「ここだ」
久しく聞いていなかった声。心臓が跳ね上がる。
ぼんやりとした灯りの中でわかるのは、雪で覆われた場所であること、背後に天文台のような建物があることだけだった。
「ここ?」
呆けている間に、星見は鞄から敷物を取り出して広げていた。
「ん」
こっちを見る。座るよう目で言っている。
おとなしく座ると、ブランケットが放られてきた。顔で受け止めてしまい、間抜けな声が出る。必死に歩いてきたので寒さは感じないが、ありがたく羽織っておく。すると今度はマグカップが突きつけられた。反射的に受け取ったそこに、水筒の中身が注がれた。コーヒーの香りが鼻を擽る。
いつの間に用意したのだろう。
驚いているうちに、ランタンの灯りすら消されてしまった。
暗闇が広がる。
鼓動は最高潮に達していた。
落ち着こうとコーヒーを啜る。
「コーヒーではなく、上を見ろ」
はっと顔を上げた。暗闇が消えた。視界一面、星空だった。
目が暗さに慣れてくるにつれ、見える星が増えていく。
星々が明滅している。
光の色が違う。
空に模様を描いているみたいだ。
声も出なかった。
確かに今、星空に出会った。
「初めてこの景色を見たとき、圧倒されるばかりで、ただ見上げることしかできなかった。子どもだから仕方なかったとはいえ、それが妙に悔しくて、今まで天文の知識を仕入れてきたが」
腕を枕にして寝そべる星見。ここまで気を緩めた彼は初めてだ。
「この空の下では、そんなものはどうでも良くなるな」
真似をして隣に寝そべる。贅沢な天井だ。
「そうですね」
壮大な景色。木々のざわめき。香ばしいコーヒーの香り。ゆったりと、流れる時間。
なんか、いいな。
長く息を吐き出す。深く空気を吸った。
「では、今日の質問です。今はどんな星が見えているんですか?」
返事は長いため息だった。
仕方ないな。
そんな言葉に聞こえる。
「今の空は、水星がよく見える」
下の方に北極星があるのはわかるか。そこから上へ行くとカシオペアがある。
東…右の方に眩しい星があるだろう。カペラという星だ。
昨日からふたご座流星群が極大を迎えている。
え、そうなんですか。
ああ。
「ほら、今も流れたぞ」
田中翔太は走っていた。会社の廊下を、人の合間を縫って走っていた。
定時まであと一時間。廊下を歩く人たちは、見慣れた光景と、それと思い出す。今日はあの部署への書類の締め日だったなと。もう提出は済んだが、漏れがないよう確認しておこう。各々の仕事へと帰っていく。
「経理さん!」
星見学は思いっきり顔を顰めた。それもそうだろう。時期が時期だ。珍しく彼の机にも書類の山が築かれている。そこに追加するのだ。そんな顔で見られても文句は言えない。
すみません。そう言って書類を差し出す。どうにか受け取ってもらえた。
「お詫びと言ってはなんですが」
田中は紙袋を手渡した。星見が中身を覗くと、近くにある喫茶店のコーヒーだった。
星見はひとつ息を吐いた。
「仕方がないな」
その一言に、田中は笑った。
阿智村とふたご座流星群のお話でした。実は、この話から二人を書き始めました。本当は夏もこのくらいの長めの話を書いていて途中で止まっています。来年はその話を完成させられるといいな。