出会い
趣味のないことが悩みの営業の田中と天体観測が趣味の経理の星見の出会いの話。
すっかり履き慣れた革靴で駆ける。人の間をすり抜け、横断歩道の白と黒も気にせずに。
建物に入って漸く足を止めた。エレベーターの中で息を整えようとしたが、整う前にまた駆け出す。『営業課』と書かれた部屋に飛び入った。
「ただいま戻りました!」
おかえり、と方々から掛けられる声に軽く頭を下げる。机から書類を、鞄から紙切れを取り出し、まとめながらまた駆け出す。エレベーターが暫く来ないのを横目で見て、階段を駆け上がる。今度は『経営課』と書かれていた。
「お願いします!」
飛び込み一番頭を下げた。疲労とは違う鼓動が大きく鳴る。勢いよく顔を上げた。
「本日の受け取りは終了しました」
眼鏡を掛けた男性から冷たく放たれた。ぐう、と膝から崩れ落ちた。
間に合わなかった。
提出しようとしたのは昨日の出張分の旅費だったのだ。駆け込めば間に合うと思ったのだが、想定より帰社に時間が掛かってしまった。
「また田中じゃん。滑り込みアウトー!ってか」
同期に笑われるが、頼みの綱と縋り付いた。
「そこなんとか頼む!今月きつくて」
「俺も今日は立て込んでて、定時に帰れるかどうか」
「そっか…」
人の定時帰りを妨害する趣味はない。諦めよう。
ん、と手が差し出された。見るとそれは、先ほど断られた社員だった。
「いいん…ですか?」
「今回だけだぞ」
眼鏡の、他部署の人まで名前を覚えていないが、仮に経理さんと呼ぼう。経理さんが輝いて見えた。
「ありがとうございます!」
棚に手をつき、さながら土下座のように頭を下げた。
駆け回って疲れ果てた足をなんとか引き摺って帰宅する。玄関で倒れかけるもなんとかソファまで辿り着いた。安物の硬さが体を受け止めてくれる。
今週は散々だった。電車が遅延して営業先に遅刻しかけ、すれ違いに肩がぶつかり相手が持っていたコーヒーがシャツにかかり、溝に嵌ってこけて…と。最後に旅費の処理が一月伸びていたら踏んだり蹴ったりだった。あと1日頑張るためにも、あの経理課の同期には悪いが今日は定時帰り。何をしようかとスーパーで買った惣菜を食べながら思案する。…何も思い浮かばない。
田中翔太。24歳。食品メーカーの営業課に勤める会社員である。悩みは、趣味がないこと。大学を卒業して一年経って気づいたことだが、こうやって早く帰宅しても、することがないのだ。スマートフォンをぼやっと弄って時間が過ぎるのみ。家での生活の充実感がもてないのである。得意なことを趣味にしてはと思ったが、帰ってからスポーツをする気力はなく、観戦するほど興味のあるスポーツはない。絵画の才も並。読書に親しめるほど物語に没頭できたことがない。つまり、人に胸を張って言えるほどの特技もない。結果、時間を持て余してしまうことが、もっぱらの悩みだった。
「趣味欲しいな…」
一人の部屋にポツリと落ちた。
会話が混ざり合う。人々は束の間の休暇を前に盛り上がる。ある人々は冷えたジョッキを勝ち合わせ、ある人は熱い御猪口を片手に料理に舌鼓を打つ。ここは居酒屋。一人客もいれば、団体客もいる。それぞれが酒を楽しんでいた。
田中は、店員でもないのに注文を取りまとめる。届いた料理や飲み物を配膳するも、こっちはまだかと責め立てられる。なんとか配り終えて役目を終えると、一息吐きながら自分の席に戻った。
「お疲れ働き者ー」
「働き者も何も、今日の幹事役がくじで決まっただけですし」
営業課は幹事役をくじ引きで決める風習がある。運悪く当たりを引いてしまったために、会社の飲み会でも働くことになったのだ。
「なんだ?いじけたみたいに。悩みでもあんのか?」
言ってしまおうか。酒のせいで思考も緩くなっているようだ。上司でも酒の席でくだらない悩みを明かしても笑ってくれるだろう。
「俺、なんの趣味も特技もなくて。帰ってもやることがないんですよ。今週はいいことないし、なんかないですかねぇ?」
俺たちと飲みに来てるのはいいことじゃないのかともみくちゃにされる。飲んで嫌なこと忘れろと一笑される。そんなものだ、自分の悩みなんて。注がれた酒を飲み干そうとグラスに口をつけた。
「今夜は」
今まで静かだった眼鏡の男性が口を開く。経理部で書類を渡したことがある。以前助けてもらった経理さんだ。
「みずがめ座流星群が極大だから、もしかしたら見られるかもしれん」
流れ星にでも願ってみたらどうだ。
いつもは誘われるがままに参加していた二次会をなんとか断り、家に帰ることにした。帰ってもすることがないのに。今日は違った。
流れ星にでも願ってみたらどうだ。
言葉が頭の中で返ってくる。経理さんの言葉だ。
空を見上げながら帰りたい。
そう思った。
郊外にある家までの道は暗い。住宅の窓から漏れる光や街灯の明かりが時折道を照らすのみである。明かりのないところで空を見る。小さな光がそこにあった。頭の重りで後ろによろける。少し進んで見上げては、よろけるまで光を眺める。
見えるかな。まだ流れないだろうか。もしかしたら今かもしれない。
気分が高揚しているのが分かる。酒のせいだけではない。今まで通っていた道が違って見えた。そういえば星座なんてものもあるのだった。あれはなんて星だろう。
家に着いて、明かりも点けずにベランダへと向かった。
「こんな景色だったっけ。ここから見えるのって」
思わず呟く。三階という高いような低いような階にある部屋だが、丘の上に立っているおかげで見晴らしがいい。ここからの景色がこんな顔をしているとは。空をまた見る。帰り道より明かりや遮るものが減って、黒い海が広がっている。海の中に、強弱の違う光が散りばめられていた。光は集まっていたり、ぽつりとひとつだったり。チカチカと明滅している。夜風が火照った頬を撫でていく。
まだかな。まだかな。
時間は流れていく。でも、それも悪くない。
まだかな。まだかな。
「あっ、流れた!」
時計が業務の終わりを告げる。まだやることは残っているが、離席してもいいだろう。エレベーターで五階に上がる。
経理さんにお願いしたいことがあるのだ。きいてくれるだろうか。
目的の部屋に入るが、姿が見当たらない。
「あの」
と近くの人に聞こうとしたが名前が分からない。
「その席の経理さんは?」
「ああ、帰ったよ。書類なら預かるけど」
「いやそうじゃなくて」
そんな!遅かったのか!
「でもさっきだから急げばロビーで会えるんじゃないかな」
別に急ぐわけじゃないけど。金曜日から高揚感が残っていたみたいだ。足は勝手に動いていた。
階段を駆け下り、たった今エレベーターを降りて出口に向かっている背中を見つけた。
「あのっ」
名前、名前をそういえば聞いていない。
「あのっ!経理さん!」
何事かと足を止める人がちらほらいた。彼は止まらない。思わず腕を掴んだ。
「俺に世界を教えてください!」
経理さんは目を丸くしていた。
これが田中翔太と星見学の出会いだった。
作者は天体のことはさっぱりですが、調べて物語に取り入れるのが楽しいです。これから星を中心に物語を書いていきますが、間違っていることもあるかもしれません。すみません。
二人の関係性にほっこりしてもらえれば幸いです。