何を言っているのかわからないエッセイを読んだ話。
※作中の「中流作家の定義」についてのエッセイはエッセイ主によって削除されたようです。本来ならその時点でこのエッセイも取り下げるべきかもしれませんが、今後同様のことを言う人がもしかしたら現れるかもしれないという可能性を考慮し、このまま公開にしておきます。
「中流作家の定義」についてというエッセイを拝読しました。
的外れすぎて失笑してしまいました。ツッコミどころが多過ぎです。
主だったものを列記していきましょう。
①「なろう」内にて“中流作家”という呼称は一般的ではない。
「なろう」を利用させていただいて数年ほどではあるのですが、私は“中流作家”という呼称を見た記憶がありません。
「なろう」独自のワードというものは確かにあります。わかりやすい例で言うと“割烹”などでしょう。“活動報告”を略しての当て字なわけですが、これはそこかしこで見かけますので「なろう」内では一般的な呼称と言えるでしょう。
“割烹”のような「なろう」内で一般的な呼称に対して異議を唱えるのでしたら件のエッセイもまだ理解できるのですが、「なろう」ユーザーのほとんどが使っていない呼称について不満を聞かされても、読んだこちらとしては理解できません。
②そもそも“中流作家”という呼称が礼に失している。
件のエッセイ内でもう一つ使われている呼称があります。
“底辺作家”です。
これに関しては、私も「なろう」内で見かけたことがあります。ただし、この呼称の使用は「自分自身」に対して使われている場合がほとんどです。使っている人は自身を自虐的に揶揄して使っているわけです。
他人に対して“底辺作家”という呼称を使っている人はほとんどいないでしょう。ただの罵倒です。
つまり、他のユーザーを直接的にも間接的にも“底辺作家”と呼ぶのは失礼以外の何物でもありません。
これは“中流作家”という呼称も同様です。
「あなたは“中流作家”です」
と面と向かって言われてもほとんどの人は喜ばないでしょうし、逆に怒りを覚える人の方が多いように思われます。
そんな呼称に定義が必要なのでしょうか。
③自分が“中流作家”と思われたいだけ。
件のエッセイに記載されている“中流作家の定義”は“1000Pt以上の評価”だそうです。そして、件のエッセイの冒頭で件のエッセイ主の別作品が“1000Pt以上の評価”があったと喜んでいます。
繋ぎ合わせれば結論は出ます。
要は自身が“中流作家”と呼ばれたいがためにあるかないか不明の“定義”を変えようと言っているわけです。
ただのわがままです。
なぜ、そんなわがままに付き合わさなければいけないのでしょうか。
またこのエッセイのあとがきに「凡人は100pt未満になるのが当たり前」という言葉もあり、100Pt未満のポイントの作品を卑下しているわけですが、本人は気付いていないようです。
「なろう」の“評価”は、現在「応援」という名目で運用されています。ポイントが付いていないからと卑下するような考えは「なろう」の理念から外れるのではないでしょうか。
そして邪推になりますが、このエッセイ主は自分が“中流作家”だからと“100Pt未満のポイントの作品の作家”を卑下していいと考えているとも読み取れてしまうのですが、件のエッセイ主は気にしないのでしょうか。
大きなツッコミどころはこの3点です。
細かいのは他にも多々あるのですが、ありすぎるのでここでは控えます。
私が言いたいのは、「なろう」内で他のユーザーの方を“中流作家”や“底辺作家”と呼ぶのは単純に失礼なのでやめましょう、ということです。
匿名の掲示板とは違うのです。
最後に、件のエッセイにポイントを付けた人は“中流作家”という呼び方に違和感を覚えなかったのかと不思議に思います。
(追記という名のその後の顛末)
件のエッセイ主は件のエッセイを削除した後、その理由(それも意味がよくわからない)を活動報告、しかも件のエッセイと関係ないタイトル・内容の活動報告についでのように謝罪のようなコメントを残していましたが、それも数時間後に削除。
そして、先ほど活動報告に「書くものない」とコメントが書かれいたので私は呆れました。
件のエッセイの削除理由をきっちり書くべきでは?
私のエッセイのPV数が現在590なので、少なくとも二百人くらいは今回の事の成り行きを見てると思いますよ。その方達に説明しないでいいのですか?
信用を失いますよ?
私としては本人がそれでいいと言うなら構わないのですが、「書くものない」というコメントが開き直りに見えたので一言言いたくなりました。